Debonaire x b-flowerライブ開催記念Debonaireインタビュー(2017年)再掲載
KKV Neighborhood #125 Interview - 2022.03.25
インタビュー、構成:与田太郎
デボネアとb-flowerの共演ライブがようやく実現することになった。どちらのバンドも同じ時代に同じような音楽に影響受けて活動をしながら30年以上もお互いに交わることのなかったバンドがようやく同じステージに立つことになる。2020年に収録した両バンドのメンバーによる対談は以前にもここに掲載した。今回は2017年、キリキリヴィラでデボネアの未発表音源集を再発した時のインタビューを再掲載しようと思う。
Debonaireインタビュー
2017年10月26日公開
デボネアが活動を休止してから20年、まさかこうして彼らのアルバムをリリースできるとは思ってもみなかった。これは昨年のペニー・アーケードの再発が大きなきっかけとなっている。ペニーの再発にともなう一連の出来事により80年代後半から小さくスタートした日本のギター・ポップ・シーンの情景を再考することができたし、なによりもよかったのは久しく会っていなかった友人やミュージシャンともう一度音楽の話をする機会を作ってくれたことだろう。今回のデボネアの未発表曲集もその流れからリリースにたどり着いた作品であり、また過去2作のアルバム制作を担当したスタッフとしてようやく自分が思い描いたデボネアの作品を25年越しにかたちにすることができたと思っている。
海外のシーンは過去の作品の発掘や再発などを通して、今に至るシーンの文脈やサウンド、テーマの流れを若い世代に提示する。そういった循環がまた新しい刺激となり先端で生まれている音楽に受け継がれてゆく。僕は日本でもそういった提案をすることが必要なのでないかと思っていた、キリキリヴィラも最初のリリースはライフボールの残した音源のコンピレーションだったのだ。
デボネアは現役当時から多くを語らないバンドだった、またリリースした作品も部外者には意味不明なこだわりが多くその実像は当時ですら相当わかりにくかったはずである。 インタビューに入る前に僕が見てきた当時の状況や彼らとの出会いなどを説明しようと思う。
Disc 2に収録された90年のライブはデボネアの初期メンバーの貴重なライブ音源だが、僕がデボネアを知った91年の夏頃のライブではドラムとベースが変わり、サウンドもワウ・ギターを使ったインディー・ダンス・スタイルの曲がレパートリーに入っていた時期になる。僕はこのライブ盤の1年後あたりにデボネアに出会っている。まず当時の状況を説明したいと思う。当時はイカ天、ホコ天ブームもありインディーズも80年代中旬のキャプテンやナゴムを中心とした時期以降、2回目のブームをむかえていた頃である。中学、高校と洋楽、とくにパンク、ニューウェーブからネオアコにはまり国内のバンドではルースターズやじゃがたらを追っかけていた僕にとって当時の状況はあまり歓迎できるものではなかった。しかし大きな変化の予兆のようなものを感じたのが89年フリッパーズ・ギターのデビューだった。彼らのデビュー・アルバムを聴いた僕はこう思った、『日本にもこういう音楽をやる人たちがいるならなにか新しいことをはじめることができるかもしれない』と。その翌年、90年の10月頃、僕は会社に自分のレーベルを作らせて欲しいと上司に伝えた、当時はまだおおらかな時代で22~3歳のアルバイトあがりの若者に社長は「好きにやってみろ」と言ってくれた、これには今でも感謝している。
そんなことから90年の秋には自分のレーベルであるWonder Release Recordsからリリースするバンドを探し始めた。その時僕の頭にあったイメージはCreation、Rough Trade、Factoryなどのイギリスのレーベルであり前年89年の冬に見たストーン・ローゼズや夏に見たプライマル・スクリームであったことは言うまでもない。そして翌91年の1月にヴィーナス・ペーターの結成から3回目か4回目のライブを見たことで一気に動きはじめた。ヴィーナス・ペーターがレーベル第一弾となり、同年5月にクラブ・チッタで開催された『Remix Night』で共演したシークレット・ゴールドフィッシュがすぐに第二弾となった。同年代のバンドが自分と同じような音楽を聴き、そしてその同時代の音楽を作ろうとしていることに僕はなにか運命めいたものを感じたし、それからの2~3年間がどれだけ楽しいものだったかは説明しようがない。もちろん自分の若さゆえの失敗や数々の問題はあったけれど、それ以上に、あの時代は純粋に夢を追いかけることができた時期だった。
