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Damon and Naomiインタビュー

KKV Neighborhood #114 Interview - 2022.1.13
Interview, Edit by 与田太郎

Damon and Naomi with Kuriharaの新作『A SKY RECORD』は2021年8月に配信され、12月には日本盤CDが発売となった。パンデミックに世界が沈み、その対極にはコロナの対応めぐる喧騒があるという、そんな状況の中このアルバムは制作された。これまでの彼らの作品同様、静謐なサウンドは彼らの眼差しに映る世界を静かに語りかけてくる。ギャラクシー 500の結成から35年、デーモン・アンド・ナオミとして活動を始めてから30年、その佇まいは変わっていない。このインタビューは2021年末にメールで行われた、日本では彼らのインタビューを読む機会はそれほどなかったこともあり、短い質問ではあるがこれまでのキャリアについても訪ねてみた。いつか二人にじっくり話を聞いてみたいと思う。

ーそれぞれ子供時代を過ごした街を教えていただけますか?子供時代の音楽との出会いを教えていただけますか?

デイモン 僕たちは2人ともニューヨークで育ったんだ。母はジャズシンガーなので、子供時代の生活の中にはいつも音楽があった。家にはピアノがあり、母はいつもいろんなミュージシャンと一緒に歌ったり演奏したりしていたし、レコードもよくかけていたんだ。僕はピアノを習ったけど他の楽器の方が好きで、後にはレッスンを受けずにギターやドラムを探求するようになった。
ナオミ 私の家にもいつも音楽がありました。父はチェロを弾きでクラシックが大好き、クラシックのレコードをたくさんコレクションしてたの。なかでもバッハのチェロ組曲や中世のマドリガルなど、メランコリックな曲がとても好きだった。私はリコーダーとフルート、それにピアノを少し習ったけど楽譜を読むのが苦手でどの楽器もあまり上達しなかったんです。でも歌うことは大好きで聴いて曲を覚えていました。

ー10代のころにバンドはやっていましたか?

デイモン 10代のころには学校の合唱団や高校のミュージカルで歌っていたけど、パフォーマンスとしてはそれくらい。ディーンと一緒にバンドを始めたのは大学に入ってからで、ギャラクシー500の前身となるバンドは後にナオミが参加してからスタートしたんだ。
ナオミ 大学院で結成したギャラクシー 500が私の最初のバンド。もともと音楽は好きだったけど建築家や画家、グラフィックデザイナーなどビジュアルアーティストになろうと思っていたんです。だからバンドをやるということは私のアイデアから最も遠いところにあるものでした。

ーあなたたちは1977年に13歳、つまりティーンネイジャーになりますね。10代のころの今につながる音楽体験を教えていただけますか?

デイモン 10代のころは母のジャズのレコードを探したり『ペット・サウンズ』や『サージェント・ペッパー』のような60年代の面白いレコードをいくつか持っていて、70年代には普通のティーンエイジャーが聴くようなロックやポップスを聴いていたんだ。でもその後パンクが流行りだし、ラモーンズ、トーキング・ヘッズ、ブロンディ、エルビス・コステロ、クラッシュを聴くようになったんだ。大学に入ると、イギリスのポストパンク、特にジョイ・ディビジョンやニュー・オーダー、そして当時はあまり知られていなかったアメリカのバンド、ベルベット・アンダーグラウンドやモダン・ラヴァーズ、ペレ・ユビュなどを発見した。それからフィーリーズやドリーム・シンジケートのような自分たちよりも少し年上のバンドを聴くようになったんだ。これはまだ、自分たちが音楽を始める前の話なんだけど。
ナオミ 実家にあった唯一のロックのレコード(『ホワイト・アルバム』と『サージェント・ペパーズ』)は何度も何度も聴いてました。その後自分でレコードを買えるようになると、キャロル・キングやフリートウッド・マックが好きになりました。高校時代はニューウェーブやパンク、ジャムやエルビス・コステロが好きでした、でもまだ自分で音楽をやろうと思ったことはなかった。80年代後半に建築の専門学校に通っていた時にジョイ・ディビジョンを繰り返し聴いていて、自分がいつもベースを聴いていることに気づいたんです。それでデイモンとディーンがベース奏者を探していたので、やってみようと思ったのがはじまり。その結果この楽器が大好きになったけど、フロント・パーソンになるには恥ずかしがりだった私にとってベースは歌っているようで、そんな私にとってベースラインは秘密の歌でした。

