見出し画像

再掲載:sugar plantインタビュー

KKV Neighborhood #180 Interview - 2023.08.13
インタビュー、構成:与田太郎

このインタビューは2018年にsugar plantが18年ぶりのアルバム『headlights』をリリースしたタイミングにキリキリヴィラのサイトに掲載されたものである。先日アメリカの7th Heaven Recordingsから1998年リリースの『happy』がカセットで再発されたので再掲載しようと思う。僕にとってsugar plantは価値観の大きな変動に伴い、社会と自分の関係性を見直さざるを得ない青年期の危機をスクラムを組んで共に乗り越えた仲間なのである。1996年の『after after hours』から翌年の『trance mellow』そして1998年の『happy』までの3部作は自分の人生と分かち難く結びついている。この時期ほど音楽を作るということの意味を考えたことはない。それはその後から現在までの自分の制作の指針となった。これまであまり語られることが無かったこの時期の作品の背景には、いかに彼らが独自の道を歩んできたのかがよく現れている。

happyカセット再発

オリジナルのインタビューは2018年4月20日にKiliKiliVilla Magazineに掲載

シュガー・プラントの18年ぶりのアルバム『headlights』が5月16日ついに発売となる。94年に彼等に出会い、1stアルバムのリリースからの付き合いはもう24年にもなる。その長い期間、彼等は僕にとっていつも音楽について語りあう対話の相手であり、また様々な人生の危機を共にスクラムを組んで乗り越えた仲間でもあった。そのあたりの詳細は『headlights』と同時に発売となる『trance mellow』のリマスター再発盤のライナーに書いたので、興味のある方はぜひ再発盤をチェックしてほしい。
今回のインタビューではこれまでほとんど語られることのなかったバンドの歴史とサウンドの変遷を中心に語ってもらった。あまり知られてないことだが、シュガー・プラントは過去にリリースしたすべての作品が海外でもリリースされている。その経緯や90年代のダンス・カルチャーに直面した時になにを感じ、どんなアイデアを得てきたか当時の写真やツアーの記録と共にまとめてみた。 本日から『after after hours』『trance mellow』『dryfruit』がSpotifyとApple Musicで配信となっている、インタビューと一緒にどうぞ。


sugar plant / headlights

ー まず二人の出会いを教えてください。

小川 大学生の時に一緒のバンドで。

千夏 でも同じ学校ではなくて。

小川 そう、慶応大学のサークルで組んだバンドなんだよ。

ー 小川くんは法政で千夏ちゃんは早稲田だよね。

小川 そう、俺の高校の同級生が慶応にいて、彼女がメンバーを集めて。そのサークルは学外の人もOKだったんだよ。そのサークルに千夏の高校の同級生もいて、そこで出会った。

ー なるほど、千夏ちゃんは同級生にベースを頼まれたってこと?

千夏 そう。

ー 小川くんもそのバンドのメンバー?

小川 そう。

ー そのバンドはどんな曲やってたの?

千夏 ローザ・ルクセンブルグのコピー・バンドでサッシー(指澤:シュガー・プラントのライブ・メンバー、ドラム)がボーカル。

ー そうなんだ、指澤くんがボーカルだったんだ。それは大学1年の時?

小川 そう、1989年か90年。

千夏 89年じゃない?

ー 89年だともう洋楽聴いてるよね?

小川 ロッキン・オンもストーン・ローゼズ一色だった。俺が大学入った時法政のサークルの先輩はみんなコステロとXTCやってて、マンチェがはやり出して、レコード店に通うようになったのもこのころ。

ー 千夏ちゃんは高校生の時何聴いてた?

千夏 私はナゴム・ギャル(笑)。

ー ほんと?それはじめて聞いたよ。

千夏 それとゼルダのコピー・バンドとか。

ー 有頂天とか好きだったの?

千夏 有頂天好きだった(笑)。高校が横浜で、ゼルダのサチホが好きで。

ー 楽器をはじめたきっかけは?

千夏 中学生の時に好きだった人がベーシストで(笑)。

ー 80年代の高校生って感じだね、洋楽は聴いてた?

千夏 洋楽は大学入ってから、ベース弾いてたからパーラメントとかP-FUNK聴いてた。

ー 黒いんだね。

千夏 ベースだしね、ローザのベースも黒いしそういうファンキーなものが好きだった、ボガンボスとか。

ー 小川くんがギターを持った理由は?

小川 勉強も運動も好きじゃなかったからなにか自分の特技がほしいと思って、中学3年でギター買って。当時はトップ40とかチェックして、全英トップ20とか深夜ラジオばっかり聞いて。でもデュラン・デュランとかギター弾いても楽しくなくて(笑)、キーボードにすればよかったかなって(笑)。同級生はラウドネスとアースシェイカーだし、それも嫌で。だから高校入ってあんまり洋楽聴かなくなって。
チャートも85年からつまらなくなったっていつも言うんだけど、リチャード・マークスとか出てきて、もうダメだって(笑)。それでちょうどブルー・ハーツが出てきて文化祭もブルー・ハーツ。大学に入ってまた洋楽聴きだしたんだよね、89年ぐらいから面白くなってきたでしょ。

ー 大学のサークルは洋楽好きが多かった?

小川 そうだね、みんなバニーメンとか聴いてたし。高校のときにはそういう人が周りにいなかったんだよね。さっき話した慶応のサークル・バンドもローザのコピーのあとはオリジナルをやろうってことになって、その時はもうマンチェっていうかストーン・ローゼズみたいなのやろうってなった。けど、やる前にバンドが立ち消えた。

ー そうなんだ、二人はマンチェ好きじゃないじゃない、ネオアコもギター・ポップもちょっと違うってイメージなんだけど。やっぱり時代の勢いかな?

