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「JUST ANOTHER」the原爆オナニーズのドキュメンタリー映画を合評

KKV Neighborhood #49 Movie Review - 2020.10.21
「JUST ANOTHER」大石規湖、the原爆オナニーズ(©2020 SPACE SHOWER FILMS)
review by 長谷川文彦、与田太郎、林 隆司(Killerpass)

"続けること"を実践したthe原爆オナニーズとの35年(by 長谷川文彦)

自分はthe原爆オナニーズのTシャツを3枚持っている。1枚は1990年代の最初の頃、何かのライブ(「お年玉ライブ」みたいなやつだったかな)で入場者全員プレゼントでもらった牛のロゴマークのやつ。もう1枚は『Desart Island Disc』(91年)のレコ発ライブでこれまた入場者全員にプレゼントしてもらったもの。もう1枚も同じように『Step Forward』(97年)レコ発ライブでもらったもの。お金を払って買ったものがない。どれもかなりくたびれている。そろそろちゃんと新しいものを金を出して買えよ、と自分でも思う。それはまったくやぶさかではないが、新品を買ったとて、この3枚はそれとは別に大切にしたいと思う。

そんな具合で自分とthe原爆オナニーズとの付き合いはかなり長い。初めてライブを観たのは1987年7月の新宿ロフト。以来70回以上はライブを観ている。だからもう何度も何度もライブが始まる時のタイロウさんの「We are the原爆オナニーズ!」というかけ声を一緒に叫んでいる。オレたちはthe原爆オナニーズ。もう自分の心と身体の一部はthe原爆オナニーズでできているのである。

原爆のライブの一曲目はいつも違う。“Dog Eat Dog”か“Go Go 枯れ葉作戦”か“Mind Breaker”か、意表をついてくることもあるから油断はできない。“Psycho Murder”とかね。“Go Go 枯れ葉作戦”なら気分は上々。二曲目は“No No Boy for you!”というタイロウさんのかけ声とともに“No No Boy”が始まる。続いて“なんにもない”。これが自分にとっての定番の原爆のライブの始まり方。

そして最後は“Underdog”から“(What Have We Got?)Fuck All”で締める。カバーをやるなら、ラモーンズかMC5がいい。みんなは外道の“香り”が好きみたいだけど、自分は“Kick Out the Jams”や“Psycho Therapy”が好きだ。

自分はそんな風にずっとライブを観てきたのだけのthe原爆オナニーズのファンでしかない。原爆とのつき合いはただそれだけ。レコードやCDを聴いて、ライブに行くということしかやったことがない。バンドの内情やメンバーのプライベートはまったく知らない。メンバーの本名さえ知らないし、もちろん話をしたこともない。そういう付き合いで30年に以上なんである。原爆は基本的には寡黙なバンドであり、こちらも特にその辺に踏み込まなかったし、そんな必要もなかったのだ。

だから、この映画を観ることを少しだけためらった。そこは見なくても、知らなくてもいいところなんじゃないの?というようなバンドの内側も見てしまうかも知れないと思ったからだ。ずっと気にしないできたことに今さら触れるのか?というような気がしたのである。そこに触れてしまって何かが変わってしまうことはないのだろうか、と少し変な不安を感じたのだ。

映画は2018年の今池祭から2019年の今池祭までの1年間に撮影されている。メンバーへのインタヴューやライブの様子などだ。そこで語られるバンド活動や音楽への考え方。30年以上どういうことを考えてやってきたのか。そういった今まであまり表に出てこなかったことが語られる。タイロウさん以外のメンバーが何かを話すことは今までほとんどなかったし、タイロウさんも基本は「今どんなバンドがおもしろいか」とか「1980年のパンクロックのこと」というようなことしか語らない人だ。自分たちのことを語る原爆のメンバー。それを今聞いて自分は何を感じるのだろうか。

結論から言うと、何も違和感がなかった。「ああ、そうなんだ」とか「なるほどなぁ」としみじみ思うところはあっても「え?そうなの?ウソ?」と思うところはまったくなかった。30年以上もつき合うと言葉にしなくてももうわかっているのである。原爆との付き合いはそんな簡単にどうなるものでないし、変な心配は無用だった。そうなんじゃないかなと思っていたことをちゃんと確認できた、映画を見終わった時そう感じた。

もう何十年も原爆のライブに来ているような人はみなそう思うんじゃないかな。今まではっきりと語られてこなかったこと、それを自分たちはもうとっくにわかっていたのではないだろうか。

