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日本最古のネオアコ対談 Debonaire x b-flower

KKV Neighborhood #42 Interview - 2020.09.16
by 与田太郎

本来ならば10月10日に30年越しの共演が予定されていた2バンド。残念ながら今回はいったん中止となり実現は来年へ持ち越しとなってしまいました。じつはこのイベントのプロモーションのために収録していた対談がありました、せっかくなので公開しようと思います。

b-flowerは11月に22年ぶりのアルバムの発売を予定しているそうで、まもなく詳細が告知されると思います。来年こそは大阪NOON+cafeでライブ演奏を聴けることを祈りつつ、日本最古のネオアコ・バンドの邂逅をご覧ください。

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デボネア(Debonaire)とb-flowerはともにイギリスのネオアコ、インディーに大きな影響を受けて80年代に関西で活動をはじめた。80年代、日本ではニューウェーブに影響されたバンドはそれなりにいたが、ネオアコやギター・ポップ(ギター・ポップという言葉すらまだなかった)をオリジナルで演奏するバンドはほとんどいなかった。90年代になりようやくUKインディー・ブームの流れの中で彼らの活動もようやく注目されることになる。どちらも日本最古のという枕詞がつくという意味ではシーンのオリジネイターだったし、ともに関西で活動していたにもかかわらず、活動当初から彼らはお互いに近づくこともなかった。

あれから30年、ついに共演が実現する、はずだった...。せっかくなので同じ時代に同じような音楽に影響を受けた世代として、ライブ開催前の顔合わせをかねて対談をしてもらった。ただ、デボネアのキャラクターをご存知の方にはわかると思いますが、ただのおっさんによる飲み会の与太話で終わる可能性があったので、まずはb-flower八野(英史)さんに話しを聞いてからデボネアのメンバーと合流した。対談は非常に楽しいものではあったが筆者の予想通りの内容となっている。デボネアについての詳細を知りたい方は以前このページにアップした彼らのインタビューを読んでもらいたい。

b-flower 八野英史インタビュー

――今日はよろしくお願いします。

八野「誘っていただいてありがとうございます、嬉しかったです」

――こちらこそありがとうございます。デボネアはみんないい奴らなんですが、柄が悪くて(笑)。まずは先に八野さんのお話を聞かせてもらおうと思いました。90年代前半に僕のレーベル(Wonder Release)から彼らのアルバムをリリースした当時はなかなか打ち解けてくれなくて。当時は若かったこともあってお互いツッパてる部分もありましたし。本当に同じような音楽が好きで同じようなことを考えていたんですが、ライバル意識みたいなものもあって。

八野「ありましたよね。あの頃はみんなガチガチでしたよね、自分のバンドが一番やと思ってたし」

――現場のディレクターとしてバンド同士を繋げるのもけっこう大変でしたし。でもあれから30年経って、僕はKiliKiliVillaをスタートした時に20年ぶりにデボネアの尚ちゃん(中井尚志)に会いに行って、一晩話したら、彼も丸くなっていて(笑)。その時に当時やり残したことをもう一度やってみようと思いまして。去年はようやく大阪でもライブができたし、次はどうしようかって話してる時にb-flowerと共演を提案したんです。多分昔だったら考えたと思うんですが、その時「それ、ええな!」という返事で。それでオファーさせてもらいました、今日はよろしくお願いします。八野さんは何年生まれですか?

八野「僕は63年です」

――そうなんですね、デボネアが66年、67年なんですけど少し年上なんですね。すっかり同じぐらいと思ってました。ペニー・アーケード(Penny Arcade)と同じぐらいなんですね。

八野「そうなんです、僕らはけっこう年いってるんですよ」

――いまとなってはもうかわらないですが(笑)、まずb-flowerをスタートした時期の話を聞かせていただけますか?

八野「スタートはデボネアやペニー・アーケードの方たちとおんなじだった思います。ただ僕らは京都の北のほうでやっていたので誰からも気づかれないし、自分たちでも延々とスタジオで練習するだけで。でも僕らは一つだけ他のバンドと違ったのは、ああいうサウンドで邦楽を作ろうとしてたんです、核心から言ってしまうと。その部分ではイヌ科とネコ科ぐらい違うんです」

――それは違いますね。

八野「洋楽的アプローチの彼らにとって、僕らの存在は受け入れられないだろうと思ってましたね。ただここまできたらルーツの部分が強く感じられるし、不思議なことになんか交わってきてますね。90年代だったら僕が小出(亜佐子)さんのイベントに出さしてもらうなんか考えられなかったですし」

――多分、一番多感な時期に同じものを求めていたという感覚はみんなに共通してるんじゃないかと思います。自分でもそれははっきり意識できる気がしてます。八野さんはご出身はどちらですか?

八野「僕はもともと大阪なんです、小学校の時に高松に引っ越して大学が京都です。いまは滋賀県に住んでます」

――最初に自分で音楽を聴いたのは何でした?

八野「なんやろうなー、子供のころはジュリーとかの歌謡曲が入り口で、高校生でバンドをはじめた時期はビートルズやストーンズで、割と普通のロック・ファンからのスタートですね。その流れでクラッシュやピストルズを聴き始めて、ニューウェーブになって。特に大学のサークルはニューウェーブ色が強くて、第二次ブリティッシュ・インベンションの流れでデュラン・デュランみたいなタイプのバンドをやったりしたんですけど、なにか違うなって思いまして。人間的にも僕は肉体派のロック違うし、なにか自分にあった音楽を探している時にポスト・パンクのマリン・ガールズやらヤング・マーブル・ジャイアンツやらをかっこいいやん、と思ったのが入り口ですね」

――それは何歳ぐらいですか?

八野「それが二十歳ぐらいです」

――ラフ・トレードの国内盤を徳間ジャパンが出してた時期ですね。

八野「オムニバスの『クリア・カット』(81年)なんかがでた頃です。そのころだとチェリーレッドの『ピローズ・アンド・プレイヤーズ』(82年)とか」

――そういう音楽情報はどうやってキャッチしてたんですか?