デボネアの話に戻ろう。シークレット・ゴールドフィッシュは当時大阪で活動しており、彼らの最初のライブはデボネアとの共演だった。リーダーのイズルくんが僕に大阪にデボネアといういいバンドがいるから見たほうがいいよ、と教えてくれた。また同じぐらいのタイミングでヴィーナス・ペーターのギターで元ペニー・アーケードだった石田さんもデボネアのことを教えてくれたんだと思う。そこで早速デボネアのライブを調べて京都のビッグ・バンというライブハウスへ行ったのが彼らとの最初の出会いとなった。ちょうどヴィーナス・ペーターのアルバムが発売になる前後でDJはKIHIRAくん、サイド・ディッシュが共演だった。もう『スクリーマデリカ』は発売になっていて『ラブレス』と『ノーウェア』の発売直前のころ。これはついこの前(2017年9月)にデボネアのメンバーにインタビューしてわかったことだけど、実は90年の終わりか91年の初めの頃にとくに告知をすることもなくバンドは一度解散することをメンバーは決めていた。その後ボーカルの中井とギターの楠木で新しいバンドを始めるつもりがバンド名をつけるのが面倒だったようで、デボネアの名前はそのままになったそうだ。
はじめて彼らのライブを見た時に感じたのは、僕と本当に同じように音楽を聴いているバンドだ、ということだった。関西にこんなバンドがいたのかという驚きと、素のメンバーのあまりにも強力な大阪弁に面食らいつつもリリースのオファーをした。たしかその後2回ほど話し合いをして、デボネアの盟友であったサイド・ディッシュと共にワンダー・リリース内にクリア・レコード(Clear Records)というレーベルを作ることでメンバーとも合意した。
大変だったのはそれからだった。80年代から活動していた彼らから見れば、東京から来てレーベルをやっている奴など簡単に信用できるわけがなかったのだ。アルバムに先駆けてリリースした12インチはまだよかったのだが、アルバムのレコーディングについてはこちらは費用を負担するだけで、事前にはまったく内容も教えてもらえず92年にリリースになった1stアルバム『Eternity One』は完全なアコースティック・アルバムだった。バンドで録音をしてアルバムを作りたかった僕はマスターが届いた時、あっけにとられた。いくら東京と大阪で離れているとはいえ、さすがに事前にアルバムの内容ぐらいは教えてほしかった。彼らのステージを見て、彼らにとってもかなりいいデビュー・アルバムができると思っていただけに衝撃は大きかった。しかも『Eternity One』自体は素晴らしいアルバムだったことでさらに複雑な心境にならざる得なかった。もうひとつ残念だったのはワンダー・リリースで92年の1月に渋谷のオンエアーでヴィーナス・ペーター、シークレット・ゴールドフィッシュ、デボネア、サイド・ディッシュの4バンドによるレーベルのショウケース・イベントを行った。フリッパーズの登場から解散の間に盛り上がったギター・ポップやインディー・シーン、中でも大きく注目されたヴィーナス・ペーターとシークレット・ゴールドフィッシュがいたこともあり会場は満員となった。僕はこのイベントがデボネアとサイド・ディッシュにとって東京でのお披露目として重要なライブだと思っていたし、タイミングも最高だった。しかし、なんとデボネアは楠の怪我によりバンドでの出演ができなくなってしまった、これは本当に残念だった。それからも僕はデボネアの2ndアルバムを94年にリリースするがバンドの活動は徐々に下火になる。それでも2003年に『Eternity One』を再発したのは、やはりこのアルバムが素晴らしかったからだ。
デボネアと出会って25年目となった2016年、中井が大阪でバーをやっていると聞き、ほぼ20年ぶりに彼に会いに行った。そこでペニー・アーケードの再結成ライブにデボネアとして出演を依頼したら、しばらくして東京なら1回ぐらいやろうかなという返事があり、2017年2月25日の下北沢QUEでほぼ30年ぶりにペニー・アーケードとデボネアの共演が実現した。実は中井のやっているバー『Mile High Club』で朝まで当時の思い出を語り明かした時に聴かされたのが80年代から90年代前半までのデボネアの膨大なデモやライブ音源だった。その時僕は、こんな音源あるならあの時に教えてくれよ!と叫んでしまった。言ってもしょうがないことではあるが、本当に面倒くさがりにも程がある。そこで聴かされた大量の音源を送ってもらい、そこからセレクトしたのが今回のアルバムだ。88年のデモ音源や90年代に埋もれた曲、お蔵入りになった12ミックスや中井のMTRで作ったデモまで、これでようやくデボネアというバンドの全体像がわかるのではないだろうか。最初の7インチはペラペラの音だったけど、今回はリマスターしたことでレコードよりもいい音になっている。ブーミンホールでのライブは「Map To Our Paradise」のバンドでの演奏を聴くことができる。この曲は前述の渋谷オンエアーでのライブで中井と当時のドラムだった堂森が2人で弾き語りをやった曲で、最初の12インチ『Happy Now?』のカップリングでもある。
前置きが長くなった、以下のインタビューは9月に中井の店『Mile High Club』で中井尚志、楠健、寺島和弘のオリジナル・メンバー3人が揃っておこなわれた。酔ったオッサンの昔話そのまんまだけど、これはメンバーの素の姿そのもの、出会った時から変わらないデボネアの姿である。
ー今回のCDに収録されたブーミンホールでのライブで演奏してる曲のデモ録音とかはないの?
