ダンスと社会について、自由と言葉について (フロクロさんへの再応答)

先日フロクロさんの『いわゆる「音ゲー」じゃない音楽ゲームについてダラダラ語るだけのnote』に反応するかたちで私のダンス論を語った『音ゲーとしてのダンス、 ダンスとしてのMV』というnoteを投稿したところ、昨日フロクロさんが応答し返してくれました。

特にふだん絡みがあるわけでもない赤の他人が勝手に便乗して書いたnoteを好意的に読んでくれるだけでもありがたいのに、更に時間と労力を費やして文章を書いてくださるなんて感無量です。フロクロさん、本当にありがとうございます。

「1000文字単位のリプライ合戦」という表現が素敵です。短文が飛び交う気楽なコミュニケーションではなく、ある程度まとまった分量の文をやり取りし合うのは今日日めったにやらないだけに新鮮で、かつ有意義なものだと感じます。

今回の件に限らず、普段の作品感想noteなども含めて、自分が感じたこと・考えたことを文章としてあとから参照可能な状態に残しておくことはとても大切であると感じます。(こう感じたので、いま文字に残しています)

自分の考えが、未来の自分を含めた「他者」に影響を及ぼし、その他者が更に論を進めたり修正したりしてコミュニケーションが進んでいく。このサイトには他の人が自分のnoteを引用したら通知がくる機能がありますが、この機能はこうした引用の連なりからなるコミュニケーションを全力で肯定し推奨しているようで好ましいと思います。

そして、これって学術的な「論文」と同じなんじゃないかと思います。もちろん私の記事は客観性に欠け、学術的価値はありませんが、本物の論文も、素人のnoteも、それ単体で価値があるというよりは、無数の書き手による無数の文書が相互に影響し合いかたちづくるネットワークにこそ価値があるという点では同じです。

よりラディカルには、Twitter上での会話も、それから現実でのコミュニケーションも局所的なシステム/ネットワークであるとみなすことも可能ですが(Twitter社が引用ツイート機能を推しているのはこのため?)、これらとのいちばんの違いはやはり参照可能性=「"残る"こと」です。Twitterも残るには残りますが、参照のし易さはあまり高いとは言えません。もちろん、他の利点とのトレードオフの関係にあるため、noteはTwitterより優れているとか、長ければ長いほどいい、というような話ではありません。なんにせよ、今回のリプライ合戦はわたしにとってとてもかけがえのないものでした。

さて、フロクロさんの応答記事について、いくつか感想を述べさせていただきます。

身体的な衝動の受け皿

社会で生きるために普段は衝動を抑圧しているが、どこかでその衝動を発散したいとも思っていて、いわば我々は「狂気のタックスヘイブン」を欲しているのだ。

フロクロさんはまず、そもそも「なんでダンスなんかするのか」「なんでダンスなんてものが存在するのか」、そしてダンスに限らず「なんでスポーツやゲームや芸術や娯楽やエンターテイメントがあるのか」について〈狂気のタックスヘイブン〉という語を導入することで説明を試みています。

この論の特徴は「社会」の存在を前提にしている点です。わたしは社会が好きではないので、自分の興味のあることがらについての思索で社会を持ち出すことはあまりしません。他人が社会と結びつけた議論をしているときも、つい「それわざわざ社会を持ち出す必要あるかなぁ」と疑ってかかってしまう癖があります。

たとえば以前紹介したLWさんのこちらの記事では、少年ジャンプの漫画『サムライ8』と『鬼滅の刃』の作品内のイデオロギーに注目し、前者が打ち切りに終わり、後者が歴史的ヒットとなった理由として、男性的な美学より女性的な美学が称揚される時代になってきているから、だと結論づけます。(ここで男性的/女性的という安易な二項対立を打ち立てることについてポリコレ的な批判はできますが、LWさん本人もその粗雑さは認識していますし、本題ではないので置いておきます)

要するに「そういう時代だから」と、(現代)社会を持ち出して漫画を論じているわけです。その議論の流れは非常に明解かつ説得的であり、「なるほどな〜」と言いたいところですが、というか多分読み終えたときに口に出したと思いますが、それでもわたしは少し経って冷静になると、自分の「社会の傾向を持ち出して説明するのはあんま好きじゃない」というめんどうな琴線に触れ、社会とか関係ない、作品そのものを分析して、サムライ8が失敗したワケを見いだせないかと思いました。そして、お題箱に私見を送ったところ、LWさんから肯定的な反応を頂きました。