この映画のポスターやフライヤーにあった「なぜ、それでも彼らはやり続けるのか」という問いかけ。

ロックは大人になったら聴かなくなるもの、と昔は言われていた。いずれは卒業するものと思われていた。いくつになっても続けるような前例がなかったからだ。「30にもなってまだロックなんて聴いてるの?」なんていう今では考えられないようなことが普通に言われていた。原爆が始まった1980年代は何歳までロックができるかなんて誰もわからなかったし、ましてやいつまでパンクを聴き続けるものなのかなんてことはもっとわからなかった。

だけど「30歳になったらやめる」なんてことが理由になるとは思えなかった。やめる理由なんてどこにもないし好きなものは続ければいい、というシンプルな理由が積み重なって、1990年代にはある程度の年齢でも現役を続ける例が出てきた。そのひとつがthe原爆オナニーズだ。

やめる理由はない。でも「どうやったら続けられるか」という方法論は必要だ。原爆の場合は、1.メジャーにいかない、2.東京には行かない、3.バンドとは別に生活の基盤を作るという方法を取った。それはこの映画を観るまでもなくわかっていた。

続けるための方法を考える。これは自分たちのような観る側も同じである。人生にはいろいろなイベントがあり、就職、結婚、子育て、親の介護、自身の体の不調など、それらはパンクの現場から離れる理由になる。そこをどう解決して続けるか。もう何十年も原爆のライブに来ている人は、自分なりにそういうことも考えて続けてきた人たちなんだろう。

パンクが好きでずっと現場にいたい、そういう思いの先にはいつでも原爆がいた。自分の先を走っていて、彼らが続けるなら観に行き続けたいと思わせてくれるバンド。ずっと一緒にライブを作ってきたバンド。そんなバンドがいてくれて自分は本当に幸せだと思う。そういう自分たちと原爆の不思議で貴重な関係の、今の時点での最前線の記録がこの映画ではないだろうか。

ざわつくフロア、照明が落ちて、低い声の歓声が上がる。今日もライブが始まる。一曲目はなんだろう。タイロウさんが出てくる。いつもの調子のMCに続いて「それじゃ始めようか、We are the原爆オナニーズ!」。そう、オレたちはthe原爆オナニーズ。もうすぐ結成40周年だ。まだまだ終わるつもりはないよね。

パンク好き、ではなく音楽好きこそ見るべき映画(by 与田太郎)

僕は86年から都内のライブハウスに足繁く通うようになったのだが、the 原爆オナニーズについてはそのインパクトのある名前で存在は知っていたけどライブを見たことも音源を聴いたこともなかった。90年代中旬にビヨンズのディレクターをしていた時にも見る機会はなかったが、2000年前後、ゴーイング・ステディの担当だった頃にはthe 原爆オナニーズが独自のスタンスで活動していることに気が付き始めていた。the 原爆オナニーズは定期的な活動をしていても、リリースごとのプロモーションに力を入れておらず、多くのバンドが出演するイベントなどでは見ることがあまりないバンドだった。しかし、その存在感ははっきりと伝わってきた。the 原爆オナニーズはとても言葉の少ないバンドなのだ。

それは今回の映画も例外ではない。ほぼ全編がメンバーへのインタビューで構成されているのだが、はっきりと核心をつくような返答はとても少ない。が、しかし一見ただなにげなく話している言葉やメンバーの表情からとても多くのことが伝わってきてしまうのだ。監督がどこまで意図していたかは不明だが、メンバーも慣れないカメラに対してどこか距離があり(ある意味意図的にも距離を取っているようにも見える)微妙な受け答えが続くともいえるのだが、バンドとタイロウさんの哲学というかアティチュードは確実に伝わってくる、これはとても不思議な印象だ。本当に伝えたいことは正面から言葉にしないことで、かえって強い意志として伝わってくる。これは制作サイドというよりもタイロウさんの意図したことなのだと思った、バンドのあり方と同じように。

音楽の楽しみ方に決まりはないし、人ぞれぞれでいいと思う。でもタイロウさんが人生を通して誠実に音楽と向き合うことを決めてから40年以上、そのスタイルを貫くことは並大抵のことではなかったはずだ。1978年、まだパンク・シーンが熱い最中のイギリスへ行きその目で現場を見た彼は地元に帰って、スタークラブのメンバーに「あなた達のやってるのはパンクじゃなくてグラムだよ」と言う。実際にイギリスで感じ取ってきたパンクといえる日本のバンドは「フリクションだけだった」など、タイロウさんが見てきたものがそうした言葉からも伝わってくる。そして彼は自分のバンドを作ることになるのだが、大学を卒業して就職1年目に結成した原爆オナニーズの最初の一年はミーティングとリハーサルだったという。仕事のペースがつかめた翌年からようやくバンドはライブを始める。ここに現れている、音楽と向き合うためにはまず自分の生活をしっかり維持しないといけないという覚悟、そして40年間それを実践してきた強さを想像してほしい。タイロウさんにとっては当たり前のことだっただろうが。