楠 ない曲けっこうあるな。
ー「Another Sun」とかすごくいい曲なんだけど、ないんだ。このライブは90年の8月で、俺が初めてデボネアを見たのが翌91年の夏だったけどメンバーがもう変わってたよね?ドラムとベースが変わったのはいつ?
楠 このライブのだいぶ後だったはずやけど。
寺 91年の夏は俺ももうおらんわ。
中 ほんまはな一度解散してんねん。一回やんぴってなって、ケンとふたりで仕切り直してやろと思ってんけどまたデボネアって名乗ってしまったからややこしくなってんねん。
ー解散しようかってなったのは90年の暮れぐらい?
中 けど90年の暮れぐらいにビッグバンでやってるやん。あんとき寺島やってるやんな。
寺 やってるな。
ーじゃあ解散は91年の春ぐらい?
中 暮れのビッグバンはサイド・デッシュと一緒のやつやろ?マンチェやろうとした時や、あのヘロヘロやった時。
楠 あー、「ゼア・シー・ゴーズ」やった時や。
中 『エターニティー・ワン』はいつ?
ーあれは92年の春かな。二人が抜けた理由はどんなこと?
中 抜けたんじゃなくて解散や。
ーそういうことなんだ!それが91年の春だよね。
楠 いや、もっと後なんじゃない。
ーでも俺91年の夏にビッグバンで堂森くん(2人目のドラマー)がドラムのデボネア見てるよ。
中 いやあのサイド・ディッシュとのライブは寺島やんな。
寺 いや、覚えてないなー。
ーそん時ベースは?
中 東泉(2人目のベーシスト)?
楠 いや、東泉はもっと前にやめてるやろ。
中 そうや、東泉がやめた時点で俺もやる気のうなったしな。
ーじゃあベースは?
楠 栃尾(3人目のベーシスト)かな?
中 栃尾は堂森とセットやからな、もしかしたらコウちゃんかもしれん。サイド・デッシュのベースの子。
楠 あったあった!そんなこと!たぶんビッグバンはそうやわ。
ーそん時紀平くんがDJだったよね?
中 おったおった、紀平とマメちゃん。
ーそれ見て俺はCD出そうって言ったんだよ。
中 よう言うたな、あんなヘロヘロのライブで(笑)。
ーあの時、こういう音楽やってるってだけで俺はうれしかったけどね。
中 ほんまあのころの記憶がないねん。
楠 そうやな。
ー俺が91年の6月か7月にヴィーナス・ペーターとシークレット・ゴールドフィッシュでビッグバンに行った時にケンちゃんとショウちゃんに会ってるんだよ。その時もう堂森くんいたよ、「こいつが新しいドラムや」って紹介されたような。
中 『ハッピー・ナウ?』の12インチはいつ?
ーあれは91年の12月ぐらいじゃないかな。
楠 てことは夏には堂森もおったかもな。
中 辻褄あえへんな(笑)、ちょっとまってな。(奥にテープを撮りに行く)
中 90年や、90年の12月や。コウちゃんベースでドラムは寺島やわ。最後にサイド・ディッシュとデボネアが合体して「ゼア・シー・ゴーズ」やってるわ。最悪や、これ見てるの?
ーそれは見てない、俺が見てるのは91年の夏が最初、その時もサイド・ディッシュが一緒だよね。
中 そうや、しょっちゅう一緒にやってたしな。
ー91年にもう一度バンドをやろうと思ったのはどうして?
楠 なんでやろな?(笑)ほんま覚えてないわ。
ーシークレット・ゴールドフィッシュとはどうやって知り合ったの?
楠 ビッグバンやな、マンチェ・ナイトみたいなイベントで、あれ、そん時はもう金魚やってたかな?
寺 まだやない?
ーシークレットがラッシュの前座やったのは?
