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〜焚き火の映像〜 『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』を観た


私のゴーストが囁いたので『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995)をアマプラで観た。原作未読・アニメ未視聴、初攻殻・初押井守である。

じぶんは本当にSFが苦手なんだな〜〜という、『AKIRA』や『インターステラー』を観たときとまったく同じ感想を抱いた。(SFだけでなく、刑事モノ・バトルものといった苦手ジャンルの悪魔合体であった。)興味がなさすぎて、話の内容が何も頭に入ってこなかった(頭に入れようという気が沸かなかった)。最後まで観ても「この痴女のお姉さんが主人公っぽいな〜……バトーってのはこの変なメガネ?の人か〜」くらいの認識で、誰が何の組織に所属していて(「きゅーか」?)、誰の何の事件を誰がどういう目的で追っている/起こしているのか何も分からないまま終わった。主人公が体制側なのか非-体制側なのか、そもそもそういう図式の話だったのかすらも理解していない。80分間焚き木がパチパチ燃えるだけの環境映像を観ていたようなものだった。


というわけで、以下、焚き火の環境映像に関する感想を述べる。


本映像中で焚き木がなんかパチパチしていたのから察するに、本作のSF的主題は「人間とは、機械とは、記憶とは、私とは、魂とは何か」みたいなアレのような気がする。(タイトルにそう書いてあるし)

わたしは無我論者……というか、控えめに言っても機械と人間に何も違いはないと思っている(あるいは、自分がいままでもこれからも機械であるとしても何の感慨も抱かない)し、「私」の時間的同一性もそんなに信じていない(1秒前の自分が別人であるとしても何の問題もない)ので、こういう「機械と人間の境界って実は曖昧じゃね?」「"あなた" と "私" の境界って(ry」みたいなノリがまったく合わない。主義主張が合わないのではなく、当たり前すぎて面白くない。「1+1って……2じゃね?」とドヤ顔で言っているようなもので、しょーもな〜〜としか思えない。(もっと深遠なテーマの掘り下げがおこなわれていたのかも知れない※が、焚き火がパチパチしているようにしか受け取れなかった。)

似たようなアニメ映画として『イヴの時間』も(少なくともストーリーは)本当につまらなかった。

※ LWさんによれば、『GHOST IN THE SHELL』はAIを扱ったSF作品として傑作であり、『イヴの時間』は駄作だということです。

しかし逆に言えば、AIが感情や人格を持っているかのような描写それ自体はギルティではありません。それに慢心して題材を全く活かせていないことが問題なのであって、AIを用いる他の合理性を示したり、AIに特有なドラマを描けたりしていれば十分に面白い作品も可能です(というより、鑑賞者側も無理矢理にでもそういう視点で良いところを探してあげた方が建設的です)。
そういう観点では僕は意外と『AI崩壊』とか『A.I. Artificial Intelligence』あたりも結構好きですし、特に『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の評価は極めて高いです。『GIS』でも人形使いは亜人格的なAIとして描かれていますが、それ自体はほんの前提に過ぎません。危うい境界を持つAIの存在様態を、無機物の側から人間の側へと近付く人形使いと、義体を介して人間から無機物に近付く草薙素子の鏡写しの間で照射することがこの作品の主題であり、それは明らかにAIに特有の題材です。
(note筆者注:『GHOST IN THE SHELL』について)
人間と人工物の狭間にある生命概念について扱っており、押井守が気持ちいいのは「情報生命体が生物と言える根拠はない」「生命の定義自体が曖昧だから」とはっきり述べてしまえること。こと哲学的な話題となると、大したことのない話を神秘化してさも大層なことであるかのように語ってしまう人が多い。不可知論や定義問題の前で解決する気もなく足踏みしたところでリターンは無い。

はえ〜〜。とりあえず『イノセンス』なるものも観といたほうが良い気がする。ただ、やっぱりじぶんはこうしたAIに関する主題論的な読みに興味はない(こういう観点で作品を評価するのはわたしの領分ではない)という気もしている。

(note筆者注:『イヴの時間』について)
アンドロイドの内面が存在することを自明に想定してしまってよいのであれば、それはもう「アンドロイドとどう接するか」という話ではない。せいぜい「社会制度としての奴隷とどう接するか」「精神障碍者とどう接するか」という話であり、そうした社会的・精神的な人間の欠陥をアンドロイドという技術的な問題に偽装しているようにしか思えない。

アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はまだ観ていないが、もし噂どおり本当に「機械(人形)が心を育んで"人間"になってゆく──」的な話を感動ノリで押し付けてくるやつだったらぜんぜん合わないだろうな〜〜と思っている。



