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『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』(2002)感想


う〜〜ん悩ましい!
とても良かったところと、個人的に納得できないところがどっちもある。。

まず、原恵一・水島努ペアによる演出・絵コンテの質の高さは言うまでもなく、また本作では「時代」の違う世界を描く背景美術の素晴らしさが引き立っていた。
美術が作品の中心主題であることはラストカット("青空侍")からも明らかである。

人物の画についても、時代風俗が異なるぶん、しんのすけほか野原家のキャラデザの異様さが際立っていて、それは単にまとう衣服が違う、という点だけでなく、顔の造形にもあらわれていた。(とは言うが、これは戦国時代と現代の人物の違うというより、大人キャラと子供キャラの違いである気がする。実際、当時の子供たちとして登場したのは風間くんやぼーちゃんたちの「そっくりさん」(ご先祖様?)なわけだし。)

とにかく、そうした、混ざり合わないものがひとつの画面の中で同居することの面白みは全編にわたって感じられた。

そして、ゲストヒロインである姫君:廉のなんと魅力的なことか! 最初っからヘテロ幼馴染に一途で、かつあんまりデレずにサバサバ/キリッとしてるところが良いな……と思っていたところでのあの胸元飛び込みですよ。
アニメにおけるヒロインの赤面描写が苦手だと色んな所で言っていて、本作でも残念に思う気持ちがないわけではないが、しかしながら、ちょっとあれは反則の破壊力ですよ。負けました。

そのお相手となる又兵衛は、『クレしん』じゃなかったら流石にもう少し美形の男にデザインすると思うんだけど、まじで老け顔の地味なおっさんにしちゃうのがすごいところだと思う。

そして、この映画でいちばん良かったのは、しんのすけの家族が車で戦国時代にやってきてからのシーケンス。
履物を脱いで興味深そうに車の後部座席に廉姫が座るカット、ここだけでも観る価値がある。
そのあと、又兵衛の馬と並走し、追い越して野原家の車が先にゆくシーンも、後部座席の廉姫側からリアウィンドウ越しに遠ざかる馬上の又兵衛を映すカットと、反対に又兵衛側からどんどん離れていく車に乗る廉姫を映すカットの連続は非常にエモーショナルだった。

戦国時代の武士の「足」である馬と、現代の家族の「足」である自家用車。まさに「混ざり合わないものがひとつの画面の中で同居することの面白み」とはこのことで、その両者に戦国時代の身分差のあるコテコテのヘテロ幼馴染カップルを分配して、最後の展開を暗示するかのように距離が広がってゆくさまを見せる上手さよ。

それから、後半での籠城戦の合戦描写が素人目線ではやけに丁寧に描かれているなぁと感心していた。何重の意味でも現代人かつ歴史に疎い自分が言う資格はないのだが、「リアル」な合戦描写だと思ってしまった。
そして、対照的に、その合戦のなかを相変わらず彼らしく自由に動き回るしんのすけ(及びそれに振り回されるヒロシ)はフィクショナルだと思った。つまりここでは現代人と戦国時代人のリアリティがアニメのなかで逆転している。しんのすけはどこまでも「アニメ」の世界の住人であり、彼と比べればどんな過去のタイムリープ先のファンタジー世界の住人も相対的にリアリティを帯びる。その時代、その世界に地に足つけて確かに生き抜いている存在としての説得力が出る。その反作用としてしんのすけの生き生きとした自由奔放な魅力も増す。この意味で、『クレヨンしんちゃん』と歴史ファンタジーモノは相性が良い。

では、何が納得できなかったのか。
それは最後の合戦において、野原家の車が、そして野原家が大活躍してしまうことである。
そもそもわたしは、過去にタイムリープして、その昔の時代の人と「現代人(の主人公勢)」が交流するタイプの物語には総じて厳しい目を向ける。というのも、「現代」のほうが文明は発達しているので、それだけで無条件に「現代人」は「当時の人」に対してマウントが取れる立場にあるというか、優位に立ってしまう。この非対称な権力関係の暴力性に批判的な目を向けずに、そのまま利用して、現代人=主人公を「活躍」させるようなエンタメ作品は世の中に腐るほどあるが、とんでもない欺瞞と思う。

「現代」から何も物品を持ってこずとも、その文化や歴史の知識だけで現代人は優位に立ってしまうわけだが、殊に本作のように、実際に「車」という文明の利器を過去の世界に持ってきて、それで無双してしまうのはどうかと思う。
上述した、馬と車が走るシーンを絶賛したのは、「車」という未来の利器が実質的には何も戦国時代への暴力となっていないから、というのもある。確かに車は馬よりも早く走れるが、それだけではクリティカルな「マウント」にはならない。あれは城へと戻る帰路のシーンであり、馬で帰ろうが車で帰ろうが、そのちょっとくらいの輸送効率の差などどうでもよく、どうでもいいからこそ、具体的な事実すなわち絵面としては、車に乗る廉姫と馬に乗る又兵衛がそのスピード差によって離れていく、ということの切なさが映える。(もちろん、2人がどちらも同時代人であることで「現代人が当時の人を余裕で追い抜いていく」という側面に焦点が当たらないのも大事なポイントである)