寺 それはもっと後や。
ーそうか。
寺 あればクアトロのオープンの時やったよね?大阪の。
楠 そうやな。
ー当時はみんな外タレの前座やってたね。
中 サイド・ディッシュもポッピーズ(Pop Will Eat Itself)の前座やってたな、クアトロで。
楠 俺はシャックの大阪の前座やれんかった理由がまだわからん、東京でやってるのに。
寺 イズルが金魚はじめたころは俺らはビッグバンを卒業しようとしてたころやろ。
ーそう、シークレット・ゴールドフィッシュは91年の春にはアルバム作ることが決まってて、俺はイズルくんとヴーナス・ペーターの石田さんにデボネアの話を聞いて、ライブを見に来たんだよ、それが夏ぐらい。そのあと9月か10月に一度大阪に来てレコーディングの話をしたよね、たしか天狗か白木屋みたいな居酒屋で。そのあと『ハッピー・ナウ?』のレコーディングしてるんだよね。
中 もう92年になってんちゃう?91年の12月に川崎チッタでワンダー・スタッフの前座やった時にはまだなんにも出てなかったし。あいつら誰や?って言われてたよ。
ーワンダー・スタッフの前座は3日間、ヴーナス・ペーター、シークレット・ゴールドフィッシュ、デボネアだったね。あればH.I.Pから話が来たんだよ。そのあと『ハッピー・ナウ?』が出て、夏に『エターニティー・ワン』がでるんだけど、なんで『エターニティー・ワン』はバンドで録音しなかったの?
中 当時、栃尾と堂森もたぶんサポートみたいな感じやってん、あんま覚えてないんやけど(笑)、そんでケンと二人でアルバム作ろうってなって。
ーなんでバンドの録音じゃなくなったの?
中 井出ちゃん(当時のデボネアのプロデューサー、マネージャー)がアコースティックで行こうって言ったんじゃないかな。当時アンプラグドがメチャ流行ってたし(笑)。タイミング的にもバッチリやって(笑)、そんな気がする。
ーほんと、25年以上たっても言うけど、俺がマスター聴くまで知らされてなかったっておかしいよね!俺はライブで見てた演奏を録音すると思ってたし、いきなり『できたでー』ってアコースティック・アルバム渡されて…。バンドで録音しようとはしなっかたの?
中 まるっきりしてないな。アンプラグドっていうコンセプトだけ決めて、それから曲をアレンジし直して。
ーファースト・アルバムなのにわざわざわかりにくくしようとしたのはなんで?
中 いま思うとカッコええな!(笑)。「ハッピー・ナウ?」をあんなバンドでシングル出しといて(笑)。こんなバンドいたら買うてまうは、俺(笑)。
ーそれがデボネアっていえばそれまでなんだけど。
中 普通通りやってないとこがな。でも、今でも聴けるのは良かったと思うで、変にマンチェにしてないしな。
ーそうだね、たしかにいま聴いてもいいからね。だから2003年に再発もしたんだけどね。でも当時はバンドの録音聴きたかったよ、ほんと。
中 だからそれは『エターニティー・ツー』で実現するつもりやってん。
ーアルバムが発売になってすぐ堂森くんはやめるよね?そのあとライブはやってた?
中 そうやな、あいつ金沢の出身で、就職で帰ったんじゃなかったっけ?92年はしばらく俺とケンの二人でライブやってたと思う。二人で東京行ったやん。
ー二人で東京ってあったっけ?
楠 インクスティック鈴江とか。
ーあー、あったね!あの時は二人だったのか。その後またドラムとベースがはいるよね。
楠 高原とベンやな、ベンはニューエスト・モデルのドラムやってん。
ーそれいつ頃?93年ぐらい?
楠 『タングルド・アップ』はいつ?93年の暮れぐらい?そもそもベンと高原はどうしてやることになったんや?
中 あれは吉田くん繋がりで、吉田くんは今サイコババっていう名前で有名なシタール奏者なんやけど、彼がシャックの前座のときのベースでドラムは寺島や。
寺 俺はやってないよ。
中 えー、じゃあ誰やねん?
楠 俺も覚えとらん。
中 シャックはバンドでやったもんな、まるで記憶ないわ(笑)。
ーほんと覚えてないね(笑)。シャックの時の前座は俺も見てたからなー、誰がドラムだったっけ?
中 寺島じゃない?
寺 俺は違うよ。
ー堂森くんは渋谷オンエアでワンダー・リリースのレーベル・イベントの時に、ショウちゃんの横でタンバリン叩いてたのが彼と会った最後だったと思う。ケンちゃんが事故で出れなくなった時。
楠 あったあった!そんなこと!
中 じゃあシャックの時のドラムは誰や?
ー92年だよね。
楠 12月23日やわ。
ーまあシャックの時のドラムは置いといて、93年にもう一枚アルバムを作ることになって、ドラムとベースを探したってことだよね。それで高原くんとベンくんを吉田くんに紹介してもらったってこと?
中 そうだったかな?でも正式なメンバーっていうわけでなく、レコーディングのためのサポートで。そのレコーディングすら俺が半分叩いてるしな。
ー『タングルド・アップ』は俺も絶対バンドで録ってくれって言ったんだと思うけど、なんであんなに音悪いの?
