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虚構のまま、リアルへ - 『花とアリス殺人事件』 感想


※ネタバレあります

岩井俊二『花とアリス殺人事件』(2015)


さっきアマプラで観た。


最高!!!
これまで観てきた映画のなかでもトップクラスに好きだ。
まさに自分の観たかった映画はこういうのなんだよ!と思う。

本作の最大の特徴はロトスコープという手法を用いている点だ。
これは実写映像をトレースしてアニメに仕立てるもので、明らかにアニメーションが普通の手描きアニメのそれではない。リアル過ぎる。
私はずっとアニメ作品に「リアリティ」を求めてきた。
現実の日常でのちょっとした仕草や動作、台詞、息遣いなどがアニメというフィクションの中で高精度で描かれると、実写映像で同じものを観るよりも何倍も魅力を感じる。
この観点から、本作はロトスコープのために最高レベルのリアリティを誇っていると言えるだろう。(なにせ"元は実写"なんだから)

では、ロトスコープによる圧倒的なリアリティのために私は本作に最高評価を下すのか。それは違う。
観始めてその映像表現に驚愕したものの、あまりにリアル過ぎたために「これわざわざアニメでやる必要ある?」と思ってしまった。

これは「アニメ」および「フィクション」全般が本質的に抱える矛盾、それが表出したひとつの例だと言える。
「現実を模倣する」ということは、「現実のようなもの」を創り出す営みであると同時に、「これは現実ではない」と高らかに宣言する営みでもある。フィクションは常に「現実」と「虚構」の狭間で自身の存在を確立しようともがいている。
(余談だが、人間による歌唱を模倣する技術である「ボーカロイド」も似たような矛盾を抱えている)

しかし、『花とアリス殺人事件』を最後まで観たときに私は、最初に「これアニメじゃなくてよくね?」と思わせること自体が、のちのカタルシスへと繋がる布石であったことを思い知った。つまり、最後には「これはアニメ映画でないとできない作品だ」と確信したのである。

そのわけは本作のストーリーにある。
タイトルが示すように、本作は転校してきた徹子の席の前の持ち主が「殺された」という噂から始まる。「殺人事件」というおよそ非日常的で「リアルでない」ミステリー・サスペンスのモードが画面に持ち込まれる。
さらに、その「ユダ」殺人事件には心霊現象・オカルト的要素が絡んでいるらしいことも言及される。
こうして、極めてリアルな映像とちぐはぐな、「フィクションらしい」世界観と物語を鑑賞者は受容する準備をする。

しかし結局のところそれは裏切られる。死者の「降霊」はいじめ被害者が一発逆転を狙った大立ち回りのヤラセだったことがまず発覚し、最終的には──さすがにもうみんな予想できるが──殺人事件なども起きていないことが分かる。つまり作中で描かれるのは、あくまでもリアルで、非日常的なことなど起こらない世界だったのだ。

その代わりに描かれるのは、徹子と花のなんとも言えない小冒険であり、この過程はどこまでも「しょうもなさ」に満ちている。
例えば徹子がユダの父と間違えて別の老人を尾行してしまってから仲良くなり、駅前で別れるまでのシーケンスは、普通の映画作品ではまず描かれないくらい「本筋に関係がない」。徹子にとっても本作のスタッフにとっても、とんだ徒労である。

しかしこの徒労が、本作の脚本にリアリティを与えている。
現実はフィクションのように全てが繋がって大団円へと収束するわけではない。
得体のしれなかった殺人事件も、真相は「なーんだ、そんなことか」という程度のしょうもないものである。
現実は往々にしてしょうもない。「私なんでこんな無駄なことしてるんだろう」「これやる必要ある?」
そんな日常の些事でわれわれの生活のほとんどは占められている。
だからこそ、リアルではないアニメ映画というフィクションのなかで、リアルな映像技法を用いて、リアルな展開が繰り広げられることは、私のような「フィクションにリアリティを求める」鑑賞者の心をわしづかみにするのである。

はじめ予想された、いかにもフィクショナルな展開がガラガラと音を立てて崩れ、馴染みのある現実的なしょうもない展開へと回帰していったことと並行して、抱いていた「これアニメでやる意味ある?」という悪印象も崩れ落ちていった。
つまり、本作は表現技法(極めてリアル)と脚本(フィクショナルだと思わせておいて実はリアル)が並走し共鳴し合うことで、「アニメ映画でしか出来ない」ひとつの境地を体現しているのである。

後半の徹子と花の何気ないやり取りは、誇張されていないからこそ沸き上がってくる情緒と魅力がある。
平板で全く魅力がないと思っていたキャラデザも、不思議なことに最後には生き生きとした素晴らしいデザインだと感じてしまった。
終盤に垣間見える花のちょっとズレた/狂った性格も、リアリティに対する些細かつ渾身の反逆(あるいはいたずら)だと思えて、微笑んでしまう。

現実と虚構の関係についてずっと考えている自分にとって、これを観れたのはひとつの大きな収穫であった。
現実をトレースすること。逆に現実をなぞらないこと。そしてフィクションのままで現実に回帰していくこと。
こうしたダイナミクスを巧みに飼い慣らした本作は、「現実的な非現実を志向する」という矛盾に対するひとつの美しい回答であり、フィクションがフィクションのまま生き残るひとつの道ではないかと思った。

このような作品に出会えるからフィクションを味わうのはやめられない。
とりあえず実写版の『花とアリス』を観たい。



補足事項(反省事項)

・本当に現実に即しているという意味での「リアルなリアリティ」と、創作のなかで"現実的”だと見倣される「フィクショナルなリアリティ」は等しくないであろう。この両者の差異と関係性については自分のなかでまだまだ考察が進んでいない。要研究である。

・「アニメである意味」は自分のなかで納得できたが、「映画である意味」は特に思い至らなかった。むろん、映画である必然性などすべての映画が持ち合わせる必要はない。しかし「映画的」という言葉の意味についてはまだまだ無知であるため勉強していきたい。

・この感想文では、アニメ映画=フィクション、実写映画=リアル、のような図式を暗に仮定しているが、実写映画だって立派なフィクションである。つまり、この点に目をつむっている。この文章に巣食う数ある”粗"のひとつだ。

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