小川 そうそう、リスナーとしてはマンチェって自分たちのムーブメントだと思ったし。上の世代のパンク、ニューウェーブも違うと思った。マンチェは自分の世代の感じがあったから、それこそ吉祥寺のハッスルとか行ってたよ。

ー でもシュガー・プラントはまた違うよね?

小川 そうだね、大学3年のときに旅行でニューヨークに行って、1992年に。その時にヴィレッジ・ボイス見てライブ行きまくって、これまでCDでしか知らなかったバンドを見て、この感じなら自分たちでもできると思ったのが始まり。次の年に千夏やサッシーやエノちゃんも一緒に行って、それが確信になった。その頃はもうラフ・トレードとかで7インチ買い漁るようになってたし、そういうバンドが20~30人の前でライブしてるの見て、この感じでいいんだって思って。それで帰ってきてすぐにデモを録音したんだよね、それがシュガー・プラントのはじまり。はじめはMTRだったけど、すぐに曲がまとまって、安いスタジオ借りてレコーディングして。

ー それが『hiding place』の曲?

sugar plant / hiding place (1995)

小川 そう、「all alone」と「summer days」。

ー はじめからあれができてたんだ。ニューヨークではどんなバンド見たか覚えてる?

小川 マダー・ローズとか、ジョン・ゾーンとか。

千夏 ヴァーサスとか再結成のテレビジョンも見たよ。

小川 とにかくなんでもかんでも見て、フェイス・ヒーラーズとか。それでアメリカでバンドがこんな感じでやってるのか、ってわかって。それは行かなきゃわからなかったことだよね。それで曲を作り始めたのがシュガー・プラントのスタート。

ー 始めのレコーディングのメンバーは?

小川 いま、あらかじめ決められた恋人たちでテルミン弾いてる栗原さんがドラムでの3人。

ー そうか、まだ指澤くんじゃないんだ。

千夏 栗原さんも録音のためにドラム叩いてもらって。

ー それでまず2曲できて、それから?

小川 その2曲をカセットにしてヴィニールとラフ・トレードに置いてもらって、で当時持ってた7インチのレーベルで合いそうなところをリストアップして送ったんだよ。最初は聴いてくれたらぐらいの感じだったんだけど、そのうちリリースしようって返事がいくつかきて、じゃあまた録音しようってなって。それで7インチが3枚ぐらい海外から出て、それでボストンのレーベルがアルバム出そうって言ってきたんだよ。それをちょっとずつ録音して。

ー 完成したあたりで俺が連絡したんだね?

小川 そう。

ー 94年の秋ぐらいにはじめて会って、95年には『hiding place』をリリースして、夏には二人をパーティーに連れて行ったんだ。たしか8月のスピーク・イージー(六本木の貸スペースで行われていたレイヴ・パーティー)だったよね。

小川 ホコ天のキーエナジーも同じ年だよね?

ー そう。94年、95年ってマンチェは完全に終わって、ブリット・ポップが始まって、アメリカはマタドールやマージみたいなインディーが盛り上がってるタイミングだね。

小川 グランジもあったし、アメリカのインディーは盛り上がってたよ。活気あって、なにか新しいものも生まれそうな空気だった。ペイヴメントが出てきたり、インディーもいろんなバンドが出てきて。個人でも小さなレーベルやれたし、そういうとこから面白いバンドが出てきたりしてた。インターネットはなかったけど、面白い感じだった。日本でもワンダー・リリースとかが出てくる前のインディーってナゴムとかになっちゃうでしょ。90年代に入って新しい価値観がうまれたんだと思う、世界的に。だからシュガー・プラントでアメリカ・ツアー行ってローカルなバンドと対バンした時にそのバンド知ってたりすると、なんでお前こんなマイナーなバンド知ってるんだ?みたいによく言われたよ。こっちは7インチとか買いまくってたからなんだけど。当時はやたら詳しかったしね。

ー 『hiding place』が出たころは、二人も大学卒業して就職してるよね?

小川 そう。

ー 『hiding place』は日本とアメリカでそれほどタイムラグがなく発売になったよね、それですぐに最初のアメリカ・ツアーをやった?

小川 そうだね、あれは3月か4月に20ヶ所ぐらいだっけ?

ボストンのライブハウスのスケジュールとニューヨークのライブ告知

ー そのツアーのブッキングとかどうしたの?

小川 レーベルだったポップ・ナルコティックがツアーに来いって言うから、じゃあ行こうかっていったらブッキングしてくれて、アメリカついたらこういうスケジュールでって渡されて、毎日ライブが入ってた(笑)。

ー え、行くまでわからなかったの?

千夏 最初いくつかわかってて、全体が見えたのはアメリカに到着してから(笑)。

ー そうだね、ネットのない時代だもんね、手紙とファックス。

小川 でも行ってわかったんだけど、ファックスとかでアメリカ中の小さなライブハウスをネットワークしてるエージェントがいて。

1995年ツアーのフライヤー

千夏 ツアー・バンド専門にブッキングするエージェンシーみたいなのがあって、だいたいコースも決まってたと思う。

ー 移動はクルマでアンプも持ち運び、みたいな情報はあった?

小川 クルマは最初に言われた、アンプも指定したら用意してくれたような…、あれ借りたっけ?

千夏 1年目はそのハコにあるものとか共演のバンドのアンプ類を借りて回ったの。

小川 そうだ。

千夏 他のバンドはみんな機材持って回ってたから翌年からはニューヨークで機材をレンタルして出発したよね。

小川 最初の年はとにかくどうなってるかわからなくて、やりながらいろんなことがわかったって感じ。

千夏 最初は楽器持ってニューヨークに遊びに行くつもりで、足代も自分たち持ちでいいと思ってたしね。

ー その時のツアーで共演したバンド覚えてる?

小川 1年目どうだったかなー、ロウ(Low)はこの時だっけ?