閑話休題。

SFに興味がなさすぎて話の内容はまったく頭に入ってこなかったが、とりあえず背景美術ボードの緻密さはすごかった。

以下、ニコニコ動画dアニメ支店より画像引用

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全体的にどんよりとしたモノクロの画面構成なのにたいして、アクセントとしてのビビッドなカラーリングが映えていた。

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ただ、背景スゲ〜〜〜とは思っても、こうした九龍城砦的な近未来都市(サイバーパンク?)はやっぱりそれほど自分の好みではない。もう少し閑静で無人的な風景のほうがエモくて好き。『灰羽連盟』や『少女終末旅行』のような。

また、会話・台詞回しが全体的にハードボイルド調というか気取っていて、その「全部のセリフが名台詞ですよ感」も苦手。もっと肩の力が抜けたダラダラした雰囲気のやり取りのほうが好み。

アジアンで賛美歌っぽい劇伴の全体的な曲調も好みではなかった。


クラシックと化した名作を今さら視聴したときにありがちだが、「これネットで見たことあるやつだ!!!」という画がたくさんあったのは楽しかった。

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感傷マゾ界隈でよく見るやつ

これはTVアニメのほうだと思うけど、似たようなアーム高速カチャカチャのカットが数回あった。



以上のように、基本的には全然好みではなく、面白がれるやり方も、ネットミームの元ネタ確認くらいだった。

しかし、もう少し積極的に楽しむやり方も少しおこなったので簡単に書く。


わたしが本作に面白みをがんばって見出すとすれば、それはアニメ・映像表現の次元からメタ方面に読み込むといういつもの手段しかない。

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キャラクターの身体が透明になって背景美術と溶け合う「光学迷彩」というガジェットが全編にわたって登場していた。これを見ながら、アニメや漫画における人物作画と背景作画の分立(『ルックバック』的主題)に対する止揚……というか、調停?境界の侵犯?みたいな観点で面白いかもしれないな〜〜と思った。
(これが「生命と非生命の境界の侵犯/自己と他者の境界の侵犯」という物語的主題とキレイに対応・連関している、として評価できるのかもしれないが、前述の通りそっちには興味がないので仮に対応しているとしても特に嬉しくはない)


また、光学迷彩でキャラクターが透明人間のようになれることで、映像を撮る視点(カメラ)の主観性を強調する作用もあると感じた。つまり「この画/映像を "誰が" 撮っているのか」という想像をかきたてる(仮にそこに"誰もいないように見えた"としても、透明人間が撮っているかもしれない……という想像力を喚起させる)のである。

これは、本作に(監視)カメラ越しの映像のショットが多いことにも関係する。カメラ越しの映像は上のように画質の粗さと横縞で表現される。

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「透明人間が撮っているかもしれない」感がわかりやすいのは、以下のエレベータのシーケンスだ。

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このカットはエレベータの内壁の上のカドから見下ろすような角度で2人を撮っている。あたかもエレベータ内の監視カメラ越しの映像(≒誰かが見ているもの)のように。しかし画質が荒くもないし横縞もないので、あくまで監視カメラが撮る映像に似ている(わざと似せている)ショットの次元に留められる。

その次のカットがこちら。

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2人を俯角ではなくやや仰角に映すバストショットである。こちらは監視カメラっぽい角度ではない。しかし「透明人間がエレベータ内に潜んでいて、こっそりと2人を撮っている(視ている)主観映像かもしれない」とは捉えられないだろうか。

わたしは別に「このとき本当に光学迷彩による透明人間が潜んでいた!」などと主張しているわけではない。物語上/設定上は存在しなかったとしても、物語内に光学迷彩というガジェットが持ち込まれた時点で、上のような妄想を視聴者に喚起する作用がある、と言いたいのだ。光学迷彩とか透明人間が出てこない他のアニメを観ているときにはいちいちこんなことを考えない、というのがこの論を補強する。

わたしは小説を読んでいるとしばしば「これは誰が(誰に対して)語っているのだろう」と気になってしまう。同様に、映画などを観るときに「これは誰の視点なのだろう」と、カメラ(視点主観)の存在に思いを馳せることがある。こうした趣向をもつわたしにとって、上のような妄想をかきたてる「光学迷彩/透明人間」という要素は都合が良かった。(逆に言えばわたしは、こうしたメタ解釈をもたらすもの、として以上の価値を光学迷彩というSFガジェットに見出だせない)