↑こちらの記事196.にて正式な?回答がされています

お題箱は匿名なので、いちおう証拠として、友人と2人だけでやっているdiscordサーバーへの書き込み(お題箱投稿の原稿)を貼っておきます。LWさんに反応されてめっちゃ喜んでますね。

こんな匿名お題箱に言及して(証拠まで挙げるなどというダサいことまでして)何がいいたいかというと、自慢したかったのも8割くらいありますが、残り2割は「わたしは作品をなるべく内在的に受容したい人間である」こと、そして「自分がある物事について考えを巡らせるときに社会的な議論を積極的にはしたくない」ということの実例として挙げました。

あー寄り道が長え。いまのいる? 自慢したいのでいる(鋼の意志)

フロクロさんは「狂気のタックスヘイブン」という概念を用いて、ダンスなどのあらゆる芸術・ゲーム・遊びを、社会的に抑圧されたわれわれの狂気的な欲望の(社会的に管理された)表出として捉えている、という話でした。

さっきまでの流れでいくと、もちろん「こういう社会を持ち出す論は嫌い!」というところなのですが、自分の好みを別にすれば、フロクロさんの意見はとても正しいというか、「なぜ踊るのか?」という本質を突いていると思います。

わたしは前のnoteで、ダンスの本質を2つの側面から語りました。しかし、そもそも人類史においてどのように「踊り」が生まれたのでしょうか。文献を読んだわけではありませんが、石器時代とか原始的な共同体における「祭り」あるいは「儀式」で踊ったのが最初なんじゃないかと思います。豊作の神に祈りを捧げたり、邪気を祓うための行為としてのダンス。(合ってるかは知らん)

わたしは「わたしにとってのダンス」について語ったので、こうしたプリミティブなダンスの萌芽みたいな側面には意図的に触れませんでした。だってわたしは儀式として踊っているわけではないので。

でも、このように「儀式としてのダンス」の文脈でいえば、「社会」の存在が立ち現れてきます。「共同体」とはローカルな社会そのものです。祭りも儀式もひとりでは行えないし、やろうとは誰も思わないでしょう。ダンスとは共同体=社会があってこそ生まれた、という点で、フロクロさんの「狂気のタックスヘイブン」論は真実を突いていると思います。

もちろんフロクロさんは狂気や内なる衝動という単語を出せど、祭りとか儀式とか呪術とかいったことには言及していません。表層的には、わたしがいま語ったことは「狂気のタックスヘイブン」論をひどく読み違えてぜんぜん違う内容を語っていることになります。しかし、ダンスの根源に「我々の生きる社会」という日常を置いたこと、そして祭りは非日常の代表例であることを踏まえれば、2つの論はそれほど遠いものではないように思えるのです。

これらは「この場所や形式、ルールの下でなら身体的な衝動を発散しても良い」という社会的な取り決めを設けることによって、通常社会で狂気とみなされるような行為の数々を文化という形に昇華する役目を負っていると言える。道端で踊ってたらヤバいが、ステージならOK。会社で叫んだらヤバいが、カラオケならOK。

ふだん群れで狩りをしているときに踊ってたらヤバいが、焚き木の周りではOK。集落の皆が寝静まる洞窟で叫んだらヤバいが、そういう儀式の場ならOK。

レールとしてのルール

わたしは前noteにて「ダンスは譜面が無いからもっとも自由である。したがってダンスは究極の音ゲーだ。いまどき譜面に囚われているやつはバカ」と書きました。最後のは書いてません。そんな叩かれそうなこと書くわけない。「究極の音ゲー」まではたしかに書きました。

これに対し、フロクロさんは「ルールで縛ることと創造性を発揮することは必ずしも矛盾しない」といいます。

サッカーは数多くのルールが設定されているが、そのルールによって路上の自由なボール遊びでは見られない複雑なクリエイティビティが促進されている。ルールを定めることで遊べるフィールドが確定し、その秩序内での混沌の模索が可能となるのだ。逆に言えば、混沌の表現者も常に何らかのルールに依存しているということになる(ダンスバトルはダンスというルールに縛られている)。これらというのは結局レイヤーの違いでしか無いということである。作曲することもカラオケで歌うこともクリエイティブであり、ただそのレイヤーが異なるだけなのだ。