80年代後半から90年代を通して、僕はパンクという言葉を素直に使えなかった時期がある。パンクを愛してやまない人達と話すと僕は「それはパンクという生き方が好きなのであって、音楽のことではないのではないか」という疑問を持つことが多かった。僕自身は音楽が好きならば、ジャンルなど飛び越えて貪欲に新しいものを求めることが正しいと思っていたし、僕はその通りにダンス・ミュージックからクラシックまで自分の基準で測りながら音楽を漁るように聴き続けてきた。しかし、パーティー・ライフにシェイクされたことでジャンルという枠組みで音楽を聴かなくなった90年代後半年以降に、もういちどパンクと向き合うことになった。それは仲のいいイギリス人のDJやパーティー・オーガナイザーの多くがパンク・シーンの出身だったりソウル・ボーイだったりしたこと、80年代後半から90年代のインディーがパンクと分かち難く結びついていることなど理由は多々ある。が、一番大きなのはキリキリヴィラに関わってくれた多くのバンドからパンクの深さと広さを教えられたことだ。ジャンルとしてのパンクは日々進化していて、世界のどこかで今日も新しい音楽が生み出されているし、新しく生み出される音楽のインスピレーションになっていることもある。そう思うと40年掘り続け、聴き続けたタイロウさんの熱意はすごいと思うし、実際に聴くべきものが大量にあったのだとこの映画に気付かされた。どちらが正しいということではなくそれぞれのやり方があるということだったのだ。

たぶんこの映画は「パンク好きは必見」という言葉で語られることが多いだろう、でも僕はそうではなく「音楽好き」こそ見るべき映画だと思う。真剣に音楽を聴き続け、演奏し続けるために生活を律しながら生きてきた人が上の世代にいることで僕はとても勇気づけられた。僕も自分なりに、結果としてではあるが音楽と向き合い続けてきた人生だったし、これからもそうだろう。そういう意味でこの映画を観ることができてよかったと思う。

この映画のクライマックスともいえるであろう、ラストちかくでのタイロウさんへのインタビューで語られることがある。これほどちゃんとしたタイロウさんですら危機的な状況になってしまう日本の会社、社会はほんとにまずいんじゃないだろうか。この映画を観に行く人はもちろんそのまずさと酷さをわかっているはずなので、そういうみなさんに伝えたい。普通の顔をしながら僕らの外側にいてなにも考えてない人たちや仕組みを利用しようとするやつら、あまりにもひどい今の状況に対して一緒に声をあげよう、あなたの信じてきた音楽が教えてくれたことは正しいはずだ。

最後にもう一度、音楽が好きな人こそ必見の映画です。

「JUST ANOTHER」を鑑賞して(by 林隆司、Killerpass)

あなたは絶対に遅刻出来ない日に遭遇した事がありますか?

2019年4月20日土曜日。平成も終わりのカウントダウンが始まっていたこの日、僕はライブが決まっていた。対バンはGAUZE、そしてthe原爆オナニーズ。この震え上がる2バンドとのスリーマンであったが、当日僕は始めたばかりの仕事をギリギリまでこなしていた。

ライブのオファーがあったのが1年近く前。原爆のTAYLOWさんが僕らのライブに来てくださり、直接誘ってくれた。メンツの構想を聞き、ぶっ飛び過ぎてよく分からない感情になった事を覚えている。実現したらいいな…まだ正直半信半疑ではあった。

何より自分はこの時資格を取る為の学校に通っており、肩書きは30代学生だった。上手くいけば来春(2019年4月)から再就職という状況であったため、ライブがやれるかも分からなかった。その事はTAYLOWさんに伝えてはあったが、もちろん何とかやれる方向に全力を注ぐ事を決めていた。ところがどっこい、自分のだらしなさ、未熟さから中々就職先が決められず…挙句には資格試験の模試の点数もかなり怪しく、2018年12月の時点で一旦就職活動をストップし、試験勉強(2019年1月末)に専念するハメに。あぁ、なんでこんな上手くいかないんだい。

その間もこのライブの事はずっと頭にあった。
「一度TAYLOWさんに連絡しておくか…」
重い気分で今の現状を伝えようとTAYLOWさんに電話。

林「もしもしすみません、来年の4月のライブなんですけれど…」

TAYLOWさん「あぁ、もう(出演が)決まったよ」

林「…はい、分かりました!(キリッ」

…やるしかねぇ、全てを。試験も、就職も、ライブも全部。高ければ高い壁の方が登った時気持ち良いもんなってミスチルも言ってたしな。本心ではマジかよちょっと待ってくれよと思う自分もいたけれど、それ以上に燃えている自分も確認出来た。