千夏がメンバーからもらったLowのセットリスト

千夏 ミネソタには1年目は行ってないよ。1年目はボストンとニューヨークで…、アンダー・アクメにギャラクシ−500のディーンが来てくれたり。テープ送ってあったから、ふらっと見に来てくれたんだよね。 (後日日程表をチェックしたらミネソタには行っていないけど、イリノイでロウと共演していた)。

小川 あとどんな場所でやったかなー、ほんと記憶がない(笑)。

ー なにか記録残ってないの(笑)?

千夏 ないねー、あっ私日記つけてある!

ー それで一覧作ってよ、今となっては貴重な資料だよ。

小川 ツアー・マネージャーだったもんね。

千夏 そう、全部日記に書いてる。でも字が汚くて小さいんだよなー。

ー 95年のツアーが終わって、帰ってきたらすぐに『cage of the sun e.p.』を作ろうって話になったんだっけ?

小川 いやいや、『cage of the sun e.p.』は向こうで録音したんだよ、ボストンで。

ー あれ、日本でも何曲か録音したよね?

小川 それは日本盤を出すにあたって2曲追加したんだよ。

ー そうだ。

小川 ボストンにいる時にせっかくだからレコーディングしようって言われて、1日か2日でね。

千夏 そうだったね、私あの時脱走したなー。

ー しんどくなって?

千夏 そう、ボストンの街をふらふらさまよって(笑)、ひとりでラーメン食べてステイ先に帰って。

ー 当時、『hiding place』のレビューとかってアメリカでも出てた?

小川 出てたよ、カレッジ・ラジオに出演したりもして。

学生新聞に掲載されたライブ告知

千夏 当時のレビューとかも切り抜いて取ってあるはず。それなりに話題になってたと思う。

ー 意外に知られてないけど、シュガー・プラントってこれまでリリースした作品が全部海外でも出てるよね。日本でもまだ洋楽好きが多かった時代なんだけど、あんまりそういうところに届かなかったよね、俺もその理由はわからないんだけど。

小川 でも当時って洋楽好きな人は洋楽しか聴かないし、日本のバンドを聴くのってかなりハードル高かったんじゃないかな。

ー それあるかもね。

小川 ヴィーナス・ペーターぐらいなら俺も買ってたけど、マイナーなバンドってなると難しかったんじゃないかな。そういうバンドもまだ少なかったし。

ー そうだね、いわゆる渋谷系とも違うし。

小川 俺たちも海外の7インチばっかり聴いてたし、そういうバンドに対するシンパシーはあったけど日本のバンドはシトラスぐらいしか聴いてなかったんだよね。そういう意味でも独自の視点でやるしかなかったし。

千夏 新宿のヴィニールが呼んでた外タレの前座とかはやってたよ、TVパーソナリティーズとかプー・スティックスとか。

ー あの時出てたんだ、それは貴重な体験だよね。それはアンティノックだよね?

小川 そうそう、その時にシトラスも一緒だったんだよ。

千夏 ヴィニールにカセットを置いてもらってたから呼んでくれたんだと思う。

ー もう俺たちが知り合ってるころじゃないよね?

小川 ちょっと前だと思う。ヴィニールの社長から電話かかってきて、出ない?って。

ー それは埋もれた歴史だね。

小川 そう、そういうレベルで外タレが来ることもそれまではなかったし。クアトロじゃなくてアンティノックだからね。

ー そういう層も95~96年あたりから減ってきたんじゃないかな。俺たちもロックじゃなくなるし(笑)。

小川&千夏 そうだよね(笑)、レイヴの時代(笑)。

ー 1stが日本とアメリカで発売されて、春のアメリカ・ツアーから帰ってきた夏にパーティーに突入だもんね。あの価値観の転換がなければ、シュガー・プラントはインディー・ロックのままだったかな?

小川 メチャ渋い感じだったんじゃない(笑)でももともとヴェルヴェット・アンダーグラウンドが好きで、ヴェルヴェット・チルドレンみたいなバンドが好きだったって部分は変わらないと思う。ヴェルヴェットも意識拡張っていうか、視点の変化みたいなテーマがあるでしょ。だからパーティーに行って、もうヴェルヴェットなんか聴けないってなってたら話も違うけど、むしろこれさらにいい(笑)、みたいな。俺たち間違ってなかった!(笑)的な。

ー そうだね、ドアーズとかピンク・フロイドのリアリティーがほんとわかったもんね(笑)。

小川 そうそう、そういう意味でも自分が好きだった音楽を体感できたのは大きいね。

ー 俺は95年の7月にはじめてパーティーに行って、8月か9月には二人を誘ってるんだよね。俺がその時どういう誘い方したか覚えてる?

小川 とにかく凄いから来いって言ってたよ(笑)。

千夏 ソウタもオキシュンもいたよね。 (高木壮太と沖野俊太郎)

ー そう、俺の周りのミュージシャンほとんどに声かけたもん。

小川 面白いエピソード満載だよね。

千夏 懐かしい(笑)

ー でもさ、一夜でなにかが変わったよね?

千夏 ほんとね、あの日のスピーク・イージー(前出の伝説の六本木のクラブ)の感じは一生忘れないね。

ー あのメイン・フロアからチルアウト・ルームに行く途中の寿司カウンターとかね(笑)。

千夏 そうそう!(笑)、あとイエロー・クマさん(回転する影絵を壁に映すアーティスト)とか。

ー あの95年の夏から98年ぐらいまでの、あの濃厚な時間すごかったね。

千夏 いま思い出しても胸が熱くなるもん。

1996年12月リリースの『trance mellow』、2018年5月リマスターで再発

ー その時間の中で『after after hours』、『trance mellow』、『happy』と3枚作るでしょ、この3枚がいまでも自分の人生にわかちがたく入り込んでるんだよね。けれど世間にはそこまで伝わらなかったって思いもあって、それは今でもよく考えるね。