中 井出ちゃんに聞いてもらわんと。
ーなんか狙いがあったの?
中 なんかあったんちゃう。
楠 いや、あれでもまだましなほうやで。最初ぜんぶ片チャンによしたりモノにしたり、アレコレやりすぎてたよね。
中 あんとき卓の上にガーンとビートルズのCD積んであったやん、あん時のエンジニア、キダちゃんっていう人やな。ずーっとビートルズ聴いてたしな。
ーあのレコーディングは8チャンネルのマルチ?
楠 16トラックやったよ、高槻のサブロックっていうスタジオで。
ーマルチはもうないよね?
中 ないなー、あればもう一回ミックスしたいよな。
楠 俺あん時の録音してすぐにラフ・ミックス聴いたけど、CDより音いいよ(笑)。
中 俺それ持ってへんよ、帰りの車で聴くようやな。こんどちょうだい(笑)。
楠 ショウちゃんは持ってるやろ。ヨダちゃん、それもいる?
ーもういいわ(笑)。ほんと俺はデボネアのCDを2枚作ったんだけど、どっちもいきなりマスターが届いただけじゃん。
楠 ほんまひどい話やね(笑)、いまから思えば。
ー当時の2枚もほんとはもっと良くできたと思うけど、俺は今回の再発でかなり満足したよ(笑)、なんせ今回はほぼ全部自分でできたしね。
楠 そうやな、今回「ハッピー・ナウ?」とかムチャ音よくなってるよな。
ー『タングルド・アップ』が出て、94年以降はどんな活動してたの?
楠 まだベンと高原やね、東京もシェルターとかでやってるしな。
中 そうやな、最後の音源は95年やもんな。
ーそれはどこ?
中 Queや、自分の企画やろ。
ーQueならそうだね、どんなバンドが一緒にでてたんだろう?
楠 まったく覚えてないなー、こないだのペニー・アーケードのときがはじめてかと思ったぐらい(笑)。
ー95年か、でも95年なら俺もまだUKPにいたからやっててもおかしくないね。
楠 ヴィナペ?
ーヴィーナス・ペーターは94年に解散してるからないな、沖野くんのソロかな?96年はどうしてた?
楠 まだやってるな、菅野っていうドラムやったけど、覚えてない?
ーとくに解散っていう宣言もなくやめたってこと?どうして?
楠 なんとなくやなー、あとショウちゃんがケガしたっていうのもあったな。
ーそうだね、俺も95年からはデボネアと疎遠になってるね。ダンス・ミュージックにはまりはじめたのが95年の夏だし。
中 ケガしたのは93年やで、『タングルド・アップ』作ってすぐかな。
楠 えー、そうなんや。俺の記憶も相当あやふやになってるわ。あ、思い出した、東京でシアター・ブルックと一緒にやってるよ。
ーあー、それはあるかも。俺その時期にシアター・ブルックのアルバム1枚作ってるから。
楠 そうなんや、そんなら多分シアター・ブルックやわ。
ー96年ぐらいに、ショウちゃんスタジオで働いてなかった?
中 俺がやってたんや、オーナーで、そのスタジオ。
ーそうなんだ。
楠 居抜きでやってたんや。俺らがずっと付き合ってたギター屋のオッサンがやってて、それをショウちゃんがそのまま譲ってもらって。
ーなるほど、ケンちゃんは?
楠 俺ももう普通に働いてた。
ーギターも弾かずに?
楠 96年あたりならそうやね。
ーそれから20年かー。
楠 そうや!俺ほんまに20年ギター触ってなかったもん。こないだのペニー・アーケードのときまで(笑)。
中 俺は触ってんで。
ーショウちゃんのスタジオはいつまで続いたの?
中 94年から2010年ぐらいまで、この店をはじめるまでやな。
ーそうか、ちょっと話を戻すけど『ぼうしレーベル』は知り合いだったの?
中 いや知り合いちゃうよ。
楠 そうや、当時俺らは知り合いじゃなかったよ。
ービッグバンでのアノラック・パーティーは呼ばれたってことなんだ。
楠 そう、それまで知らんかった。
ーたまたま関西でやるからぼうしレーベルの山内さんが声かけてくれたんだ。
楠 そうそう、アッコちゃんやな。
寺 そう山内さん!
ーデボネアはb-flowerと知り合いじゃあないんだ。
楠 当時はまったく知らんかったよ。
中 俺らほんまに友達おらんねん。もともとつるんでたバンドもほぼいなかったし、90年以降にサイド・ディッシュと金魚(シークレット・ゴールフィッシュ)ぐらいやな。
ーそうなんだ、アノラック・パーティー以前はどんなところでライブやってたの?
楠 ファンダンゴかな。
ーどんなバンドと一緒にやってた?