だから、又兵衛が朝方に決死の覚悟で相手軍に突撃するあいだに、野原家は車で城から脱出するように、と語ったとき、「これだ!!!」と思った。そう、「未来人」の道具・兵器である車は、戦国時代の合戦において活躍してはいけないのだ。むしろ、当時の人間たちの「お荷物」となって、その犠牲のうえでなんとか逃してもらう立場になること。過去の世界へ現代人が暴力性を発揮してしまう展開を避ける道として、この構図はあまりに完璧だと思った。

しかし、エンタメとして至極当然に、というべきか、そうはならず、上のじぶんの「完璧な構図」はただの前振りに過ぎず、フツーに野原家の自家用車は、そして野原家は合戦で大活躍をしてしまうのであった。
勘違いしてほしくないのは、わたしは別に「タイムリープした昔の世界の出来事に未来人(現代人)は干渉すべきではない」とか「戦国時代なりのフェアなルールのある合戦において、本質的に部外者である未来人がその片方に力を貸して戦局に影響することは、むしろ味方された陣営にとっても侮辱的な行為である」とかいった理由で批判しているのではない。(いや、後者はちょっと思うけど。)
わたしはあくまで、「過去-未来」という二項対立の拭い去れない権力関係の非対称性についての話をしている。過去よりも、現代=未来のほうが「あと」にある。過去のことは間接的に知ることができるけれど、未来のことは決してわからない。また、とりあえず今の所の人類史においては、なんやかんやで文明は漸次進歩している。(ここで本当は大量の留保・例外を付け加える必要があることは重々承知している)
だから、「未来から来た」者が、その時代の者に対して圧倒的に優位な立場であるのは必然であり、そこで大暴れしてしまうのはカタルシスでもなんでもなく、ただ強者が弱者を喰らったというまでのこと。なにも感動できないし、なにも痛快ではない。それがたとえ、野原しんのすけという子供のイノセンスと大人の欲望を併せ持つ天性のトリックスターによるものだったとしても、なおわたしは受け入れがたい。

という感じで、ぜんぜん納得がいかずに合戦が「自軍」の勝利でめでたしめでたしに終わるのを眺めていたので、又兵衛が何者かに射殺される、という衝撃の展開は、「まだ諦めるのは早いかもしれない」と思わせてくれる希望の光ではあった。例えば、あの凶弾こそが、しんのすけたち未来人の暴力性を告発する、上位の存在者による「見えない」手だったのかもしれない(→だから本作では過去-未来の非対称性をちゃんと自覚的に描けている!)、とか。。。

とはいえ、死に際に又兵衛が語った「俺は本当は最初にしんのすけと出会ったところで死ぬはずだった。そんな俺に、自分の仲間と国を守る時間をしんのすけが与えてくれただけだ」的な台詞はやはり解釈に都合が悪い。自分としては、あくまであの凶弾は、又兵衛(ら当時の人々)に対するものというよりは、しんのすけたち(未来人)に対するものだと位置付けたいので……。
タイムパラドックスを回避するための銃弾だ、とかいう方向の解釈には用はない。時間SFには興味がないので。「考察」ではなく「批評」がしたいんだ。
まぁなんにせよ、あの弾を打った犯人がまじで作中ではぼかされたまま終わる点は嬉しい。

あと、序盤で又兵衛たちの身内がほとんど死んでいると聞かされたときに「へ〜〜」と薄い反応を返していたしんのすけに、「センシティブなことを深く考えずにさらっと流せるしんのすけさすが!」と感心していたので、最後の又兵衛の死に直面したしんのすけの涙によって、事後的に、あの薄い反応は子供らしい「良いもの」としてではなく「改善すべきもの」としての描写だったことになってしまったのも悲しい。最後に泣くべきではない、とは言わないけど、それでも、ああいう感情豊かな態度こそが人間のあるべき姿であり、すべてのキャラはそこに向かって「成長」していくべきである、というイデオロギーは人間性ファシズムとして忌避していきたいところ。

あと、ヒロシの乗用車で敵軍を蹴散らしてしまうなどの野原家の(荒唐無稽な)大活躍描写によって、それまでの合戦描写の時代考証の丁寧さ、リアリティが、すべて前振りになってしまうことも悲しい。「あー……合戦のリアリティはすべてそのためだったのね……。最終的に野原家が破天荒に大活躍するための引き立て役だったのね……」となる。
「現代人と戦国時代人のリアリティの逆転」が良いと書いたけど、こういう落とし所を鑑みると、全肯定はまったくできないな、と思う。

ちなみに、この文章において、戦国時代の人を「現地人」と表現しないのは、ふたつの世界は時間的に隔たっているだけで、春日の国が現代の春日部であり、あの湖のあった土地に野原家が建っている、という空間的な同一性が設定されているからだ。この「実は同じ場所」という設定は、本作に、過去-未来のいわば時間的なオリエンタリズムだけでなく、本来の空間的なオリエンタリズムまでをも内包することをギリギリのところで避けることに寄与している、と見做すことはできる。しかし、これも見方を変えれば、むしろ同じ場所を現代つまり"最終"的には「所有」している(この春日の国の領土も、美しい国も今はオレのものだ!)ことを擁護する設定であるとも考えられるので、いずれにせよ議論の的である。


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