八野「なんやったろうな、雑誌もちょろちょろは見てましたけどやっぱりレコード店ですかね。京都は四条にあった十字屋がけっこうUKインディーとかを揃えていて、僕は大学卒業してから横の大丸で働いたりしてたんで帰りに毎日寄って見てました。で、月に一回ぐらいは大阪に遠征したりしてました」

――大阪はジャンゴ(現在は奈良で営業、当時は心斎橋に店舗を構えていた)ですよね? 多分デボネアのメンバーも同じ時期に通ってたんだと思いますけど。

八野「そうですね、ジャンゴは友達から大阪にいかついレコード屋があるわ、って教えてもらって、ほんならいっぺん行ってみるわって(笑)。まあ、まさにそういう感じの店で、僕はよう喋らんほうなんですが、まあよう話されました。これはどういう感じなんですかってきくと、『これはペイル・ファウンテンズ、みたいで、ペイル・ファンテンズ知ったはりますか?』みたいに(笑)。多分その時店にならんでるデボネアの7インチみてますわ、でもね、買ってみて(日本のバンドやのに)もしかっこよかったら悔しくて嫌やから、買わなかったんです(笑)、間違いなく」

――80年代半ばにはb-flowerとしての活動も始まるんですか?

八野「そうですね、85年に働くのが嫌で留年して僕5回生やるんですけど(笑)、その年の4月に結成してるんです。そやけどまだb-flowerという名前もなくて、とりあえず毎週集まって夜リハーサルして。それが2年ぐらい続いて、曲もだいぶ溜まってきたしライブしよかってやりだしたのが87〜88年あたりです」

――デボネアも同じようなタイミングでスタートしてます、僕らの学年は85年が高校卒業でしたから。彼らも87年ぐらいにはライブやっていたと思いますから、ほんとに同じようなタイミングですね。

八野「僕らは自分たちと同世代ではこういう音楽をやる人はいないと思ってました、やっぱりニューウェーブ世代ですから、もしくはパンクでしょう。僕らは一度それを清算して始まったと思ってたから、周りに同じ感覚の人が誰もいなかったんです」

――たしかにペニー・アーケードの話を聞いても、初期はニューウェーブやそれこそゴスっぽい感じの人たちと一緒にやっていたと思うんですが87年ぐらいからいわゆるインディー系、ネオアコ的な人たちが少しづつ周りに集まるようになったそうです、ペニー・アーケードもネオ・サイケ的な部分もありますし。ペニーは八野さんと同じ世代なので、共通の感覚はあったと思います。89年にはもう普通にライブ活動をされてましたよね? よくやっていたライブハウスはどちらですか?

八野「銀閣寺にあったCBGBという店です、そこがメインでしたね」

――う〜ん、知らないなー。

八野「そうでしょう(笑)、わりとちゃんとした店でしたよ。もともとはサーカス・サーカスっていうたんですけど、名前が変わって。ビッグバンも一回だけやりましたね、ほんで磔磔もやったかな。でもブッキングはしてくれるんですが、なかなか合うバンドもいなくて、僕らの場合は日本語というもうひとひねり入ってるじゃないですか(笑)。そうなるとすごいポップで爽やかな杉山清貴みたいのやら、もっと洋楽よりで、って頼むと訳のわからん暗くて気持ちの悪い人だったり、とにかく誰とも合わなくて(笑)、もちろん僕らも未熟やからたいしたことできてなかったですけど」

――ちょうど盛り上がっていたローザ・ルクセンブルグが解散してボ・ガンボス(BO GUMBOS)がデビューするぐらいですよね。

八野「そうです、玉城(宏志)さんと三原(重夫)さんが大学の先輩なんですよ、僕が1回生の時に玉城さんが5回生で、カーネーション(CARNATION)の大田(譲)さんが3回生にいたんですね、すごい人たちを見てましたから自分たちはたいしたことないと痛感しながら大学生活送ってました、あとグランドファーザーズ(GRANDFATHERS)の西村(哲也)さんとか、そんな人たちが先輩におって」

――そうですね、東京でもオリジナル・ラブ(ORIGINAL LOVE)みたいなバンドが活動始める時期ですね。その後89年にフリッパーズ(・ギター)の1st『three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった』が発売されて、それがきっかけでいろんなことに音楽好きが気づきだしましたね。

八野「あのアルバムにはびっくりしましたね。それまで全く知らなかったグループのCDを聴いて、なんやこれ!って。若いですし、ほんまにびっくりしました」

――89年の夏のリリースですが、89年のうちに聴かれてました?

八野「少しおくれたんかもしれんけど、89年には聴いてました」

――90年代に入ってシュガー・フロスト(イギリスのインディー・レーベル)との出会いはどういう形だったんですか?

八野「レコード会社を通しての出会いやったんです」

――そうなんですか。

八野「僕らは周りのこと何も知らずに過ごしてたんです、当時僕らもあまり状況は理解してなかったんやけど、東芝がオムニバス・アルバムを作るということになって、その時にはじめて担当の方に紹介されたんです。奈良で活動してたネロリーズ(Nelories)もその時に紹介されて、彼女たちやペネロープス(The Penelopes)なんかの関西のバンドを集めたアルバムにしようと。その流れでアッコちゃん(山内章子、シュガー・フロスト主宰)とジョンを紹介してもらって」

――なるほど、僕は先にみんなが集まっていたのだと思ってました。

八野「担当の方がなかなかの策士で(笑)。僕らが音源を作ってる時に東芝から出さないかって、声かけてくれて、僕らはとにかく出したかったですから。それからですね、でアッコちゃんとジョンも気に入ってくれて『バース・オブ・トゥルー』に参加することになったんです。でも曲は私たちが選ぶって、いわはって、これとこれ!(笑)、それで、はいおねがいします、と(笑)、それで7インチ出して」

『The Birth Of The True』収録曲“My Phantasmic Glider”

――ちょうど91~91年ぐらいですね、僕もネロリーズやb-flowerはそのオムニバスで知りました。その後クアトロが主催していた〈ブラン・ニュー・スキップ〉というイベントにヴィーナス・ペーター(Venus Peter)やシークレット・ゴールドフィッシュ(Secret Goldfish)がよく出ていて、そこで彼らとb-flowerとも一緒になったことがありましたね。ネロリーズはヴィーナス・ペーターとそれも含め3~4回一緒だったと思います。ちょっと話は戻りますが、89年にストーン・ローゼズのアルバムがリリースされますが、八野さんもすぐ聴かれましたか?