ー80年代前半にはどんな音楽を聴いてましたか?日本では80年代のアメリカのインディー・シーンについての情報があまりありませんでした、あなたたちがどのようにシーンを見ていたのかとても興味があります。

デイモン 80年代半ばに自分たちで音楽をやり始めると、アメリカのいろいろな都市のバンドを聴くようになったんだ。ボストンにはミッション・オブ・ビルマ、プロビデンスにはスロウイング・ミュージス、ニューヨークにはソニック・ユース、ホーボーケンにはヨ・ラ・テンゴ、ミネアポリスにはハスカー・デュー、ロスにはオパール、オリンピアにはビート・ハプニング・・・と、各地のバンドのサウンドは全く違うのに、自分たちの道を進んでいる精神には何か共通点があると感じていたよ。でもそれぞれ音楽的なスタイルの共通性はなかったけど。当時は他のバンドと同じ音を出すことがクールだとは思えなかった。だから自分たちとは違うサウンドを見つけることを大切にしていたんだ。

ー僕がはじめてギャラクシー500を聴いたとき、イギリスのグループかと思いました。当時のアメリカにはイギリスのインディー・シーンはどのように伝わっていたのでしょうか?スミスの登場はどんな印象でしたか?

ナオミ その意見は面白いですね、実際、私たちがヨーロッパに行くとアメリカ人ではなくイギリス人だと思われることが多かったんです。たぶん私たちは「ステレオタイプ」のアメリカ人ではないからでしょう、それは私たちの音楽にも言えることかもしれません。
デイモン ギャラクシー500はアメリカよりもイギリスの方が人気があったのは事実だと思う。残念ながら僕らはあまりスミスに興味がなかったんだ。アメリカではR.E.M.が彼らの対抗馬だったんだけど、当時は僕らはR.E.M.にもあまり興味がなかった。だから僕らがハーバード在学中に学内でR.E.M.のライブがあったんだけど誰も見に行かなかったんだよ。

ーギャラクシー500結成当時の東海岸のインディー・シーンについて教えてください。同世代のバンドといえばヨ・ラ・テンゴだと思います、彼らにはシンパシーを感じていましたか?よく共演していたバンドやアーティストを教えてもらえますか?

デイモン 今では僕らのスタイルとは全く違うと思われるようなバンドともたくさん共演したよ。でも、当時のシーンは観客、会場、ラジオ局、ファンジン、レコード店などいろんなものを共有していたんだ。ソニック・ユースと一緒に演奏できるのは光栄なことだった、滅多にないことだったけど何度か一緒のステージに立ったよ。ボストンでは地元のハードロック・バンドだったブレット・レボルタや、ミッション・オブ・ビルマのドラマーだったピーター・プレスコットがそのあとにスタートしたバンド、ヴォルケーノ・サンズなんかの友達のバンドと一緒に演奏するのが好きだった。もちろんビート・ハプニングやヨ・ラ・テンゴのような、たぶんみんなが連想するようなバンドと一緒にツアーで演奏することもあったよ。
ナオミ 音楽を始めた頃、私はヨ・ラ・テンゴの大ファンだったんです。特にミッション・オブ・ビルマに在籍し、ヨ・ラ・テンゴのアルバム『Ride the Tiger』にも参加しているクリント・コンリーのベースはとても刺激的でした。私たちが活動を始めた頃、CBGB'sでヨ・ラ・テンゴを見たことを覚えているけど、その時はいつか彼らと友達になるなんてとても想像もつかなかった。

ー90年代は多くのレーベルが規模を拡大し多くのユニークなバンドが活躍しました。インディー・シーンはとても活気があったと思います、もしかしたらちょっとバブルだったといえるかもしれません。その中であなたたちは独自のペースで活動を続けていました、自分たちのペースで活動を続けることができたのはなぜでしょうか?