これはもう完全に仰る通りです。あまりにも仰る通りすぎて書き足すことが思いつきません。

実は先の述べたdiscordサーバーで、わたしのnoteを読んだ友人が開口一番に指摘したのがまさにこれでした。(掲載許可取得済み)

そのときも言いましたが、「自由を無根拠に称揚するのはナンセンス」です。「ダンスはいちばん自由な音ゲーだ」までならまぁアリかもしれませんが、それをもって「だからダンスは最も素晴らしい音ゲーだ」と結論づけるのは「自由=良い」という等式を暗に用いており、そしてこの等式は間違っているというか、非常に危険です。

また、「私」という概念が成立するためには「他人」の存在が必要なように、ある対象の「自由度」を測れる時点で、その対象は部分的に「自由ではない」ことを認めています。

フロクロさんは「ダンスバトルはダンスというルールに縛られている」と指摘してくれました。もちろんこれは(A-POPシーン等に例外はありつつ)正しいのですが、他にもダンスの不自由性=ルールはいろいろあります。

ストリートダンスにはブレイクダンス・ロックダンス・ポップダンス・ヒップホップダンスなど様々なジャンルがありますが、これもダンスを縛る枠、秩序でしょう。ダンスジャンルは「このように踊ったら楽しいし格好いいよ」というチュートリアルでありながら、そのジャンルごとに固有の歴史と文化があり、決してチュートリアルとだけで片付けてしまっていいものではありません。わたしだってポップダンスをやっており、それなりにこの自ジャンル(オタク的言い回し)に愛着があります。それでも「こう踊ったらいいよ」という枠は、音ゲーにおける「このタイミングで叩いたらいいよ」という譜面のような存在と言えるのです。

こうして、ダンスは音ゲーとして特別な位置から引きずり降ろされ、他の音ゲーと"対等"に論じることができるようになりました。引きずり降ろされたことは悪いことではありません。なぜならフロクロさんも友人も言うように「ルールで縛ることと創造性を発揮することは必ずしも矛盾しない」からです。矛盾しないどころか、「お互いを不可欠とする独特な関係を結んで協調して」いるとさえ言えます。

2人の意見はやはり完全に正しく、わたしはダンスをageたいばっかりに、こうしたルールと創造性の共犯関係をないがしろにしていました。

完全に自由なゲームは存在しません。「ゲーム」の定義に反しているからです。これはゲームだけでなく、カラオケもギターも書道も、あらゆる芸術や遊戯行為に当てはまります。こうした「完全な自由」を侵す秩序がいったいどこから来るのだろうと考えると、「言葉」にあるのではないかと考えます。

「ダンス」という行為の意味は「ダンス」という言葉によって規定されています。「ダンスとは踊ること。身体を動かすこと」そう決まっている(抑圧されている)ので、踊っていないことをふつうダンスとは呼びません。「書道とは紙に文字を書くこと」なので、紙に絵を書いたり、墨汁を飲んで味の採点をし始めたらそれは書道ではありません。つまり、すべてはその単語が存在していることが悪いのです。悪いというか、すべての秩序=不自由性の根源です。これはさきほどのダンスジャンルの話も同じで、「ポップダンス」という言葉が存在していなければ、ポップダンスという概念がないため、「それはポップダンスではないよ」と言うこともできなくなります。つまり、自由になります。でも、そうしてひとつひとつのジャンルを、言葉を解体していった先には、文字通りなにもありません。「なにもありません」という文字もありません。それが「完全な自由」なのでしょうか?いえ、「なにもない」のだから、完全な自由もまたあるはずがありません。こうして、完全な自由は実現できないことがわかりました。語義矛盾です。

だから、現実に生きるわたしたちは、完全な自由を追い求めるのではなく、「不完全な自由」「部分的な自由」からいかに創造性とおもしろさを生み出すかについて考えるべきでしょう。べき、というか、それくらいしかできません。

「創造性」という単語をさらっと引きましたが、「自由とはなにか」と同じくらい「創造性とはなにか」も奥深いと思います。そしてもちろんこの問いは「創作とはなにか」「フィクションとはなにか」「現実とはなにか」……と、いくらでも波及してゆくでしょう。ゆくでしょうというか、わたしの興味対象のいちばんの本丸は後ろの2つなので、単にこじつけているだけだとも言えますが……

何を書くのかまったく決めずに内なる衝動にまかせて書きなぐっていたら、今回はこのようになりました。

飽きたので突然終わります。

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