八野「聴きました、あそこでガラッと流れが変わりましたね。完全に空気が変わったので、いまさらネオアコでもないみたいな感じで。雑誌でインタビュー受けても、これからはインディー・ダンスだよって言われてディスられたり(笑)」

――それわかります、当時の雑誌の編集者ってとくにロッキンオンとかは本当に偉そうでしたよね。僕らも「コレを聴くなら洋楽を聴きます、ものまねでしょ」みたいなこと言われました。おまえこそ何様なんだと(笑)。

八野「あっこ(ローゼズのファースト)で流れが変わった時に、そのままでいくのか僕らも変化するのか考えたんですけど、僕らそこまで器用じゃないし、もういいや、自分たちのできることやろうやってなりましたね。そうすると必然的に時代とはずれていくんですけど、それもしかたないな、と」

――僕はどちらかといえば夢中になって追っかけた方で、むしろあのマンチェスター騒ぎにとてもワクワクしてたんですね。でもイギリスではそういう盛り上がりも91年で終わっていて、92年年にヴィーナス・ペーターがメジャー・デビューした時点では日本でもそこまで広がってないし、イギリスのシーンも随分変化していてちょっと足場を見失うというかエアポケットに落ち込んだような感じがありました。彼らのセカンド『SPACE DRIVER』(92年)はいま聴いてもいいアルバムだと思うし、そのまま俺たちはこうなんだ、という強さを持って先に進めばよかったですが、やはりある意味迷ってしまうんですね。

八野「気持ちはわかりますねー、名古屋でヴィナペと対バンした時には驚きましたから、かっこよかった。僕は彼らはこのまま突き抜けていくんだろうな、思いましたし、もちろんある程度突き抜けてもいましたけど。でももっと先にいかなあかん、という話になりますね」

――そうですね、その先にビジネス的にも成功を期待されますから。それに僕自身も若かったこともあり、正しい方向を見つけることができなかったんですね。イギリスでは94年にオアシスがデビューするんですが、日本はそのあたりから渋谷系という言葉が広がりましたね。

八野「そうですね、ブリットポップと言われ出した時に、これはもう知ってる感じだと思って、それならこの感じでいいのかなと思いましたし。とにかく前へ進まんとっていう感覚はよくわかります」

――ましてメジャーからのリリースだとつねになんらかの作戦みたいなことを考えつづけないといけないじゃないですか。プレッシャーを与えられたわけではないんですが、当時は勝手にプレッシャーを感じていたところはありました。

八野「僕らも雑誌のインタビューとかで、やっぱりヴィナペはすごいっていう話をすると編集のひとがヴィナペは売れても2万ぐらいですよ、日本ではプライマルがそれぐらいなんで、みたいなこと言うんですね。そういう話ではないねんな、なんか違うなという違和感はかなりありましたね。やっぱりメジャーはこうなんか、と」

――b-flowerは東芝でもそのままメジャー扱いになっていったんですか?

八野「そうです、そのためのスィート・スィートスプエスト(suite¡supuesto!)というレーベルがたちあがって僕らとネロリーズがまず、行って。少し中途半端な形ではありましたね、担当のプロデューサー、ディレクターはもともとBOØWYとかを手がけた人で、90年代に入ってもっと新しくておしゃれなバンドを探してたんですね。はっきりフリッパーズやコレクターズ(THE COLLECTORS)のようなバンドを出したいんだよって言われましたから。そうですか、みたいな(笑)。でもかなり自由にやらせてもらって、逆に言うともっと口出しせなあかんかったんじゃないでしょうか。締め切りもアレンジに対する注文も一切なかったです。へんにインディーズ的なゆるさがあって、逆によくなかったかもしれんへんですね。ただやりたいようにはやらしてくれました。もちろんサウンド・プロデューサーとはぶつかりまくりましたけど(笑)」

――ちなみにプロデューサーは誰がつかれたんですか?

八野「最初は遊佐未森さんとかをやっていた外間隆史さんと言う方がプロデューサーで冨田恵一さんがコ・プロデューサー(プロデューサー補佐)」

――ポップス的なチームなんですね。

八野「そう、ポップスなアプローチやから僕らが思ってたのとも違うんですね、エンジニアはYMOとかやっていた人でしたし強力なんですよ。僕らでは太刀打ちできへん」

――インディーズだし、知識も経験もないし。

八野「僕らが思ってる音を伝えてもなかなか理解はされんし、山中湖のレコーディング・スタジオでやってる時に一日すっぽかしたりしてました(笑)。結局のとこ、ああそうか、そういうアプローチもあんのか、みたいなこともあり最終的には面白かったです、いまとなっては。そのあと福富幸宏さんは僕らがお願いして、いまを感じられる音が欲しくて」

95年の楽曲“太陽の雫”。福富幸宏によるプロデュース

――b-flowerは東京に出てきたことはあるんですか?

八野「結局ずっとこっちにおったんですよ。レコーディングで東京行ったぐらいで」

――東芝の最後のアルバムはいつですか?

八野「98年です」

――そうですか、8年ぐらい続いたんですね。

八野「ほんまレコード会社はよう耐えてくれたと思います、普通やとあんなセールスではひっぱれへんけど。そのあとアゲント・コンシピオーー高橋幸宏さんのレーベルからミニアルバム(99年作『Paint My Soul』)を1枚出して。それは企画ものみたいなやつやったんですけど」

――98年には宇多田ヒカルはデビューしていますね。そのあと東芝を離れて活動が止まるのはいつ頃ですか?

八野「そのあと、ちょろちょろ変名ユニット(Five Beans Chup)とかをやりながら、2001年にライブやって、そのあと2003年にも一本ライブやってそっから止まりました。完全に、まったくギターも弾かなくなって」

――2000年の最初の10年ぐらい、僕らの世代は子供が生まれたり仕事が忙しかったりで一瞬音信不通になるタイミングですね。

八野「そうやね、それからしばらくしてインターネットでb-flowerが好きでしたっていう人がちらほら出てきて、ほんまにそんな人がおるんや、と思いつつライブをやったら来てくれる人がいてびっくりしました(笑)。そんなに多くはないですけど」

――復活したのは2012年ですか?

八野「そうですね、2008年か2009年に細海魚さんがなんかやろうよ、って言ってくれて、じゃあ二人でユニットみたいなリビングストン・デイジー(Livingstone Daisy )をはじめて、その流れでb-flowerもやろうかってなって1曲配信でリリースして。そこから少しづつですね」

――2012年またはじめようと思った理由はありますか?