デイモン アメリカでは90年代にメジャー・レーベルのローカルシーンへの干渉が強く、インディーズ・バンドや会場にとってはあまり良い時代ではなかったんだ。でも、その端っこには活気のあるアンダーグラウンド・シーンがあった。だぶんみんなどこに目を向ければいいのかわからなくなっていたんじゃないかな、いつもそうなのかもしれないけど。例えば僕らの地元であるボストンでは、ジャズやクラシックの奏者がより実験的なロックと混ざり合い、インプロビゼーションに重点が置かれていたんだ。
ナオミ 1991年にギャラクシー500が解散して、1、2年は音楽をやめて他のことに目を向けようと思っていたんです。また絵を描き始めたりね。でも、音楽をやめるわけにはいかず、マジックアワーという非常に実験的なバンドのリズムセクションを担当したりもしました。私たちはこのバンドが大好きでしたが、商業的な音楽シーンからはとても遠い存在に感じていました。

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ー栗原ミチオが在籍していたGhostとの出会いについて教えてもらえますか?Ghostは日本でロックやインディー・シーンから距離を置いた、どちらかといえばエクスペリメンタルなアーティストとして認識されています。あなたたちにとってはどのように聞こえたのでしょうか?そして栗原ミチオとは今作も含めとても長い付き合いとなっています、彼の魅力について教えてもらえますか?

デイモン 90年代中旬、フォース・エクスポージャーというインディー・ディストリビューターで働いていた僕の友達がちょうど届いたばかりのGhostの最初の2枚のアルバムを聴くように勧めてくれたんだ、彼らはP.S.F,のCDをアメリカに輸入していたから。僕たちはすぐに好きになったよ。Ghostはフォーク、アシッドロック、エクスペリメンタルミュージック……あらゆるものが一緒になったようなバンドだった。そして歌詞も本当に素晴らしかったんだ。当時、僕たちが演奏していたバンド、マジックアワーはみんなゴーストに夢中だった、それで僕らは彼らをアメリカに呼んで一緒にツアーをすることにしたんだ。それが1995年のことで、実際に彼らに会って素晴らしい時間を過ごすことができた。栗原さんはその時のツアーには参加していなくて、次にGhostがアメリカに来た時に初めて会うことができた。初めて彼の演奏を見たときそのサウンドにとても驚いたよ。栗原さんと僕らがお互いをより深く知ることになったのは1999年と2000年の年末年始に「Damon & Naomi with Ghost」というコラボレーション・アルバムを作った時のことだった。彼は他のメンバーと共に僕の家に滞在して、素晴らしいレコーディング・セッションを行ったんだ。それ以来ずっと一緒に仕事をしているよ。
ナオミ 栗原さんと知り合うことができたのはとても幸運でした。この20年間、ツアーやレコーディングで多くの時間を共にし、ただ一緒に過ごすだけで私たちの音楽に大きな変化をもたらしました。彼との友情は私たちに大きな喜びを与えてくれたんです。彼はとても繊細で美しい奏者で、繊細さと感情、そして深いパワーを兼ね備えていると思います。でもとても謙虚な人なんです。レコーディングのとき、彼はとても美しいソロを弾き、その場の誰もが驚くのですが、演奏が終わると、「これでよかった?」と言うんですよ。

ーベルリン滞在中にSKY RECORDSのレコードをたくさん買って聴いていたとA Sky Record Companionに書かれていました。SKY RECORDSのリリースの中でとくに好きなアルバムについて教えてもらえますか?

デイモン ミヒャエル・ローターのレコードはすべて好きだし、イーノとクラスターのコラボレーションも好きだし、数枚に絞ることはちょっと難しいね。アンビエントとはちょっと違う、穏やかな雰囲気があるよね。田舎にいるような、でも完全に平和とは言えない時代というか、今みたいな...?

ー2000年以降のエクスペリメンタル、もしくはアンビエント・ミュージックで注目しているアーティストがいたら教えてもらえますか?

デイモン それはとても長いリストになってしまうな。最近個人的に気に入っているのは、Julia Holter、Haley Fohr (Circuit des Yeux)、Taja Cheek (L'Rain) のレコードだね。現在は女性がシーンを牽引する存在だと思うよ。
ナオミ 私は最近出た80年代の日本のアンビエントミュージックのコンピレーション『KANKYO ONGAKU: JAPANESE AMBIENT ENVIRONMENTAL & NEW AGE MUSIC 1980-90 』が大好き、何度も何度も繰り返し聴いています。そのおかげでヴィンテージのシンセサイザー・サウンドにとても興味を持つようになりました。

ー2019年の敦賀でのライブについて聞かせてください。敦賀は地方のとても古い街です、どのような印象でしたか?