楠 もう適当、ライブハウスが決めるような。
ーじゃあ、話もしないし…。
楠 そうやな、楽屋でどうもってぐらい。
中 どうもも言わんかった。
ーアノラック・パーティーが88年だよね、そのあともしばらく一緒にやるバンドも特にいないんだね。サイド・ディッシュとはどこで知り合ったの?
中 喫茶店や、メリーチェインが流れてたわ。
楠 それでこんなん好きなんや、俺らバンドやってんけど、みたいな。それでもむこうも俺らもバンドやってるいうて。
ーサイド・ディッシュは最初から二人?
中 最初3人やってん、破天荒なやつがいてな。
楠 そう、メチャクチャなやつがおって。
ーそれが89年ぐらい。
楠 いや、最初は薄田くんが紹介してくれたんやわ。彼がウッドストックいうレコード屋にいて、俺らもサイド・デッシュも常連やったしな。そこに俺らのプロデュースをしてくれた井出ちゃんもおった。で、サイド・ディッシュがバイトしてた喫茶店はそこから徒歩1分。
ーアノラック・パーティーがあって、サイド・ディッシュとも知り合って、シークレットが出てきてちょっとしたシーンみたいになってきたんじゃない?
楠 いやいや、そんなんないよ。大阪はまったくなかった。特に俺らと話しをしたいっていうやつはほとんどおらんかったんじゃないかな。そうや!ラフィアンズ知ってる?あとはポートっていうバンドぐらい。
ーラフィアンズは知ってる。
中 ラフィアンズは最高やったで、再発したらええやん。
ーラフィアンズはどこから出てた?
中 当時は自主のテープしかないな、90年代はグランジとかオルタナとかになってまって。80年代のラフィアンズはええよ、もろスミス。
ー俺はもうグランジっぽくなってるラフィアンズしか知らない。
中 ぜんぜんちゃうよ。
ーそういう意味ではまったく孤立してたデボネアに声かけてくれたぼうしレーベルありがたいね。
楠 そうやね、多分ジャンゴ繋がりなんやろうな。
ー91~92年あたりの関西はネロリーズやb-flowerがいたと思うけど、一緒にはやってないんだ。
楠 b-flowerは機会がなかったなー、ネロリーズは何回かやってるよ。それもジャンゴ繋がりやな。
ー彼女たちは当時高校生だったよね。
寺 そうやね。
楠 その時期でも大阪はシーンみたいにはなってなかった。
中 俺らが知らんだけちゃうの?友達いなかったしな。
楠 80年代はD'fとかかな。
ーおー、D’fは俺も好きだったよ。D’fの再発って俺がやってるんだよ。
楠 え、UKPからD'f出てんの?知らんかった、ほんま?
ーD'fと一緒にライブやってるの?
楠 一回だけやってる、俺らの大学の学園祭。あれ何年?
中 89年ちゃう。
楠 いやー、もっと前やろ、87年ぐらいのはずやわ。
ー87か88年で活動休止してるんじゃないかな?
楠 そのころやな。
ー俺D’fの大ファンだったんだよ、ライブ見れなかったけど。
中 ルースターズやらブルー・トニックやらな。
ーそうだね。フリッパーズのデビュー・アルバムは当時聴いた?
中 俺買うたで。
ーどうだった?
中 素晴らしい思ったわ、ほんま。いまでも愛聴盤や。
楠 当時あんなレコードつくるやつおらんかったしな。
中 そうな、自主制作レベルじゃなしにな。こんなんがちゃんとレコード会社から出てるっていうのが衝撃的やったわ。
ーそうだね。ほんとに驚いたよね、このレコードは。
ー紀平くんと知り合ったのはビッグバン?
楠 そうやな。
中 楽しかったなー、あの時期は。ほんでイズルらともその流れで知り合ったはずや。毎週おったからな、ビッグバンに。
ー楽しかったね、東京もそうだったよ。とにかくレコード屋とちいさなクラブね、たまにクアトロで外タレ。
ー当時は来日公演も多かったしね。
中 いまはもうへたすりゃ大阪もやらんで東京だけも多いしな。
ーショウちゃんが最初に見たコンサートってない?
中 俺、シン・リジー。
楠 俺はAC/DCや。
寺 俺ウルトラ・ヴォックス。
ーえ、ウルトラ・ヴォックスって79年ぐらい?
寺 80年かな。
ー中学生だよね、会場どこ?
寺 厚生年金。
ーそれって『ヴィエナ』のとき?「ニューヨーロピアン」がヒットした?
寺 そう、その時。ミッジ・ユーロのウルトラ・ヴォックス。
中 おれはその前にミッジ・ユーロ見てんで、シン・リジーで。
ーえ、ミッジ・ユーロってシン・リジーにいたことあるの?