八野「やっぱり自分たちだけで楽しむだけじゃなく、聴きたいって言ってくれる人がいて応援してくれたり、そういう人に届けたいというのはありました。なんならライブの企画までしてもいいって言う人らがでてきて、ほんまに求められてるという感覚が伝わってきたのが一番ですね」

――インターネットで知ることってありますね。

八野「あんだけ売れへんかったから、誰がいまさら聴きたいと思うかと」

――それいったらデボネアなんてもっと埋もれてましたから(笑)、でもCDのリリースをしたらちゃんと反響があって。それは嬉しかったですね。

八野「僕も買いましたよ、これ(『LOST FROM THE PICTURES』)ですよね?」

――そうです! ありがとうございます。

八野「聴いたら、当時の空気がいまも伝わりますね」

――ペニー・アーケードの再発からスタートしたアイデアでしたけど、デボネアを出すことで当時同じことを考えてた同世代にもう一度なにかを投げかけることができたような気もします、もちろん若い人にも聴いて欲しいんですが。そういう流れの中で、今回の企画まで繋がったんだと思います。同じ時代に同じようになにかを求めたデボネアとb-flowerがようやく共演するのは意味深いことだと思います。まあほんとにガラの悪い大阪のおっちゃんなんですけど、昔からまったく変わらないのはすごいことだと思いますけど(笑)。

八野「デボネアのインタビューで与田さんもかなり苦労しはったってかいてましたね。アルバムが送られてきたらアコースティック・アルバムだったとか(笑)」

――それもほんとひどい話ですよね(笑)。僕も若くて視野が狭いところもありましたから。でも91年、92年にリリースした作品はどれも自分的には最高だったんです、もちろん自分にとってなんですけど。

八野「どんな人たちなんやろ(笑)」

――とにかく音楽の話ばっかりですよ。

八野「大阪の人は苦手でないので大丈夫だと思います(笑)」

――さすがに大人になってますし。

八野「ペニー・アーケードの再発は僕も聴いてました、しかしあの時代にあれを作っていたってすごいですね。僕らはあの時代の音源絶対ださせへんわ、恥ずかしくて(笑)。さすがやなと思いました、僕らの1stアルバムは『ペニー・アーケードの年』(92年)というんですけど、当時僕らが彼らを知っていたらぜったい別のタイトルにしました。ムッチャ申し訳ない気がしてて」

――ペニー・アーケードはみんな大人なので、気にしてないですよ(笑)。

八野「アッコちゃんもゆってくれたんですけど、アノラック・パーティー(山内章子の主催イベント)にも彼女が僕らを知っていたら声かけてただろうって。でもそこでペニー・アーケードやロリポップ(・ソニック)に出会っていたら僕らも影響受けてぜんぜん違う方向に行ってただろうと思います」

――そうかもしれないですね。英国音楽やアノラック・パーティーって本当に純粋じゃないですか。じぶんの思いを誰かに伝えたい、わかってくれる人と分かち合いたいという気持ちが全てだと思うので、そのエネルギーにはきっと影響されたでしょうね、僕もそう思います。とくに80年代、スミスが人気といっても自分の周りですらほんの一部の人しか聴いてなかったですし、同じような音楽を聴いてる人を探したいという気持ちはほんとうにわかります。ある意味デボネアもb-flowerも残した音楽は自分の気持ちに純粋ですよね。

八野「アッコちゃんは一度もライブハウスに行ったことがないのに、アノラック・パーティーを企画してましたから。そんな人がクラウドファンディングのようなおこづかい企画を考えて、ブッキングして、よくやったなーっていまでも言いますし、純粋さがそのままエネルギーやったんだと思います」

――そうですね、もちろんいまよりも経済的に世の中が回っていたこともあるでしょうが、夢見ることができましたね、あの時代は。いまみたいにすべて先回りして考えたり、経済的な帰結だけにこだわったりもなく、やりたいからやるっていうことがいっぱいありましたね。もちろん失敗もたくさんありますが(笑)。20代の僕らは明るい未来を無条件で信じていたというか、それも大事なことだったといまさら気がつきますね。

八野「僕もまだデビューも決まってない時に、服屋さんで働いてたんですけど、ちゃんとした給料もらって。でも1stが出たらもう仕事いややし、やめよ、ってやめてしまうんですね、なんとかなるやろうって。そういう空気がありましたね」

――それはけっこういいことだったんだといまさらのように思います。

八野「僕も最近仕事がなくなったんですよ、もう56なんでいまさらフルの仕事はもういいかと、ちょっと音楽を多めにしようかと思ってるんです、なんとか生き延びていこうと(笑)。僕らの世代的にもいろんな苦労があると思いますけど、まあなんとかなるでしょう」

――そうですね。

八野「活動再開も僕ら早かったし、みんなこれから同じような流れになっていくような気もしますね、おもしろいなー。やっぱりもうそろそろいつ死んでもおかしくない年になってますしね。うちのドラマーも54でなくってますし、自分も病気したり。まあ、やっとかんとね、僕らですら応援してくれる人もいますから」

――じゃあ。そろそろデボネアのメンバーと合流しましょうか。

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b-flower x Debonaire

八野「みなさんは堺あたりの出身?」
楠健(ギター)「そう、堺、泉大津」
八野「僕は高石」
楠「マジで! そうなんや」
中井尚志(ヴォーカル/ギター)「0725やん」
八野「0722かな」
中井「0722なら堺といっしょや」
八野「いま実家は高師の浜で」
楠「えー、知らんかった」
中井「俺となりやん」
八野「生まれは堺の浅香山へんなんですよ、生まれはそこやけどすぐに高石に移って」
中井「浅香に中井の家あるで」

――尚ちゃんの実家?

中井「実家っちゅうか、親の親元、もう誰も住んでへんけど」
楠「まだあんの?」
中井「もうないやろ、ちっちゃいときにはよう行ったけど」
八野「言葉もむっちゃ一緒やわ、ほんとに」

――八野さんは俺たちより3つ上の先輩だからね(笑)。

中井「いや、上っていうのは存じ上げてます(笑)」

――知ってたの?

八野「僕はデボネアが絶対先輩やと思ってました(笑)」
中井「おれは上の人やんなーって、言ってたで」
楠「そうやった」

――石田(真人)さんや佐鳥(葉子、いずれもペニー・アーケード)さんと一緒だよ。

中井「ケン(楠)はおれのいっこ下やから、しばいたって(笑)」

――二人がb-flowerの存在を知ったのはいつごろ?