実写映画であれば基本的に全てのカットはカメラが撮っている。しかしアニメでは原理的にカメラを必要としない。(昔のセル画アニメでは実際にカメラによる光学的装置を必要としていたのかもしれないが。)

したがって、アニメは実写映像よりも非-1人称的であり、非-人間的と言えるかもしれない。「それを撮る人」の存在を喚起させるカメラを排除しているためだ。

しかし、アニメがいくら方法論的にカメラという装置から脱却しても「あらゆる映像は何らかの主観的視点に依拠している」という、よりラディカルな事実からは逃れられない。「光学迷彩/透明人間」という要素をアニメ作品に持ち込むことで本作は、このラディカルな事実をわたしたちに思い出させる。


……「光学迷彩」だけでここまで妄想したことを褒めて(呆れて)ほしい。物語や世界設定に興味が無さすぎて、こういう思考で暇を潰すしかなかったのである。(むしろ、こういう妄想に気を取られていたがゆえに物語が入ってこなかったのかもしれない)






また「人物画と背景画」に戻ると、以下の海上のボートのくだりで、後ろのビル群がボートの揺れにしたがって上下に動いていた点に注目したい。

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動く人物画に対して動かないから"背景"なのに、動いていて面白いなあ」というだけの話なのだが……。これは船に限らず、車の運転を車内から映すショットとか、乗り物全般に適用できる話である。

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ただ、基本的に車や電車の車窓風景はヨコ(左右)に動いていく("流れていく")のにたいして、水面でプカプカ揺れる船上のシーンではタテ(上下)に動く("振動する")という違いがあり、それを画面構成の観点から掘り下げられるかもしれない。(画面は正方形でなくヨコ長であり、またフィクションといえども基本的に重力によって水平・鉛直方向の非対称性が存在する。これを前提として、この「背景の動きの指向性」の議論はどう展開できるか?)

※ 車窓風景は、撮る構図・角度によっては左右というより前後……奥行き方向に動いていく(拡大・縮小)こともあるだろう。また、画面の指向性の議論においては、重力のかかり方が異なる宇宙空間モノの画面構成は興味深いかもしれない。重力反転アニメ映画『サカサマのパテマ』も(前に観たときは楽しめなかったが)有意義な形で援用できそうだ。また、風景が動くといえば地震も無視できない。『東京マグニチュード8.0』を見返さなきゃ……

閑話休題。

映像作品、特にアニメにおける「乗り物」は、単にキャラを移動させたりするだけでなく、このように背景を動かす装置としても意義深いのかもしれないと気付かされた。「動くもの=人物/動かないもの=背景」という図式を立てるなら、乗り物とは「背景を人間化する装置」に他ならない。(人間を背景化する光学迷彩とは真逆!)


……これに関しては『攻殻機動隊』どころかSF作品である必要すらないが、とにかく、本映画のボートのシーンで以上のようなことを考えていた(=会話は聞き流していた)。


他には、先に述べた「カメラ越しの映像」の荒い画質の表現から、アニメにおける解像度ってなんだろう?と考えた。

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たとえば上のシーンは横縞のスリットがかかった低画質の映像で、これが何らかのカメラの映像であると分かるが、そもそも90年代に作られた本作は、いくら背景美術が緻密とはいえ、映像自体の解像度は現代アニメに比べると高くなく、そして、アニメとは原理的に実写映像よりも「荒い」映像媒体であるだろう。そう考えていくと「"アニメにおける解像度" の概念ってなんかフシギで興味深いなあ」と思うのである。

・・・正直ぜんぜんまとまっていないが、「解像度(が高い/低い)」という表現が原義をはなれて広く日常的な用法として使われている昨今、こうした原義的な意味に立ち戻って、そのメディア性に依拠して考えてみるのは無駄ではないような気がしている。しらんけど。




以上、『GHOST IN THE SHELL』を初めて観ての感想はこれくらいだろうか。

・・・焚き火の映像だけでもこんなに(4,000字↑)語れるもんなんすね。

攻殻機動隊のTVシリーズもdアニで配信されている。観たいけど、やっぱり全然合わなくて挫折しそうな予感もする。笑い男が出てくるのは知ってる。

ナイストでは「笑い男」と「エズミに捧ぐ」が好きなので、S.A.C.も気にはなっている。

それから、攻殻・笑い男といえばショミさんのボカロ曲&あんでっどさんの二次創作PVのイメージがある。

このへんの元ネタを辿りたいモチベはある。



もし観たらまた感想をnoteに投稿したりしなかったりします。


それでは。




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