千夏 そうだね、でも20年以上たった今でもまだ少しづつ広がってると思うよ、それは凄いことなんじゃないかな。自分たちが望んだかたちではないけど、残るものにはなってるんじゃないかな。

ー 確かに。

小川 でも世の中を変えてやるみたいなことではなかったし。

ー 俺は自分がやるってことよりも、パーティーに対して世の中が変わる瞬間に立ち会ってるいう意識は凄いあった。ただ踊ってるだけなのに(笑)。

小川 パーティーはね。でも毎週踊っても、結局踊ってない時間で何するかが大事でしょ。パーティーに対しても真剣だったから毎回いろいろ考えるよね、ただ踊ってるだけじゃなくて成長しないと。いつもなにかを掴もうとしてたし、それは帰ってから聴く音楽でもあるし、生き方みたいなことも考えたよね、もう忘れてるけど(笑)。

ー そうそう、わかったって思った瞬間ってわかったという実感はすごいんだけど、何がわかったかは説明できないんだよ(笑)。

小川 音楽の理解度は相当増したよね、それを自分たちでどう消化するかって話で。想像するしかなかった今までのロックの歴史みたいなものもはっきりわかってくるでしょ。

ー そうだね。

小川 だから2回目のアメリカ・ツアーだと、もうどのバンドの家に泊めてもらってもすぐ水パイプが出てきちゃう(笑)。ちょうど音響派が出てきたタイミングで、マイクロストリアとかオヴァルとかをアメリカ人はみんな水パイプで聴いてて(笑)、日本だとそういう聴き方してないよね。その感じが早めにわっかたのよ(笑)。日本のメディアの取り上げ方もすごく理屈先行で。それを自分たちの音楽にどう取り入れるかって考えてた、つまりその感覚が新しいものだったんだよね。

1996年のUSツアーのフライヤー

ー そうだね、フィラデルフィアで『after after hours』を録音して、そのまま2回目のツアーに出た時だよね。そこでもう意識的にダンス・カルチャーから派生した感覚を取り入れたね。

小川 たださあ、それも日本では説明できないんだよ。だってパーティー・シーンもまだ300人とか500人の時代じゃない。これがヨーロッパだと全然違ったと思う。でもアメリカではわかってもらえたわけ、それで間違ってないと思うんだけど。売れてやろうってことよりも自分の感覚に従ってどんなものが作れるかが大事で、わりと真剣で求道的だったよね(笑)。それがいちばん楽しいし。

ー シュガー・プラントは考えて、方法論を構築しながら乗り越えようっていう意思が強かったからね。なんとなくっていうのが少なかった。俺がパーティーに連れて行ったミュージシャンもほとんどがストレートにダンス・ミュージックに影響されて、そのままやってしまうことが多かったけど、二人はまず受け止めて自分たちの感覚でアウトプットしたね。

小川 そこは意識的だったよ、そのままやってもしょうがないと思ってたし。ヨ・ラ・テンゴとかにしてもそういう感覚で少しづつ広げてるとこあるし、ヴェルヴェットがいまならどうする?みたいな問いもあると思うし。パーティーがそういうふうに考えるきっかけになった。
ルー・リードがいまのパーティーに来てたらどうしただろうとか(笑)。

ー 小川くんの面白いところはそういうアイデアを音で表現しようとするとこだよね。

小川 ルー・リードはそういう実験も実際にやってたんだ、てこともわかったし(笑)。

ー 『メタル・マシーン・ミュージック』とかね。

オ そうそう、こっちがわかってなかっただけでね。

after after hoursのレビュー

ー 『after after hours』のレコーディングは96年の春で、この年の8月はレインボー2000じゃない。あの日すごく印象的だったのは、あんなに入れ込んだTokyo Techno Tribeがまったくダメだった。夜中のアンダーワールドは最高だったのに楽しみにしてきたT.T.T.が1曲目の「Enlightened Evolution」でいきなりなんか違うってなって、みんなで駐車場行って「Chirdren」聴いたでしょ。あの瞬間から鳴ってる音だけじゃ満足できなくなって、自分たちで曲を選ぶようになったよね。

千夏 部屋で集まるようになったね。

小川 こっちの方が楽しいって。会場まで行ってフロアに行かないこともあったしね(笑)。1年でそういう段階に入ったね(笑)。

ー 『after after hours』のレコーディングから壮太くん(高木壮太)が参加したのはどうしてだっけ?

千夏 与田さんが紹介してくれたんだよ(笑)。

小川 その前にスリッツでブルー・ボンゴスと対バンした時に紹介してもらったと思う。

ー そうか、じゃあ『after after hours』をアメリカで録音してツアーもやるからって頼んだんだね。

小川 いや、壮太はレコーディング終わりで帰ったんじゃなかったっけ?『after after hours』も録音は終わったけど、そのツアーでは演奏しなかったはず。

ーそうか、その時のツアーはキーボード抜きの4人編成なんだ。あー、思い出したニューヨークで遊んだ時だね。

小川 そうそう、いろいろあった時だよ。

ー2回目のツアーは東海岸?

小川 いや、西海岸もやったよ、全部で30ヶ所ぐらい。

ーその時の共演バンドは?

小川 シルバー・アップルズとかロウだった、印象に残ってるのは。

1997年のUSツアーのフライヤー

千夏 でも他にも面白いバンドがいっぱいいたんだよ、思い出したいんだけど…。

小川 日本に情報が入ってこないようなバンドでもいいバンドがいて。

千夏 そういうバンドにも影響受けながらツアーしたね。

小川 そうだね、俺たちも受け入れられてたって実感もあったし。そのツアーで、ちょうど俺たちが空いてる日にジュノー・リアクターがテキサスに来るから見に行ける!みたいなこともあった、遠すぎて行かなかったけど(笑)。『after after hours』レコーディングのあとのツアーが終わって、日本に帰ってきてすぐに『trance mellow』を作りはじめたよね。

ー そうだね、秋にはレコーディングしてる。

小川 レコーディング終わった日に新宿のココロコ(居酒屋を貸し切ってのレイヴ)でやってるパーティーに行ったんだよ(笑)。

ー そうだった!