楠「90年代に入ったころには知ってたかな」

――ポルスプエスト(b-flowerやネロリーズをリリースしていた渋谷系を代表するレーベル)が活動を始めた頃から?

中井「ポルスプエストは俺らなんか関係あった?」
楠「いっこだけある」

――え! あるの?

八野「なんかありました?」
楠「あれや“Reason Is Wrong”(の提供)や」
中井「コンピな、白いやつ?」
楠「いや、青いほう、あの『Ask The Sky』(93年)や」

――あー、伊藤(英嗣)さんプロデュースのコンピレーションね。

楠「伊藤さんはロッキンオンに書いてた?」

――伊藤さんはむしろクロスビートかな、そのあとクッキー・シーンっていう自分の雑誌を作って。『Ask The Sky』にb-flowerも参加してました?

八野「入ってたかな? いや、入ってないですね」
楠「そうやったっけ」
中井「俺今日スーパーの弁当食べ過ぎて、運動しようと思って散歩してんねん。そしたら途中でバッテラ見つけてこうてしもうた(笑)、バッテラすっきやねん。なんかあれもな、大人んなって好きになってん」
八野「ちっちゃい時、おやじが買ってきてもまったく食べへんかったね」
中井「なあ」
楠「子供がバッテラ好きやったらこわいわ(笑)」
中井「そうやろ、お節もな子供の時はまったく興味なかったけど、いま好きやねん」
楠「俺はいまだに興味ないわー」
中井「俺はどれも好きになってん、棒鱈めっちゃ好きや」

――二人がジャンゴに通ってたのは80年代後半?

楠「もともとジャンゴをはじめる前に松田(太郎)さんはプランタンいう百貨店のレコード売り場で働いててん」

――新星堂?

中井「名前わからへんな」
楠「プランタンのレコード屋やったな」

――その頃から松田さんと知り合い?

中井「そんな仲良くはなかったけど、店の兄ちゃんって感じで」
楠「俺はずっと喋ってたで。ほんで、今度店作って独立しますねんって話でジャンゴができてん。それはおれらがまだ高校生やったわ。そのあと知らんまにお互いジャンゴにかようようになってたんや」

――それは何年ぐらい?

楠「86か87ちゃう」
中井「86はまだないわ」
楠「87か」

――八野さんは88年ぐらいからですか?

八野「多分そうやね、僕は88年ぐらいやね」

――そのあたりでお互いすれちがってはいたんだ。

中井「俺らはあっこが溜まり場や」
楠「毎日おったな」
八野「僕は京都やったから、四条の十字屋で輸入盤買って、月に一回ぐらい大阪に遠征してたんやけど」
中井「京都やったらあっこの店、ユリナはインディーもの扱ってましたやろ。あのへんなビルの上や」
楠「そうや」
八野「詩の小路ビルやね」
楠「わらじトンカツがあったね(笑)」
中井「あのめっちゃ薄い(笑)、でかいけど」
八野「そやし、多分僕もデボネアの7インチもジャンゴで見てるはずなんやけど、まだ尖ってたから買わへんかった(笑)」
中井「尖ってはったん?」

――そらそうでしょ! あんたらが一番尖ってたよ(笑)。

楠 「すいません(笑)」

――7インチ(『Through The Street / Always There』)は88年?

中井「89年のあたまぐらい。そのまえはカセットやな。けど、京都のユリナにも俺持っていったで、置いてくださいゆうて」
八野「僕らも営業しましたわ、僕らは最初CD作ったんやけどジャンゴに持って行って」
楠「ほんなら知ってるはずやわ」
八野「当時買わなかったことを後悔して、ちゃんと新しいのは買いましたよ。(と言って『Lost And Found』を見せる)」
中井「恥ずかしい、こうてはるやん!」
楠「おれらも見習わなあ」
八野「サインしてもらおうと(笑)」

――今日さっき八野さんに話を聞いて、同じ部分も多いけど、やっぱり微妙に違う部分が面白くて。

中井「聴いてた音楽は同じように聞こえますわ」

――それはそうだよね、時代だね。

中井「みんなそやな。俺一番好きなんはポップ・ウィル・イート・イットセルフ(笑)」

――八野さんは77年に14歳、パンクはほぼリアルタイムですか?

八野「パンクは高校の時にピストルズとかを聴いてました、あれは78、79年ぐらいかな」

――クラッシュは『ロンドン・コーリング』でジャムは『セッティング・サンズ』(いずれも79年)の頃で、一応は聴いてる感じですか?

八野「聴いてましたね」

――俺たちはジャムは『ザ・ギフト』だし、クラッシュは『コンバット・ロック)』(いずれも82年)で、パンクは終わりかけでしたから。

中井「俺はジャムもクラッシュ見てんで」

――そうか、尚ちゃんは見てるんだよね。

楠「兄貴がおるからのう、特殊な環境や」
八野「それはすごいね」

――中学生や高校生で見ても、やっぱり上の世代のものって感じはあったでしょ?

中井「そりゃ背伸びしてるわな。あんまり覚えてないし(笑)」

――でも『ハイ・ランド、ハード・レイン』(アズテック・カメラ、82年)やスミスの1st(84年)の時はもっとなにか身近な感じしなかった?

中井「なにがおこってんのや、って感じな」

――なににそう感じたんだろうね。

中井「雑誌に書いてたで」

――そりゃそうだけど、あの2~3年のあいだにリリースされた音楽がほんとに好きでしょ。いったいなにを感じてたんだろうね。

中井「いや、普通に新譜やから聴いてた。けど、マイケル・ジャクソンやマドンナやなく、友達もあんまり聴いてへんやつ(笑)」

――いま聴いてもいいと思えるでしょ?