そこからは試験勉強をトップギアでやりまくる!!…事が出来たらこんな人間にはならんわな。もちろん可能な限りやってた記憶はあるけど、相変わらず点数は伸び悩む。そして試験当日を迎え、無心で終えた。(長くなるので詳しくは割愛。この辺の事を聞きたい変わり者がいたら飲みにでもいきましょう)。

自己採点。120点合格で、119点。

119点。

視界が徐々に曇り、気付いたら真っ暗だった。一瞬の気の動転の後逆に冷静になり、「やったライブ出れるじゃん!」と思った。前の職場に電話して再就職依頼もした(笑)。

翌日、未練タラタラに何度も、何十回も試験問題を見直していると、「あれ…この問題、3番にした気がするな…」なんと自己採点で間違いがある事が発覚。その結果、奇跡の120点に浮上!!

マジで学校の先生にはご心配とご迷惑をおかけし、今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです…この文章を読んでない事を願います杉浦先生。

とは言えあくまで自己採点でギリギリ中のギリギリ。多少の誤差もあるため正式に発表されるまで合格しているかは分からず。試験結果発表は3月末。合格していたらという条件の元就活も再開。

結果発表日。受験番号を照会する。「あった…」なんとか合格していた。ほぼ同時で就職も決まり、ホッと胸をなでおろす。

しかし同時にライブの事が頭をよぎる。「ライブの日って休みなのかな…」職業柄、土日休みという訳ではない。それは分かっていた。新しい職場の初出勤日は4月16日。ライブの4日前。ノミの心臓が災いし、当然休みの事など聞けず。「最初の週だから、土曜は休みっしょ当然」と謎の自信があったが、蓋をあけてみたら…4月20日「出勤」

おぉ、マジか。ヤバいな…TAYLOWさんに報告。リハはやれないと思いますが、必ず出番に間に合ってみせますと伝える。その日からの仕事は業務を覚える事にもちろん必死ではあったが、どのタイミングで抜け出し、タイムカードを切るか?のシュミレーションをひたすら遂行しまくる日々。

4月20日。遂にその日を迎えた。会場のアップセットは当時住んでた家から徒歩10分程度。1番近いライブハウス。前日に楽器や機材を事前に持っていき、到着予想時間や軽いリハの打ち合わせなどを終えていた。こんなに近いハズなのに、なんて遠いんだろう、と思いながら出勤のためガタゴト電車に揺られ隣町の春日井市に向かう。

一日中ソワソワしながらなんとか仕事を終える。
17時10分頃。絶妙に空気が悪くならないと踏んだ時間にタイムカードをブチ込む。
17時15分、昼休憩中に依頼したタクシーに乗り込み高蔵寺駅へ。
18時05分頃、既に開場し入場待ちのお客さんで溢れるアップセット到着。
18時20分頃、ステージをカーテンで隠してもらいながら、サウンドチェック。
19時、オンタイムでライブスタート。全力を出した。はず。無心でやった。

4月22日月曜日。夢の様な土曜、余韻を噛みしめた日曜を経て、32歳新入社員は社会の渦に戻った。

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前置きが死ぬ程長いんですが、その日の僕らの演奏を少しだけ映画「JUST ANOTHER」に映してもらっています。これを伝えたい為だけにめちゃくちゃ長文を書きました…読んで(耐えて)くださった皆様ありがとうございます(笑)。

自分にとって、仕事をしながらバンドをやるっていうのは当然の感覚。バンドをやるからこそ仕事が出来る。仕事があるからこそバンドがやれる。そのバランスは自分にとって最も大切だと思う。でも、なぜ当然なのかっていうのは考えた事がなかった。

映画「JUST ANOTHER」を観て思った。あぁ、こういう感覚って原爆が愛知でずっとやってきたから、当たり前に思うんだな。大好きなGAUZEの歌詞だって、一貫してこの感覚を持っている。

自分の根底にパンクに思想精神はノーサンキューという考えはもちろんある。自分で考えて、自分で決める。ただ、もっと純粋な部分を創り上げて、根付いてしまっている所ってあったんだと気付かされた。それはパンクに熱狂し、夢中になって、今でも追いかけ続けている理由なんだろう。

肌感覚でカッコいいもの。それが自分のパンクロックで、原爆がずっとやっている事。

必死に働いて、必死にパンクロックを鳴らし続ける。誰がどう言おうが、それが1番カッコいい。

ジャストアナザー…ただの、ありきたりな答えかもしれないけど、それ以上でもそれ以外でもない。

そんな事をど真ん中から突き刺されました。今だからこそ、音楽を愛するたくさんの人にこの映画を観てほしいと願っています。

時代に、そして自分に負けないためのヒントを、僕は掴んだ気がする。

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