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『明日ちゃんのセーラー服』10巻の感想メモ


読んだ日:2022/8/7

主人公がたくさんいる。アニメ7話「聴かせてください」の原典はこれか。(アニメの方が早い?) 戸鹿野舞衣さんは主人公的といってもジャンルが他の子とは違う。フツーに格好良すぎる。アニメで戸鹿野-蛇森ペアの人気が爆発したが、あんまりそこを推しすぎてほしくもない。二次創作等の安易な関係性消費を受け付けない、明日小路を中心とした全方位ネットワーク的人間関係こそが本作の肝だと思うから。(とはいえ蛇森さんのエピソードは素晴らしかった。)
なので、自身を「わるもの」と自嘲する戸鹿野さんと明日ちゃんの"対決"(=関係の構築)が楽しみ。

蛇森/戸鹿野エピソードと並行する形で、文化祭での木崎さんとの演劇の物語も本格的に走り始める。この巻の最終話ではいつの間にか勉強合宿に戻ってるし、そもそも描き下ろしの「番外編」も多く、一本の明確なストーリーで引っ張るのではなく時系列をも錯綜させた群像劇の趣が濃くなってきた(回想形式で物語る手法は体育祭編でもやった)。

そうした散文的/酔歩的な構成を、前述の全方向的ネットワーク人間関係("総攻め総受け")の演出の一端と捉えることも、あるいは本作の代名詞たるコマ割りを配した漫画表現との繋がりで読むこともできよう。

1年3組の皆が基本的に「主人公」としての造形を与えられているのに対して、3年演劇部部長の千嵐先輩の造形は明らかに非-主人公性を強調されている。明日ちゃん達の舞台をまたインターネット?で配信しようと画策しているようなのも鑑みると、彼女が1年3組の箱庭的空間を「外部」から観察し介入して「外部」へと発信をもしてしまう、ある意味でわれわれ読者の隠喩的存在、この漫画自体のカメラ-視点主体という気もする。(まぁ明日ちゃん家族の話とか、明らかに千嵐先輩が介入できない挿話も多々あるが……)

そして、そんな千嵐先輩の「映像配信」の目論見をあらかじめあざ笑い超越するかのように、古城さんが書いた演劇の脚本は明日小路に次のように語らせる。

いや 電話越しの声は私のものじゃない 画面に映る平たい画像は私じゃない

博『明日ちゃんのセーラー服 10巻』p.58

これはもちろん、すべてが「画面に映る平たい画像」で構成されたこの漫画自体への批評的言説としても機能する(せざるをえない)。千嵐部長による介入も含めて、すべてが『明日ちゃんのセーラー服』という箱庭的/神話的な空間の不可侵性/聖性を高め、それを高らかに宣言するための表現なのか。





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