中井「もちろん」

――そうだよね、俺はワンダー・リリースで一緒になにか作った人たちがみんなそれぞれにこだわりを持っている理由がなんなのかを考えるんだよね。八野さんの世代から俺たちの下の世代、60年代前半から70年代あたま生まれの人たちにとってとても大きなことだったと思って。

八野「それこそ青春やからね(笑)、松田さんやないけど(笑)、それがなんでかいうたらパンクを見てこの人ら嘘のない人や、ってみてたんやけど、それがなんかふっと終わってしまった。あれ、どうしようか、と。嘘みたいやけどほんまにそんな感じやったんよ。そん時にマリン・ガールズやスミスが出てきて、アズテック・カメラ聴いた時にこの人ら信用できるなって、僕は思ったし。もちろんパッと聴きが良かったからでもあるけど、なんかあるなって」

――いや、ほんとその通りで、しかもいろんな場所で同じように感じていた人がけっこういたというね。そのなにかをここ数年考えていて。

中井「俺たちはただ単に売れてる音楽をバカにしてたし」

――それはわかる、人と違うことを知りたい気持ちもあったし。けど、実はその当時バカにしてた82年から85年のポップスをいま聴くと良かったりしない?

中井「そうや、俺集めてるもん(笑)。いまや、まあまあのマドンナ・コレクターや(笑)」

――そうなんだよね(笑)。当時は興味もなかった音楽をよく覚えてること! もちろん熱心にラジオ聞いてたし、街を歩いてても洋楽よくかかってたよね。

中井「エイジアとかええ歌あるで(笑)、めっちゃバカにしてたけど」

――TOTOでもジャーニーでも聴き直すといい曲あって。

中井「いうたら最近ビリー・ジョエルばっかり聴いてるわ(笑)。デペッシュもニュー・オーダーも知ってるやつクラスでひとりしかおらんかったしな、むっちゃ仲ようなってん」
八野「学生の時に、いうたらヒューマン・リーグの曲やったり…」
楠「それはいけてるほうや(笑)」
中井「俺はARBやらされてん(笑)、高校の時」
八野「ARBもやったことあるな」

――俺もやってたよ、“ユニオン・ロッカー”。

中井「そんなんあったな」

――でもARBはいま聴き直してもそこまで良くない。

中井「キャロルはなあ、いま聴いてもかっこええよ」
楠「キャロルは録音がええねん」
中井「キャロルはもう洋楽やな、録音が。キャロルはまた時代もちがうけどな」

――最近自分が好きだったイギリスの音楽以外の80年代のポップスをよく聴き直してるんだけど、自分でも驚くほど記憶に残ってるんだよね。

楠「俺もまあまあ持ってるな(笑)」
八野「みんなよう聴いたらちゃんとしてんねんって(笑)」
楠「ほんまそうやな」
八野「なんでバカにしてたんやろうね」

――ほんとですよね、俺たちが好きだったレコードもバカにしてたレコードもいまの耳で聴くと同じ時代の空気をちゃんと映してるんですよ。

楠「でもな、インディーへの憧れはあったやろ。自分たちの感覚でやることがカッコええ思うたもん」

――そうだね。

中井「いまはわからんけど、当時はインディーで売れてる日本人おれへんかったやん」

――たしかにまったくイギリスとは状況がちがってたね。当時の日本のインディーはパンクかかなりマニアックな音楽が中心だったね。そう考えると80年代のイギリスのインディー・シーンはうらやましくもあり、憧れでもあったね。あの知性のある感じも含めて。

中井「スミス、アズテック、ペイルが出てきた時、あん時はあれが一番新しかったいうのもあるよ」

――そこへのこだわりは半端ないよね(笑)。

中井「それでバンドはじめたしな。その前までARBやってたわけやし(笑)、バンドも5こ掛け持ちや。ドラムできたから重宝されてな。ケンもそのどれか見てるんちゃう?」
楠「だっさー、思うてな(笑)」
中井「同じ高校やってん」
八野「そうなんや」
中井「一個下やけどね、たまたま同じ高校」
楠「俺は併願で入ってんけど」
中井「俺は専願や」

――何が違うの?

楠「併願のほうができがええんや(笑)」
中井「それを50になってから言い出すやん、そんな話50過ぎてするやつおらんわ、俺の方があたまええみたいな(笑)」

――でも同じ高校だよね、同じじゃん(笑)。話を戻すと、b-flowerとデボネアは同じ関西圏で同じ時期に活動していたのにお互い知らなかったっていうのも不思議だね。

中井「俺らほんま友達おれへんかったしな」
八野「僕らもそうでしたよ」
中井「どんな感じやった?」
八野「僕らは銀閣寺のCBGBっていう京都の北のほうのライブハウスでやっとったんです、いっかいビッグバンもやったかな。88年〜89年ごろかな、それで対バンもライブハウスが見つけてきてくれるんけど、さっきも与田さんに話したけど、同じようなタイミングにでてきたけど僕らは基本邦楽をやろうとしてたんですよ。そやし、僕はもともと作詞家になりたかって、中学ぐらいで松本隆や阿久悠とか好きやったから。対バンに来るバンドが、なんかさわやかな杉山清貴みたいなのが多くて(笑)」
楠「知性のかけらもないやつやな(笑)」
八野「そう、そうやなくてポスト・パンクやっていうたら、今度気色悪いニューウェーヴの変なバンドだったりで、全然誰とも友達になれへんかった(笑)、ずーっとそれが続いとったね」
楠「俺らもそうやな」
中井「俺らはなにと一緒にやっとった?」
楠「あんま覚えとらんな、まあろくなのなかったと思う」

――デボネアも仲間ができたのはサイド・ディッシュ(Side Dish)やシークレット・ゴールドフィッシュと出会う90年ぐらいからだよね?

楠「サイド・ディッシュやね」
中井「サイド・ディッシュがはじめてのバンドの友達や、あれが89年ぐらい」
楠「ほぼ90年やな」

――それからいつも一緒にライブしてたよね?

中井「いつも一緒におった、遊ぶ時も」

――てことはファンダンゴに出てる時も店のブッキングだったんだ。

楠「そうそう」
中井「ファンダンゴ、ブーミンホール、2~3回エッグプラント全部そうや。あー、思い出した、エッグプラントに出てそこの人が新しくできるブーミンホールに行くってなってやるようになったんや」
楠「そうや、そうや」
中井「そっからずっとブーミンに出てたわ」
楠「その話30年ぶりに思い出したわ(笑)」

――ブーミンホールはいつなくなったの?