小川 『after after hours』の勢いで連続で作ったんだよ、リマスターする時に聴いたけど、凄い変なの作ってるよね(笑)。『trance mellow』がそういうパーティー・ライフのど真ん中の時の作品だね。

ー 『after after hours』の日本盤が96年の8月発売で、アメリカ盤が97年の3月か。

小川 そう、『after after hours』をベックがツアー・バスで聴いてたとか、アメリカで評判がよかったんだよ。

ー まだインターネットがそんなに普及してないから、アメリカでの評判とかがまったく日本には入ってこなかったのが残念だった。まあキャニオンからの発売だったし、ようやく国内のメディアにも少しづつ出るようになって。それでも96年、97年に日本のオーディエンスにとってはすぐ理解できるような感じではなかった。

小川 そうだね、それはほんとにあったね。

ー この時期、ほんとに色々ありすぎだね(笑)。96年の9月に荒崎海岸に行ったじゃない、その後茅ヶ崎になるんだけど、ラジカセ持って。小川くんが焚き火しながら「ライト・マイ・ファイアー」かけた時(笑)。このタイミングぐらいからいろんな音楽をもういちど読み込むっていうか、新しい耳で聴き直しはじめるんだよ。

小川 あったねー、あのパーティーじゃなくて独自のヤツね、4~5人の。

ー そうそう(笑)。ある意味あの体験が俺たちの原点だと思うよ。

小川 パーティーが終わってからが勝負っていう(笑)。あの曲聴かせちゃうぞ、的な(笑)。そこで考えた情報量って相当だよね、まじめに音楽に向き合ったね。それも仲間がいたからだよ、一人でやってたらおかしいヤツだよ(笑)。

千夏 そうね(笑)。

ー ほんと壮太くんのバカ話とか面白すぎたね(笑)。

小川 パーティーに行っても、このキックの音に、この上物が~、みたいなことばっかり考えてた(笑)。そういうのが血肉になってるのかね。やっぱり発見を自分なりに消化して、バンドに反映するのが大事だったんだよ。

ー 音楽に夢中だったね。『trance mellow』発売後はダンス系のイベントにも出演するようになって、普段のライブでもブラック・ライトをステージに仕込んだり、キャンドル・ジュンくんにローソク頼んだりして、いろんな工夫したじゃない。普通パーティーに影響されるとDJやったりするんだけど、シュガー・プラントはバンドであることにこだわったよね。

小川 いま過去作を聞き直しても、もちろん足りない部分もあるんだけど、いいとこも多いんだよ。それが当時のアイデアだったりして、やっぱり俺たちは最初からいいメロディー、曲があればそれで大丈夫っていうのは変わってない。多くの人に聴いて欲しいとかよりも自分が満足できるものを作りたいってのは変わってないし、アメリカ・ツアーで、好きになってくれる人も結構いるって思えたし。そこは今も変わってない。むしろ日本の状況に合わせたら、きっと良くない感じになったと思う。だから日本であんまり受けないのもしょうがない部分もあると思う。

ーそうだね。97年のツアーは夏だった?

千夏 いや、97年も春だったはず。例年よりも少しずれたかも。

小川 もうこのツアーの時にはアメリカでもシンセやサンプラーなんかを使って音響的なアプローチをするバンドも増えてた、それもけっこうトリッピーな感じの。俺たちもその一部っていう感覚だったし。

ー その時はどんなバンドと共演だった?

小川 シルバー・アップルズやロウだったんじゃないかな?

ー それは96年じゃない?

小川 そうだっけ、ちゃんと調べないと(笑)。

1997年のUSツアーのフライヤー


Silver Applesのシメオンと


Silver Applesとのイベントのポスター

ー このツアーはアメリカ一周だよね?

オ この時はそうだったね、ロッキー山脈越えてシアトルから下って。

チ ニューヨークから出発して。

ー 壮太くんと指澤くんとエノちゃん?

オ いや、ベースは西川くん。


1997年のツアー・メンバーで

ー そうかー!西川くんだったんだ(笑)。ツアーの記録とか写真も探してもらえる、せっかくだから掲載しよう。資料としてもおもしろいよ。97年のツアーから帰ってきてどうしたんだろう?

小川 キャニオンが終わって、みたいな(笑)。

千夏 私たちは夏にインドに行ったんだよ、そこで与田さんから電話があってキャニオンがもう出せないって言われたって伝えられたんだよ。

ー そうだね、結局売れなかったってことでキャニオンはいったん終わって、二人はインドのゴアに行くんだよね。

小川 そう、もうゴアにはそんなに期待してなかったんだけど、行ったら凄くて(笑)。そこでもまたちょっとした気づきがあったりして。

ー それで『happy』の制作にとりかかる、そう思うと1stからずっとツアーとリリースなんだね。

小川 やりたいことがそれだけだからね。

千夏 他になにもやってなかったし(笑)。

ー 激動の3年間。『happy』は思い出深いアルバムだよ。

小川 そう、『trance mellow』ぐらいからお手本がなくなって。自分たちと同じようなことをやってる人もいなくて、いろんなこと考えたんだよ。

千夏 そうだね、ちょっと狂ってたよね。私は「rise」録音してる時に、こんなに音重ねてどうすんのって思ったもん。ミックス終わって聴いたら最高だったけど(笑)。

小川 自分でもよくこんなの思いついたなって思う。でもレコーディングが終わって、98年に発売になって、俺も30にもなってなにやってんだろうって考え始めたんだよ(笑)。

