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「マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの世界」『Loveless』の時代の思い出

KKV Neighborhood #96 Book Review - 2021.8.11
「マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの世界」別冊ele-king
review by 与田太郎

今年3月にイギリスで公開になったアラン・マッギーの伝記映画「Creation Stories」はプロデューサーにダニー・ボイル、脚本にアーヴィン・ウェルシュが参加しているにもかかわらず日本公開の予定はなさそうだ、残念だと思う。2012年のクリエイションのドキュメンタリー映画「Upside Down」は日本でも公開されたが、その後10年に満たないあいだに日本はイギリスの音楽にそれほどまでに興味を失ってしまったのだろうか? たしかにコロナのおかげで小さな映画館で上映される映画はリスクが高いのかもしれない、しかし1989年から1991年のイギリスのシーンはビートルズが牽引した1963〜1965年やパンクが生まれた1976〜1978年と比べても遜色ないムーブメントだったはずだ。その中心だったクリエイション・レコーズについての映画なら絶対に面白いと思うのだけれど。

一方ではそのムーブメントが生み出した数多くの重要作の中でも記念碑的なアルバム『Loveless』を作ったマイ・ブラッディ・ヴァレンタインについての本が『Loveless』のリリースから30年を経た今年刊行された。その長い活動の中でアルバムとしてリリースされたのは3枚のみだが特に最初の2枚はこの30年間世界中で聴かれ続けてきた。これはインディー・ロックやポップ・ミュージックのもっとも素晴らしい部分だろう、ポップスとしての売上の大きさやそれによる影響とは関係ない、プロダクトとしての音楽ではなく純粋にアーティストのアイデアと感性で作られた音楽が世代を超えて受け継がれているのだ。本書では各時代ごとのケヴィンへのインタビュー、すべてのリリースについてのレビューが掲載されている。僕も1枚シングルのレビューを担当させてもらった、光栄なことにそれは『Glider.ep』だ。なぜ光栄かといえば、このシングルが多くの点で後世に語られるマイブラ伝説の起点だと思うこと、そしてもちろんたくさんの思い出がこの曲にあるからだ。けれどその後の彼らは“Soon”のような曲をもう一度作らずにさらにその先へ、もしくはさらなる深みへ向かった。そういう意味でも『Glider.ep』というか“Soon”は時代の象徴でもあり、たった1曲の、しかしその後のシーンにとって大きな意味をもつ曲だった。

1990年の東京でも“Soon”はクラブで定番のヒット曲だった、下北沢のZooや吉祥寺のHustleに集まったインディー・フリークにとって“Soon”はインディー・ロックの進化系として響いていたし、僕自身もそう感じていた。同時期に盛り上がった“Loaded”もインディー・バンドのアイドル的な存在だったプライマル・スクリームが突如リリースしたダンス・シングルなのだがそれほど大きな違和感を持つことなくフロアでは受け入れられていた。当時はまだまだスミスやプリファブ・スプラウトでも盛り上がっていた時代だ、まだクラブとはいえディスコ的な感覚が残っていた。ほどなくしてDJがかける曲に808ステイトやTHE KLFが混ざりはじめ、ローゼズやマンデイズ、インスパイラル・カーペッツのマンチェスター勢に加えブラーやザ・ファームなどロック・バンドによる16ビートのダンス・ナンバー増えてくるころにはインディー・ダンス、マンチェスターといった言葉も登場し、ようやくクラブのようになってくる。

マッドチェスターの先鞭をつけたのはハッピー・マンデイズだ、89年の“WFL”のリミックスと翌年の『madchester rave on』でサウンド的にはいち早くクラブ・サウンドを取り入れた。ストーン・ローゼズは長く暗かったサッチャー政権の終わりと新しい時代の到来への希望をロックとして封じ込めたアルバムをリリース。その時代の空気にアシッド・ハウスが火をつけたことで週末ごとの熱狂が国中を包んだ、その空気の中でローゼズもマンデイズも自分たちのサウンドを確立していった、そして多くのバンドが彼らのあとに続く。なぜマンチェスターがこの時期数々のバンドや名曲を生み出したのか。その答えはハシエンダがあったから、ということにつきるだろう。ではハシエンダのなにが特別だったのか。それはオーディエンスの熱気が他の地域やほかのクラブとあきらかに違ったからではないだろうか。

1988年から始まったアシッド・ハウス、レイヴの大ブームはイギリス中を飲み込んでいく。当然ロンドンでもポール・オークンフォールドのスペクトラム、ダニー・ランプリングのシューム、テリー・ファーレイとアンディー・ウェザーオールのボーイズ・オウンといったパーティーがシーンをリードしていた。当時のプレイリストなどをチェックしていてもハシエンダでプレイされた曲は当然ロンドンでもプレイされている、違いがあるとするならあとはオーディエンスということになる。

イギリス北西部の人たちは本当にパーティーを必要としている。70年代から80年代はウィガン・カジノでノーザン・ソウル、80年代初頭から90年代中旬まではハシエンダでアシッド・ハウスやテクノ、90年代中旬から2000年代中頃にはリバプールのクリームでトランスと、時代ごとにイギリスの北西部には国内で一番盛り上がるクラブがあった。1989年にアラン・マッギーはハシエンダに通うためにマンチェスターにフラットを借りている。アラン・マッギーがダンス・ミュージックに飛び込んだことでクリエイションのミュージシャンも次々にパーティーに連れ出された、特にプライマル・スクリームがアランと共に濃厚な時間を過ごしていて、それが“Loaded”を作り、そして“Soon”を生み出すことになる。

“Loaded”、“Soon”そして“Fools Gold”と“Hallelujha”はインディー・キッズとクラブ・フリークを繋いでいった。そんな当時の状況についてはこの記事をぜひ読んでほしい、パーティー・サイドから見た当時のシーンが語られている。

僕が当時夢中になっていたイギリスのインディー・シーンはまさにムーブメントだった。それはインディー・ダンスと呼ばれる曲だけでなく、ラーズやトラッシュ・キャン・シナトラズのようなギター・ポップからワンダー・スタッフやネッズ・アトミック・ダストビン、マニックスのようなUKロック、ライドやチャプター・ハウスのようなシューゲイザーまでサウンドやジャンルは違ってもポジティブなメッセージと、リアルに希望と明日を信じる曲で溢れていた。僕はその1曲1曲からイギリスでなにかが起こっていることを感じ取っていた。その意味を実感したのは数年後、僕自身がパーティーに突っ込んでいった時だった。

今年リイシューされたマイブラのアルバム3作は日本でもとても売れているそうだ、秋には『Screamadelica』30周年記念盤もリリースされる。日本ではコロナのおかげでライブもクラブも、そしてフェスもまだ以前のように楽しむことはできないけれど、きっとパーティーを必要としている人は沢山いるだろう。いつか東京でも1990年のイギリスのようにインディー・キッズとクラブ・フリークがミックスされるようなシーンが生まれてほしいと思う、自由に踊り歌い叫ぶ日々を取り戻すためにも。

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