楠「そうやな、知らんまになくなってた」
※2004年にESAKA MUSEに改称

――ライブハウスはそんなに潰れないんだけどね。

楠「プライマル(・スクリーム)見に行ったのが最後かな」
八野「ブーミンホールってどこでした?」
楠「江坂」
八野「江坂やね、プライマルなんか揉めてなかった?」
楠「それはIMPホールちゃう?」
中井「89年はがらがらやった、『スクリーマデリカ』前やし」

――最後に“ローデッド”やったよね、あの時。

楠「やったやった」
八野「僕らが行った時はなんか揉めて帰りよった。同じ曲何回もやって、それでみんなブーブー言うて帰りよったよ」
楠「大阪で?」
八野「大阪で」
中井「それはもう売れてからちゃう? 89年のブーミンで覚えているのがメン・ゼイ・クドゥント・ハング、客20人(笑)」

――え、日本に来てたんだ!

中井「そうや、20人やけど(笑)、サインもらい放題(笑)」

――それは『シルバー・タウン』(89年)のツアーか、いいんだよねメン・ゼイ・クドゥント・ハング。

楠「あのころめっちゃ好きやった」
中井「ロンドンで3回ぐらい見てる」

――いかつい男たちがモッシュとダイブだよね。

楠「あれはもうスポーツやな」
中井「日本はがらがらやったけど、イギリスはもうパンパン、しかも男だけ」
楠「見事に女はひとりもおらん」
中井「くっさい、くさい(笑)。89年はほんまブーミンによく行ってたわ、俺らもライブやったし外タレ見に行ったし」

――ブーミンホールは広かったの?

楠「300ぐらいかな」
中井「俺ら客5人のことあったで(笑)。ファンダンゴで客4人も覚えてるわ、全員メンバーの彼女(笑)」
楠「べアーズもそれあったで」
中井「ほんまや!」

――たしかに当時デボネアのライブに人がいたためしはないね、俺の記憶にも(笑)。

楠「いや、一回あるで、チッタのワンダー・スタッフの時。俺あのとき足震えたもん」

――あー、そうだったね! あれはワンダー・スタッフの3デイズでヴィーナス・ペーター、シークレット、デボネアでそれぞれ前座やった時ね!

八野「ワンダー・スタッフとやったんや」

――でもあの時デボネアはまだアルバムが出てないから東京の人はだれも知らなくて。

中井「けどなんかめちゃ拍手してもらった覚えはあんねんけどな。でもデボネアです、いうたら、誰やそれって聞こえてきたわ(笑)」
楠「足が震えたのはあん時だけやわ、1000人ぐらいいたんちゃう?」

――いや、あん時あんまりチケット売れてなかったから500~600ぐらいかな。

中井「地元の連れに1200人っていうたわ(笑)、体育館の後ろまで人がおるかんじやったやん」
楠「俺もパンパンの印象やったけどな」
中井「あればどこが企画したの?」

――あれはHIP。

中井「まあヨダタロウにいろいろやってもらったな、そやから最近はちゃんと言うこと聞いてるで(笑)。こうや、言うたら、ハイ!って。ぜんぶ聞いてるで(笑)」

――なら“Happy Now?”ライブでやってよ!

中井「無理(笑)! ヨダちゃんの相棒の安孫子(真哉)くんはなにやってんの?」

――彼は今年の春から群馬で農業はじめてるんだよ。

中井「かっこええ!」

――キリキリヴィラは彼が中心になってスタートしたんだ。俺たちも最初は趣味でやるつもりでスタートして、いろんなバンドと一緒にやるうちにこういう形になって。

楠「品番の1番はなに?」

――1番がレーベル・ロゴで2番がウェブサイト、ファクトリーみたいでしょう。最初のリリースがライフ・ボール(Life Ball)っていうバンドのアルバム未収録曲のコンピレーション。

中井「売れてるのラーナーズ(Learners)やろ? うちの客にもキリキリヴィラのめっちゃファンおるで」

――それは嬉しいね。

八野「デボネアはいまが一番人気あるのと違います?」

――これまでのキャリアの中でね。

楠「多分そうやで(笑)」
八野「僕らもいま!」
中井「3月客入るんかな?」
八野「お任せします(笑)」

――大丈夫でしょう。

楠「b-flowerによんでもろうて(笑)」
八野「デボネアは今度カセット出すんでしょう(2月にリリースされた『LOST FROM THE PICTURES』)。 あれむっちゃ評判いいね。ちらっとブルーベリーのサイトで聴いたけど、音もいいよね」
中井「マスタリングやってようなった。こないだヨダタロウからコメントきてないでってメールきてん」

――冗談だけどね(笑)。

楠「それもそうやな」
中井「あれは89年当時の知り合いだけやんか、俺めっちゃ真剣に返事したわ(笑)、怒ってはるって。だからイヅルや沖野くんもおらへんやろ」

――怒らないよ(笑)。カセットも300ぐらいは売れるんじゃないかな。

中井「当時は何本?」
楠「300やったかな、200がなくなって100追加したはず」
中井「茶色は100いったかな? 今回はレアなジャケットでの復刻」

――ほんとそういうの好きだよね。

中井「コレクターやからな。それより『Eternity One』(92年)アナログでだしてや(笑)、初回“Happy Now?”の7付きで(笑)」

――あれは名作だよね、でも売れないだろうなー。

楠「ジャケットの初回限定7付きってシール貼って(笑)、あのジャケットシール映えるでー(笑)」

――あのジャケットね、レビューが載っても画像真っ白(笑)。しかもこないだの7インチ(2019年にリリースした“Another Sun”)もそうじゃない。どこまで天邪鬼なんだか(笑)。

中井「インターネット泣かせ(笑)、発想がかっこいいやろ」
楠「アナログ欲しいわー、自分のぶんだけでも」

――そしたら自分たちで作る? 諸々の手続きは俺がやるから。

楠「LPごっつい金かかるんちゃう?」

――まあ200枚で30万ぐらいかな?

楠「何枚でペイする?」

――3000円で売って150枚だね。

八野「何枚作るか難しいね」

――ほんと悩みますね。

楠「Tシャツも2種類も作ってもうたしな」
中井「調子乗ってな(笑)」
楠「あれ売り切るまでライブやらんと(笑)」

――あとどれぐらいあるの?

楠「半分ぐらい」
中井「いや、Tシャツはもっと売れてるやろ、かばんや」
八野「Tシャツ何枚作ったの?」
楠「100」

――全部で100枚?

楠「そう全部で」

――じゃあまあなくなるでしょ、在庫があるにせよ経費は回収できたでしょ。

楠「それはな」

――それでいいじゃん、損してないし。

楠「カバンも回収ラインこえてん」

――カバンってトートバッグ?