ー そうだね、3年狂ったように踊って音楽作って、その反動が来たんだよ。

小川 時代的にも30過ぎてまだバンドやるってなかったでしょ(笑)、売れてるならいいけど。

ー そういうプレッシャーが始まるころか。

小川 そうそう、かといって売れるものを作ろうってことでもなく。

ー そのまま2000年になり、そのあたりで辻堂のスプートニクでのライブが盛り上がったりしてちょっと浮上するんだね。

小川 そう、あの時俺たちがスプートニクでライブで、同じ日に与田さんたちが茅ヶ崎でフリー・パーティーやってたよね。

ー あったあった!そこから夏の茅ヶ崎が恒例になっていくんだ。思い出してきた、99年はみんなで部屋に集まるか河口湖の山小屋でプライベート・パーティーやってたんだ。

小川 ノーテンキね!俺たち毎週一緒に遊んでたね(笑)。

ー ほんと(笑)、それにしても数々の名場面があったなー。

小川 でも俺たちはかなり真面目にパーティーや音楽に向き合ってたよ。でも『trance mellow』も今思えばメジャーでなにやってんだって感じなんだよ(笑)、せっかくメジャーなのに(笑)。

ー でも考えて売れるものをやろうとしたらダメだったと思うよ、キャニオンの担当には悪いけど(笑)。当時は渋谷系のピークでしょ、シュガー・プラントはそことも断絶してたし。日本でポップスやロックの人がダンス・ミュージックを発見するのが、そのちょっと後だし。

小川 俺たちは最初から海外のシーンを見てたし、アメリカを3回ツアーしたのも自分たちはこういう音楽をやってますってわかってくれる人がいるところに行ってたって感じで、やっぱり自分たちがリアルだって思うところに行きたかった。

ー そうだね、国内のシーンとは意識も違ったんだね。

小川 それが良かったかどうかってことなんだけど、まあ良かったよね(笑)。そっから長いよ、18年あるから(笑)。

ー 2000年にはスプートニク(辻堂にあった夏限定のライブのできるカフェ)とかも始まって、ダンス・シーンもだんだん広まってきて、そこで小林くん (MUSIC MINE / Hot-Chaのディレクター) がアルバムを作ろうって言ってくれて『dryfruit』が作れたんだね。

小川 コバが恵比寿ミルクのイベントに誘ってくれたり、サーファーズ・オブ・ロマンチカのリミックスを頼んでくれたりもあってアルバム作ろうってことになる流れだね。そこで景色が新しくなったんだよ。

ー 『dryfruit』はその前の3作から一歩先に進んだアルバムだよね、なんで先に進めたんだろう?

小川 ライフ・フォース(90年代から続くアンダーグラウンドのハウス・パーティー)かな。

千夏 だいぶ影響受けたんじゃない。与田さんにスピーク・イージーでパーティー・シーンを教えてもらって、コバにライフ・フォースでディープ・ハウス的な感覚を教えてもらったんだと思う。それはバンドにとって大きかった。

小川 そうだね、それとその直前からブラック・ミュージックにハマりだしたんだよ。スティーヴィー・ワンダーとかもその頃に真剣に聴き始めて、徐々に音楽を探求していくとぜったい当たるでしょ。ライフ・フォースって黒い感覚と洗練されたものが結実してると思って。それでハウスのノリもわかりはじめて。でもソウルをやろうとしたんじゃないけど、マーヴィン・ゲイとヴェルヴェットを組み合わせたかったんだよ(笑)。それまでは音を広げようとしてたんだけど、『dryfruit』は逆に中に入れるような感覚。それで今回の新作ではまた戻したんだけど(笑)。

ー キーボードは壮太くん?

小川 そう、ガッツリやってる、ドラムはサッシーなんだけど全部ループに差し替えて。だから今聴くとマシーン・ビートのアルバムなんだよ。自分たちの耳はどんどん進化するけど身体はついていかないでしょ、だけど身体を追いつかせようっていう無理をするんだよ、それをどう形にするみたいな、そういうことがテーマでもあった。

ー そこからの2~3年はどうしてたんだろう?

千夏 やっぱりライフ・フォースだったんじゃない。

小川 そうだね、とにかくライフ・フォース追っかけて。そうこうしてるうちにメスカリート(渋谷にあった伝説のバー)も始まって。

ー 『dryfruit』のときはライブやってた?

小川 国内でツアーもやったし、あと恵比寿ミルクかな。クアトロでドライ・アンド・ヘヴィーとやったりもしたよ。コバがいろいろ仕掛けてくれたんだよ。ー そのあと2004年ぐらいに活動休止?

小川 いや実際休止とは言ってないんだけど。

千夏 でも3年ぐらいやらない時期があって、2008年に久しぶりにライブをやったんだよ。

小川 毎年やってなかったっけ?

千夏 そうだっけ?

小川 やめようって話はなくて、誘われたらライブやってたよ。台湾行ったり、MONOとやったり、ちょこちょこあったはず。だから再結成ってことではないよ。

ー それで2008年のユニットでの復活ライブか、あれから10年だね。アルバムを作ろうっていう話はあったじゃない、なんでできなかったの?

sugar plant 2008年

小川 う~ん、なんでかね。ありがたい話はあったんだけど、できなかったね。

千夏 子供ができたり、仕事だったりじゃない。

小川 それもあるけど、普通に生活してるとできない状態だったんだよ。アルバムを作る隙間が作れなくて、それでずっと葛藤してるみたいな(笑)。

ー やる気はあったんだよね?

小川 毎日作らなきゃって思ってたよ(笑)、18年間。だからやめたつもりはないんだよ(笑)。今回は今までと違って、あんまり流れとかを考えずに作った。

ー そうだね、今までのアルバムは時代ごとの特定のテーマやタッチがあるけど、今回はこれまでのシュガー・プラントが全部入ってる。その部分はあきらかに過去の作品と違うよね。

千夏 ほんと全部のアルバムの要素があるね。時間がたって過去を俯瞰して見れるようになってるんだと思う。

小川 それと今回は当てに行くとか、仮想敵とかもない、純粋に自分たちの音なんだよ。

ー ここまで17年作れなくて、ようやく作れるようになった理由はなに?