中 シン・リジーにゲイリー・ムーアが入って『ブラック・ローズ』っていうアルバムだしてすぐの来日、直前でゲイリー・ムーアが抜けて、代役でミッジ・ユーロが弾いたのよ、俺は当時ミッジ・ユーロ知らんかったけど(笑)。
ー『ブラック・ローズ』ツアーでゲイリー・ムーアいないんだ!詐欺だね。
中 79年のこと、証拠もあるよ。
ー昔のチケットとってあるんだ!すごいね、これ写真とらせて。
中 これが最初の外タレ、その前にペドロ・アンド・カプリシャスは見てるけど(笑)。
ーそうか、クラッシュの来日見てるんだもんね。
寺 俺もジャムは見てるよ。
中 俺も見てるよ、当時知り合いちゃうけど、おったな同じ場所に(笑)。
ーコクトー・ツインズも見てるのか!すごいね。
中 84~5年からは同じやろ
ースミスの登場からはそうだね。当時大阪で輸入盤を扱うお店はどこだったの?
楠 ウッドストックやね、あと新星堂。もし俺らが東京おったらどえらいことになるよ。
中 そうや!大阪でもこんなんあんまりおらんやろう、マニアックなやつ。
楠 俺らがはじめて東京でヴィニール行った時の興奮状態ときたら!あれはいまだに忘れられんわ。
中 あれは大阪ではありえへんねん、あんなレコード屋があるのが奇跡や。もう店内でケンとレコードの奪い合いよ。
楠 そうやったね、どっちが先に見つけるか。
ーそうだね、ヴィニールができて新宿レコードもウッドストックもUKエジソンもぜんぶなぎ倒していった感じはあったね。
中 あの公園の向こうっ側やろ、ウッドストックの向かい。
ーそうそう、はじめはね。
中 俺はいまでもレコードの話が一番楽しいねん。
楠 当時もな、東京でライブがあると前乗りしてレコード屋やからな。
中 ヨダちゃんには悪いけど、ライブよりもレコード屋の方が大事やったわ(笑)。
楠 そうやったな、ヴィニールの前に車止めて店開くのまってたわ。
中 そんで開店したらレコードの取り合いや。俺あれまだおぼえてる、シャックの『ハイ・ライズ・ロー・ライフ』の冊子のついてるやつ!ジャンケンして俺が勝ったやん。
楠 あー、あのプレスリリースのついてたやつな!思い出した!俺はあれ、3日はくやしくて寝られんかった(笑)。
中 俺が買うてん、うれしかったわー。ほんまレコードの話が一番楽しいな!
楠 ほんで『ジャスト・ア・ガール』の話かいな?
中 その話してやりいな、ヨダタロウその話知らんし(笑)
楠 あー、そうやな。ペイルの『ジャスト・ア・ガール』の7インチは当時誰も持ってへんかった。
中 そうや、存在も知らんかった時にやな。
ーそうか、ヴァージンじゃなくてクレプスキュールだから。
楠 そん時や、俺がレンタル・レコードで見つけてしもうて(笑)。なんやこれ、こんなシングルあったか〜思うて、そんでお店に売ってくれいうて直談判して、5千円出すいうて。いまでいうたら5千円は普通やけど、あの頃あの年で5千円は大変なことよ。そんでなんとか譲ってもらって、みんなこんなん知ったら驚くだろうな思うて、みんなに今日すごいの手に入れた〜って自慢して。みんな、うわ〜なにこれってなってん。そんでそれからちょっとしてやな…。
中 俺が難波の新星堂に行ってん、もうレコードの販売やめるいうて安売りしててん、全部100円でええわみたいな。そしたらそこに『ジャスト・ア・ガール』が出てきてん(笑)。しかも新品やで!これケンが5千円だしたやつや!って。
ー新星堂は当時クレプスキュールの流通やってたね、それで。
楠 しかもあのシングルオリジナルと再発ともう一種類の3タイプあって、オリジナルはジャケットの星が型押しや、次が印刷でそのあとなにもない白になるんやけど。
中 俺が100円で買うたやつは黒の印刷やったんけど、ケンのは型押しのファースト・プレスや。よかったな(笑)。けど俺が100円で買うてきたあと、ケンが一週間ぐらい口きいてくれへんかった(笑)。
楠 『ジャスト・ア・ガール』って聞くだけでいややったわ。
中 けどイギリスいくとあれはなんぼでもあったわ、普通に2ポンドぐらいで売ってたな。マイケル・ヘッドにサインしてもろうたしな。あの人まだ俺らのこと覚えてるんちゃうかな。
楠 覚えてるやろう、それは。
中 シャックの1stはほんと腐るほど聴いたな、88年やろ。
楠 俺はデボネアの元ネタがありすぎてあんまり聴けへんねん(笑)。
中 そうやな、アルバム聴いたら思い出すこといっぱいあるな。
ー88年はローゼズが『エレファント・ストーン』だすじゃない、聴いてた?