楠「そう、うっすいやつや(笑)」
八野「僕らも一緒や」
中井「なんか作らはった?」
八野「ベスト盤出した時に、やっすい袋を」
中井「売ってはるの?」
八野「ベスト盤と込みで、そこそこはけたけど、まだあと少し」
楠「3月のライブの時に買いますわ、もってきてください」
中井「LP作るか?」
楠「キリキリが無理ならブルーベリーに頼もうか」

――さすがに俺は無理だな、自分では欲しいけど。『Eternity One』いいアルバムだよね。それに気づいてない人が多いと思うよ。

中井「そろそろ時代が追いついてるんちゃう?」

――いや、もう追い越されてるかも(笑)。

八野「いつも思うけど当時は1000枚いくかどうか、って出すけど500も行かへんことのほうが多いね。いま1000枚なんて大ヒットでしょ」

――いま1000枚はすごいですね。

楠「“Another Sun”はまだある?」

――もう少しあるよ、たまに通販で出てる。でもプレス代は回収できてるでしょ、えらいよ。

八野「ジャンゴが売ってくれるでしょう」

――ジャンゴさまさまだよね、だってCD50枚ぐらい売ってくれてるよ。

楠「それすごいなー、特別CD-Rが効いたんかいな」

――それはあるね。

中井「松っちゃんに感謝せな」

ここでデボネアのドラマー寺島(和弘)登場

――ほんとデボネアは仲いいよね。

中井「ほんまやな、すぐ集まるわ」
八野「それはなによりですわ」
楠「50過ぎてフェリーに乗って旅行いくバンドもないわな、おっさんになってから(笑)」
八野「みんなで旅行いくんですか?」
楠「そうなんですよ」
中井「だっさい通り越してカッコええでしょ(笑)」
八野「カッコええ、むっちゃええね」
楠「ただフェリーに乗りたいいうて行くんよ、ほんで九州ついて、そのまま帰ってくる(笑)」

――すごいね。

中井「楽しかったわ(笑)」

――10代から一緒の仲間ならではだね。

寺島「今日はわざわざ京都からですか?」
八野「僕滋賀なんですよ、2時間ぐらい」
中井「ゆうてくれたら行きましたのに(笑)。ヨダタロウはなんか用事あってきてんの?」

――今回はこの為だよ。

中井「ほんま!?」

――いや、せっかく日本最古といわれるネオアコ・バンドの共演なんだからちゃんと話を聞いて伝えないと。ただライブやるだけじゃあもったいないでしょ。当時を知る人からみるとようやくだし、最近知った人たちにとってもどういうことなのか伝えたいからね。

中井「寺島調子どう?」
寺島「昨日会ったやん!」
中井「そうやった(笑)、俺らすぐ集まるからな。b-flowerはどうですか?」
八野「うちらはみんなバラバラで、いまベースは新潟におるんですよ。キーボードは東京やしギタリストは舞鶴でドラマーは京都ですわ」
楠「バラバラやね」
八野 「そうやし、ベースはリハのたびに夜行バスででてくるんですよ。金曜日の夜に出て、土曜の朝について昼から8時間ぐらい練習して」
楠「そりゃ大変ですね、考えられへん」
中井「俺らはみんな近いからな」
八野「練習がすぐできるのがいいですね」
楠「12時からスタジオとってんのに昼飯くって2時からですわ(笑)」
中井「洋食くってな(笑)」
八野「うちらは8時間スタジオとってやるから」
楠「でも8時間音出すわけやないでしょ?」
八野「それでも6時間ぐらいはやるね」
中井「俺ら6時間押さえて2時間やん(笑)」

――まあ、練習はいいよ、演奏も普通でいいけどデボネアはチューニングだけはちゃんとやって。エレキもアコギも12弦なんだから。

八野「それはちゃんとせな厳しいですね」
中井「二人足して何弦あんねん(笑)」
楠「ベースも5弦やしな」

――それだけはちゃんとしてほしいわ。

中井 「そんなん雰囲気もんやろ、わからへんって」

――いや絶対わかるから。

中井「冗談やん(笑)」

――じゃあそろそろこのへんで。

中井「もっとおもろい話いっぱいあんで、高校の時の話しようか(笑)栄作くんの話とか。ペイル・ファウンテンズとの出会いや」

――それ聞かせて。

中井「おれの高校の時の友達に栄作くんっていうのがいて、泉大津の。あいつの家でいろいろ聴かせてもろうて、ちょっと金持ちやねん、レコードぎょうさんもってて。トーキング・ヘッズの『リメイン・(イン・ライト)』(80年)とかも出た瞬間に聴いてたのは栄作くんのおかげやで。ペイルも栄作くんが買うてきてん、栄作くんが家に帰って来る前に俺らかれの部屋におんねん(笑)。おばさんがコーヒー入れてくれて、タバコ吸ってまってて(笑)。ペイルを初めて聴いた時は、なんやこれ思うて。栄作くんも『パシフィック・ストリート』(84年)やからパンクと思って買ってん。前情報ないからやな、A面聴いてすぐスペシャルズ聴こうってなってん(笑)、そのままずっとページ・ワンや、トランプ(笑)。それがなんであんな好きになったんやろ」

――自分でも買ったでしょ?

中井「のちのちな」
八野「ライブも行ったやろ?」
中井「行った行った、あれは85年」
八野「大阪はどこやった?」
中井「サンケイホール」
八野「僕も行ったはずやけど、あのトランペットのフレーズ口でやってた?」
中井「そうそう!」
八野「あー、思い出したわ」

――あれアズテックも85年だよね?

中井「アズテックは9月でペイルは5月、この年はもうひとつ大事な来日があってん、ニュー・オーダー、あれも5月。ニュー・オーダーはビデオで出てる」

――ニューオーダーは俺もラジオで聴いた、あまりの下手さに驚いた。

中井「最初に“Confusion”やろ! あれが初来日や、同じ年にコクトー(・ツインズ)も来てるし85年えげつない。まだまだしゃべれるで(笑)」

このあとMile High Club(中井の経営しているバー)へ移って全員で延々と80年代の話になりました…。

b-flower 八野さんのTwitterアカウントはこちら
https://twitter.com/hachino_hideshi

Debonaireのオフィシャル・サイトはこちら
https://kaorimoko3.wixsite.com/debonaire


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