小川 それ聞かれると思ったんだけど、う~ん。

千夏 これまで作ってきた曲はずいぶんあって、それこそ幻の一枚もあり、その中から中心になる曲を選んでアルバムの構想をノートに書いてきたのが去年の1月ぐらい。そのノートを作ったことが大きなきっかけじゃない?

小川 メンバーもあるかな。今までのメンバーが悪いってことではなくてケンコウくん (今作のドラム)と青木くん (キーボード) が刺激にはなったんだよ。それでいけそうってことでスタジオを押さえてから本気になった(笑)。締め切りできると覚悟決めないといけないし、やっぱ覚悟だね。

ー そうだね、これまでは俺や小林くんにとっても自分の問題でもあったけど、今回はバンド自身の選択だからね。

千夏 いろんなタイミングが合わさったんだよ(笑)、でも18年間ずっと気になってたんだよ、ほんと(笑)。

小川 30歳で社会に出て、それまでスネアの音の違いばっかり考えてたのに(笑)。これじゃあダメだって、やっぱり社会人として強くなんないといけないって思ってたし、いや、薄々はわかってたんだけど(笑)。音楽ばっかりじゃダメでしょ、みたいな。それから抜け出したことが大きいかも。時間かかったけど、良かったと思える(笑)。

ー このアルバムで、自分の過去といい形で繋げられたんだね。だってさ、このアルバムが完成してからの小川くんの解放のされ方すごいもん。逆に7~8年前の小川くん、ほんと暗かったよね(笑)、その前はあんなに面白かったのに。

小川 いや、だからいろんなことにクラッてたんだよ。ずっと音楽やりたいって思ってるのにできなくて、でも全部自分のせいだしね。

ー 完成してよかったよ。でも俺はダメだと思ったら正直に言おうと思ってたのよ、だからいいアルバムになってほんと安心した(笑)。

千夏 そうだよね!

小川 エンジニアが田中さんで良かったよ、結構やきもきもしたけど(笑)。機材の進化もすごかったし、ようやく今の時代を実感できた(笑)。

ー 次はすぐにいけそうだね。

小川 もうアイデアあるんだよ、次は早いと思うよ(笑)。


参考資料:sugar plant US Tour日程 1995~1997
1995年
3月20日
Under Acme, NYC
Holiday, Tizzy, The Magnetic Fields
Dean Warehamが見に来てくれた

3月24日
Under Acme, NYC
Fluffer,

3月29日
小川君ボストンの中古楽器屋でSGを525ドル(ケース付き)で購入

3月30日
The Middle East, MA
Pop Narcotic presents: DAMBUILDERS, FUZZY, TIZZY

3月31日
Iron Horse, Northampton
Scrawl
Tizzyのアパートメントに宿泊

4月2日
Raoul’s, Portland, ME
Shudder to think

4月3日
MET CAFE, Providence,RI
Nonpareils, Lois, Purple Ivy Shadows

4月5日
The Barn Door, Wilmington, DE
Lettuce pray

4月6日
Memory Lane, Baltimore
JAG

4月8日
Nick’s Philadelphia
GAM, NOUN

4月11日
Lizard & Snake, Chapel Hill, NC
Drag
Tシャツ7枚売り上げて最高記録

4月13日
Canal St. Tavern, Dayton,OH
Lazy, Honeyburn
CD9枚 7インチ13枚売り上げ

4月15日
Frank’s place party, Pitsburg PA
Vehicle Flips
Vehicle Flipsのメンバーが代々住んでいる家でのパーティ

4月16日
Washington DC
Secret Stars

4/21,22
Cold Room, MA
Recording “cage of the sun e.p.” with Darron
my spanish boots, NITA, polar bear, cage of the sun, shiny blue dead fish

4月25日
Under Acme, NYC
Saturnine 60

4月27日
Empty Bottle, Chicago IL
CAR ACCIDENT!! 交差点でクルマと接触。

4月28日
Knox College, Galesburg
LOW
えのKORGのDELTAシンセ購入200ドル

4月29日
Warehouse, La Cross
Housebreaker, Arcwelder, Hick


1996年
4月1日~12日
Studio Red, Philadelphia
Recording “after after hours” with Red and Jason
実質10日間(3日ベーシック、4日オーバーダブ、3日ミックス)

4月13日
Under Acme, NYC
SeaSaw, Holiday, The Secret Stars

4月14日
WAMH Radio, Amherst MA

4月15日
Green St. Grills, Cambridge MA
Radioloria

4月16日
MET CAFE, Providence,RI
Difference Engine, Gerl

4月17日
Boston Loud Fes.(T.T.the Bear’s), Cambridge MA
Radioloria, Syrup, Karate, Wolfertons

4月18日19日
off
Aliza宅でパーティ。KarateのジェフとTsunamiのジェニーも

4月20日
Loud Festival, Northampton MA
Helium, Dambuilders, Saturnine 60, Babe the Blue Ox, Idha, Licorice, etc…

4月21日
Burlingtonitus Fest., Burlington VT
Babe the Blue Ox

4月22日23日
drive+off
クリテツさんの誕生日でタイ料理をみんなで食べた。えのLong Islandの楽器屋でベース買う

4月24日
The Barn Door, Wilmington, DE
Flying Planes, Mazarine
昼間はradio収録

4月25日
Upstairs at Nick’s, Philadelphia PA
Caterpillar, Mommieheads
千夏South St.でへそピアス

4月26日
Princeton Univ., Princeton NJ
Saturnine 60
昼間はラジオ(WPRB)収録。Studio Redで車上荒らしに遭う。えのカメラ、スピーカー、CD盗まれる。しかしこの日のギャラは700ドル、最高記録。