中 もちろん、88年にシングル買うてたな。
楠 この頃から7と12両方買うようになってん(笑)。
中 またいうけど、東京はほんま違ったわ。
ーなにが?
中 レコード屋、レコードの話が一番楽しいわ(笑)。
ーそうだね、俺もあんなにしょっちゅうレコード屋に行った時期はあとにもないよ。
中 俺らはニュー・オーダーのコレクターやってん、そのおかげでマンチェの時期に打ち込みに抵抗がなかってん。
ーあー、俺が一度ショウちゃんの家に行った時もニュー・オーダーのコレクション見せられたね。でもほんとに特殊な集団だよね?デボネアの周辺だけでしょ、そういう話してんの。
中 友達おらんからな。
ー大阪にはモッズシーンはなかったの?東京は80年代後半から90年代前半にかけて新宿ジャム周辺のモッズ・シーンとギター・ポップ・シーンが合流していくような感じだったんだけど。
中 大阪にモッズ・シーンはないな、ファンション的な人らはおったとおもうけど音楽はないと思う。
楠 アメ村あたりにベスパ乗ってるやつらはいたけど、音楽の人たちじゃあないな。
中 あいつら昔の曲しか聴けへんもん。
ーそうなんだよね、確かに。89年だったら『ゼア・シー・ゴーズ』聴くのが正しいもんな。89年、90年、91年はいつも話題のレコードが出てたじゃない、とにかく毎週チェックしないといけないぐらい。
中 楽しかったわー、毎日が(笑)。とにかくケンの髪型がすごかったで、ロンゲ(笑)。毎月誰かが来日公演してたしな。
ーそうだね、ライド、マイブラ、プライマル、メリーチェイン、シャーラタンズ、インスパ、マンデイズ、ティーンエイジ・ファンクラブ、ラーズ、ローゼズ、ジーザス・ジョーンズ、ラッシュ、セント・エチエンヌ、ペイル・セインツやノースサイドまでね。
中 そうやな全部見たよ、ほんまによかった時期は89年と90年やな。
ー90年はイギリスに行くよね、どんなライブ見た?
中 見た見た、見倒したよ。アイシクル・ワークス2回とか(笑)。しょうもなかったー、異様に男臭かってん。俺らが思ってるアイシクル・ワークスじゃなかってん。バンド・オブ・ホーリー・ジョイとかファティマ・マンションやライラック・タイムも見たな。ライラック・タイムはオール・アバウト・イブの前座やってん。あとバイブルのフロントの2人がやっててメチャ良かってん、あれが『エターニティー・ワン』に影響してるわ。
楠 あれはほんまに感動した、バンドはもうなくなってんけど2人でミーンフィドラーに出ててな。
中 あとハウス・オブ・ラブも見たな、キルバーンで。エブリシング・バット・ザ・ガールのロイヤル・アルバート・ホールは爆睡やった。ブリクストンでスティッフ・リトル・フィンガーズあれは怖かってん、道で車が燃えてた(笑)。
中 あの時町中ライドのポスターだらけや、まだアルバムも出てないのに。
ーシングル2枚だけでいったよね。
中 あの頃のロンドンにまたいきたいわー。
ーどれぐらい行ってたの?
楠 俺は3ヶ月
中 俺は半年ぐらいおったな、当時のマネージャーの横井から帰ってこい言う電話がきて。その一週間後ぐらいにシャックのライブがサブタレニアンであってん、見ずに帰ったわ、よう覚えてる。
ー帰国の理由がミスチルの収録されたコンピレーションのレコーディングね、スウィッチの。
中 そう。
楠 まあそのおかげで「オールモスト・リーチド」がちゃんとレコーディングできてよかったんちゃう。当時は好きやなかったけど、今聴くと『タングルド・アップ』よりよっぽどマシやで(笑)。
Debonaire x b-flower
大阪
日時:2022年5月21日土曜
会場:大阪NOON+CAFE
時間:open/start 17:00
出演:Debonaire、b-flower、The Harriets
DJ:YODA
チケット:前売 3,500円 当日 4,000円 +1ドリンク・オーダー
ローソンチケット:Lコード:54989
e+:https://eplus.jp/
http://noon-cafe.com/
東京
日時:2022年6月18日土曜
会場:新代田FEVER
時間:open/start 17:00
出演:Debonaire、b-flower +Guest TBA
DJ:YODA
チケット:前売 3,500円 当日 4,000円 +1ドリンク・オーダー
e+:https://eplus.jp/sf/detail/3599010001-P0030001
https://www.fever-popo.com/