デイモン とても感慨深いことだったよ。なぜなら敦賀は1940年に父が難民として日本に上陸した場所なんだ。街の景色も当時とあまり変わっていないようだし、当時父が見た多くのものを見ることができた気がする。その場所を訪れ、そこでオーディエンスのために演奏することは特別なことでだった。父も私が敦賀行ったことにとても感動していたよ。

ー今回のアルバム制作のきっかけとなったパンデミックが日本では終わろうとしています。現在アメリカはどのような状況ですか?(注)2021年12月中旬の時点の質問

デイモン 早く終わることを祈っているよ、このパンデミックについてまだわからないことがたくさんあるのが怖いところだね。日本がまた入国制限したのをニュースで見たところだよ、旅行に行ければいいんだけど今はほとんど不可能なので、他の人と同じく家にいるようにしてる。そして今あるもの、特に健康に感謝している。

ーDemon and Naomiの作品はどのアルバムもとても文学的で、また映像を喚起する印象があります。お二人それぞれのフェイバリット・ブックと映画を教えていただけますか?

デイモン それは実験音楽のリストよりも長くなるよ(笑)。ロックダウンの間僕たちは1930年代のハリウッド映画をたくさん見たんだ、それと黒澤明の映画。そのうちいくつかの黒沢映画のサントラLPも手に入れたよ。次はサムライをテーマにしたのアルバムを作ろうかな(笑)。
ナオミ 実は私は日本の小説(英訳版)をたくさん読んでいます。それも女性作家の作品を多く読んでいます。彼女たちの感情表現にとても共感します。特に好きなのは、水村美苗の『実録小説』、津島佑子の『光の領分』、小川洋子の『記憶警察』などです。ロックダウン中にはアメリカの作家シャーリー・ジャクソンを再発見しました、『The Bird's Nest(邦題 鳥の巣)』はとても力強い作品でした。映画については好きな映画が多すぎて何とも言えません、ごめんなさい。

ーこれは僕自身の話なのですが、20代や30代ではあまり好きではなかった音楽が年齢と共に好きになってきました。とたえば40歳ぐらいからジョニー・キャッシュやウイリー・ネルソンなどのカントリーやエルヴィスのような50年代のロックンロールがとても良く聴こえるようになりました。そういうルーツ・ミュージックで好きなアーティストや作品はありますか?

デイモン 僕はカントリーについてはよく知らないんだ。僕にとってカントリーは日本のリスナーにとっての演歌のようなものかもしれない。センチメンタルで、アメリカのある種の生活様式にリンクしている。でも、それにつながる素晴らしい曲もあるよね、演歌もそうでしょう?
ナオミ 私はパッツィ・クライン、そしてジョニー・キャッシュも大好きです。あまり彼らのアルバムをかけることはないのですが、彼らの曲を聴くのは楽しいですよ。

ーあなたたちもそうですが、アメリカのミュージシャンは年齢を重ねるごとに音楽に深みをますように思います。逆にイギリスのミュージシャンは初期のころの作品の方が長く聴けるものが多いと感じます(もちろん例外もありますが)、この違いはどう思われますか?

ナオミ それは面白い意見ですね。私たちもよくギャラクシー500の再結成しないのかとよく聞かれます、でも私はやりたくありません。もちろん私自身もそうですが、多くのミュージシャンの初期の作品を愛しているように、みんながギャラクシー500の音楽を愛しているのはわかります。でも私にとっては、いま昔のバンドに戻ってこれらの曲を演奏することはなにかとても不自然に感じることなんです。デイモン&ナオミとして古いギャラクシー500の曲をカバーすることもあります、その場合はその曲を現在演奏することに意味があると思える場合のみです。ただ35年前に後戻りするのは嫌なんです。だから私たちも年を重ねることで自分たちの音楽をもっと深く表現したいと思ってます、それをファンと共有できるようになれば素晴らしいことですよね。

ーありがとうございました、いつかもっといろんな話を聞かせてください。

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フィジカルでのリリースは世界で日本のみ、Damon and Naomiの6年ぶりのアルバム『A SKY RECORD』発売中!
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