4月27日
(day) GO! Compact Discs in store, Arlington VA
Mojave 3
(night) 14K Cabaret, Baltimore MD
Elvis
イベントで「The Incredible Shrinking Man」という映画を見る

4月28日
POWWOW FES, Baltimore MD
Nord Express

4月29日
drive
Baltimoreで割られたクルマの窓ガラスを直す

4月30日
Tokyo Rose, Charlottesville VA
Charming, Naked Puritan Philharmonic

5月1日
Butchertown Pub, Louisville KY
Radioloria, hugh
同日別の場所でJames Brownのshowがあり集客が悪かった

5月2日
off
Rachel's、RodanのJason宅にステイ、翌日はケンタッキーダービー

5月3日
Sub Gallery, Dayton OH
Babe the Blue Ox, Lazy, Honeyburn

5月4日
Cicero’s, St.Louis MO
この日の録音のうち”my spanish boots”は翌年コンピレーション「The Basement Recordings: Live At Cicero's」に収録

5月5日
Delfair Bowling Alley, Cincinnati OH
Radioloria, Lazy, Elvis

5月6日
Univ. of Missouri, Columbia MO

5月7日
drive

5月8日
7th St. Entry, Minneapolis MN
Summer Holiday, Overblue, The Pins,
隣のFirst Ave.ではStereolabがライブしていた

5月9日
Warehouse, La Cross WI
Zen Gorilla, Multiple Cat

5月10日
Orpheum Cafe, Duluth MN
LOW
LOWのふたりAlとMimiのお宅にステイ

5月11日
Empty Bottle, Chicago IL
Zen Gorilla, Windy and Carl

5月12日
Bernie’s Distillery, Columbus OH
Jenny Mae, Dan Spurgeon Bush League All-Atars

5月13日
off

5月14日
Zoots, Detroit MI
Bunnygrunt, Windy and Carl
Windy and Carl宅にステイ

5月15日
LUCIANO’S, Pittsburg PA
Bardo Pond, The Secret Stars, Brother Love, Tono Bungay

5月16日
off
Limeliteのトランスパーティへ

5月17日
Mercury Lounge, NYC
ダウンタウンの楽器屋でarpシンセ購入300ドル

5月18日
Ground Zero
“after after hours” Mastering

5月20日
fly Boston to Seattle

5月21日
off
カナダ、バンクーバーで観光

5月22日
Moe’s, Seattle
Jessamine
ギャラ0ドル、最低記録


1997年
4月16日
Middle East, Cambridge MA
La Bradford, Brilliantine

4月17日
Brownies, NYC
Miracle Region, Brilliantine(?)

4月18日
Fletchers, Baltimore MD
Poole
インタビュー3つ受ける。西川君パスポート、帰りのチケット、T/CをNJのMotel6に忘れる

4月19日
Westbeth, NYC
The Magnetic Fields, Silver Apples, La Bradford

4月20日
The Trocadelo Balcony, Phili PA
Bardo Pond, La Bradford

4月21日
off
インタビュー1本。Jason宅にステイ

4月22日
lota, Arlington VA

4月23日
Whit’s End, Toledo OH
Astrobrite(?), Lucid, Autopilot(?), overblue(?)

4月24日
Zoots, Detroit MI
AIDEN, The Outrageous Cherry, Veleour Motel(?)

4月25日
Sudsy’s, Cincinnati OH
Roundhead

4月26日
Warehouse, La Cross WI
Arcwelder
長い階段のLord-inを屈強な男たちが手伝ってくれて感動

4月27日
off
First Ave.でのChemical Brothersのライブに行くがチケット売切れで入れず。西川君がパスポート紛失事件のお詫びにとオリガミ・レストランで寿司をおごってくれる。

4月28日
7th St. Entry, Minneapolis MN
Sky Cries Mary

4月29日
drive

4月30日
drive+off
マウントラッシュモアを見てデヴィルズタワーに登る。ワイオミングでは虹を見た。

5月1日
Colourbox, Seattle WA
Toothpaste Zooo, Mars Accelerator
見に来ていた日本人Kazu君宅でPHISHを知る。

5月2日
Satyricon, Portland OR
The Night Caps

5月3日
The Press Club, Sacramento CA
ラジオ1本(KVMR)。ここまでにCD100枚売り切る。鬼木さん宅にステイ。

5月4日
Hotel Utah, San Francisco CA
ラジオ1本(KUSP)。Permission Magazineで鬼木さんからインタビュー1本。

5月5日
No Life Records in store, Los Angels CA
A写撮影

5月6日
Spaceland, Los Angels CA
World Dominationによるショウケース的なイベントで2セット演奏。Joshの家でDEVOのビデオを見る

5月7日
Velvet, San Diego CA
World Dominationのオフィスで打ち合わせ。

5月8日
drive
壮太プールで狂う。砂漠の中を走る。ニューメキシコ州DemingのMotel6泊

5月9日
off+drive
El PasoからメキシコJuarez観光。テキサス(?)走行中に警察にバンを止められ徹底的に調べられる。テキサス州SweetwaterのMotel6泊

5月10日
off
ダラス観光。JFKが暗殺された場所を検証。少年ナイフのライブを見る。

5月11日
Melodica Festival, Denton TX
Ohm, Doldrums, Transona 5, Wiring Prank, Sivad

5月12日
off
映画「The Fifth Element」を見る。

5月13日
Bricktown Live, Oklahoma City OK
The Silver Apples, ESP All Stars
壮太パスポートを失くす。

5月14日
The Side Door, St.Louis MO
The Silver Apples, Nord Express
Jim Utz宅にステイ

5月15日
Butchertown Pub, Louisville KY

5月16日
drive

5月17日
Nyabinghi, Morgantown WV
Love Camp 7

5月18日
Acme Underground, NYC
Radioloria, seven percent solution

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?