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新海誠『すずめの戸締まり』(2022)初見感想


じぶんの『すずめの戸締まり』の感想、↑のポッドキャスト(2時間半あります。映画本編より長いです)ではとっくに公開していました。

しかし、そういや文章としてnoteにはまだ投稿してなかった(Filmarksにのみ投稿していた)ことに気付いたので、今更ながらコピペして投稿しまーす。

ふつうに去年の公開初日に観た直後にスマホをポチポチ打って書いたものです。




2022/11/11 11:12 執筆開始

《ドライブ・ゼア・カー》

良かったところも不満なところもある。
語れる要素は多いので、褒めようと思えば「世紀の大傑作」みたいなベタ褒めにもっていく解釈・批評も出来るかもしれないとは思うが、初見観終わった直後のいまの率直な感想はやっぱり「面白いところもつまらないところも両方ある」になる。

序盤はかなり不安な滑り出しだった。
作画・映像の作りがさらにリッチというか、CGを多用してエフェクトも盛り盛りにしてグリグリ動かす現代アニメっぽい感じになっており、それがかえって「新海誠らしさ」を期待して観に来たひと(=じぶん)にはコレジャナイ感を覚えさせる結果になっていたと思う。序盤からアクション的なクライマックスを配置する構成もそれを助長している。

また、ストーリーの基調も新海誠が牽引してきた抒情的な国内青春アニメというよりは、ノリの軽いドタバタ劇、言うなればピクサーか、あるいはイルミネーション(『ペッツ』)のような海外フル3DCG長編アニメのノリを志向してるのか?と訝しんでしまった。あの三脚の椅子とか……。それでいて、当然もともとの国内アニメ・新海作品のバタ臭さ?は拭い切れておらず不細工なキメラのようになっており、最初のほうはずっと「そっちへ行くな新海誠〜」と頭を抱えたかった。『岬のマヨイガ』のようなコレジャナイ感。(まぁ最終的にもマジで似たような展開になるけど…)

要石の封印が解けた白猫(ダイジン)を追って2人で宮崎からフェリーに乗って愛媛に行き、本作が列島を股にかけたロードムービーをやろうとしているのだと分かり始めてからは盛り返した。愛媛、神戸、東京…と、旅先で出会う人たちとすずめの交流が良い。愛媛の原付ミカン旅館少女(チカ)と「ほんと男子って〜」と女子トークしながら男風呂を掃除するシーンや、神戸のホステスママの子供2人のお守り中に椅子の秘密がバレるが子供は素直にはしゃぐだけという展開とか……。
序盤は滑り倒していたギャグも次第にチューニングが合ってきて、終盤の壊れたオープンカーのくだりでは劇場から笑いのどよめきが起こっていた。なので、全体としてはドタバタコメディとしてまあまあの出来だったとは思う。(細田守とかにはまだまだ及ばないが)

そう、本作のMVPは明らかに、東京で出会う、ソウタの怪しすぎる丸グラサン友人の芹澤くんだろう。彼を生み出した点でこの映画は価値があった(逆にいえばそれ以外は…ということでもあるが)。歴代の新海作品のキャラクター人気投票で1位を狙えるポテンシャルを持っているし、今日からSNSには彼の二次創作ファンアートが溢れかえるだろう。
「こいつら闇深〜」とか他人事として無責任に独りごちることができるキャラ、メインのプロットに絡むヘテロ恋愛の磁場からまったく自由なキャラこそがこれまでの新海作品に足りなかったものなんだなと思わされた。
壊れてうまく屋根が閉まりきらないオープンカーというモチーフ(最終的には車の”扉”が外れる!)は、「戸締まり」とあからさまに対を成すので批評的にも芹澤の存在は重要だろうし、マジで最強格。
(とはいえ、そうしたお気楽な”同乗者”でいられるのは「東京」という中枢都市の特権性を鮮やかに体現しているとも言えることは忘れてはいけないだろう。それも含めて上手いキャラクターデザインである)

『君の名は。』からずっとこの監督は震災をテーマにし続けているわけだが、序盤から何度もフラッシュバックしていたすずめの幼い頃の日記の黒く塗りつぶされたページの日付が終盤で画面に映し出された瞬間の衝撃は流石にすごかった。これは良い悪いの次元ではなく、ただショックだった。
と同時に、東日本大地震が「12年前」と作中で言及されるのを聞いて、ああ、それじゃあ今の小学生のほとんどは、3.11が「生まれる前の出来事」であり、人伝いに聞く、あるいは学校で習う「歴史」なのかと今さら思い至って、自分がなんだか遠くに来たような気を、あるいは彼ら──「未来」──との途方もない距離感を覚えて空恐ろしくなった。(これは映画そのものと直接は関係ない「体験」であるが、それがこの映画の鑑賞によって引き起こされたのは事実だ。)
震災体験を真っ向から取り上げたひとつのアニメ映画として、本作が成功しているのかどうかは今の私にはまだ判断できない。
今思ったのは、日記帳の3月11日から続く「黒塗り」が、その下に何かを覆い隠すものではなく、マジで白ページをただ黒く塗りつぶしただけであるということは重要だと思う。言い換えれば、黒塗りの下に隠された「真実」を明らかにするのではなく、黒塗りのページはそのままに、日記帳のページを幾つもめくっていくことで、再び母親()との「記憶」へと辿り着くということ。あるいは、重要なのは黒塗りそのものではなく、そのページの上部の日付欄に書かれた日付(が画面に映ること)である、ということ。

幼い頃の自分に出逢い直して、希望的な声をかける、というクライマックスの展開には、現代では、アニメにおいて「人と人との強い結びつき」を描くときに、親子関係でも男女関係でも同性関係でもなく、「自分と自分」という”閉じた” 二者=一者関係こそがもっとも社会的・政治的に「安全な」やり方なんだろうなぁ、そんな世相を本作はうまく反映していると、どうしても捉えてしまうなぁと思った。これも良い悪いの価値判断とは別。

とはいえ、本作の骨格がいつも通りヘテロ恋愛であることは間違いなく、それがやっぱり本作を肯定的に評価し切れない最大の理由である。一言でいえば、閉じ師のソウタお兄さん、この物語に要るか?? すずめの「好きなひと」として彼を設定する必要があったか?
母代わりに育ててくれた叔母さんとの関係の物語、そして母を喪失して彷徨うあの頃の自分と今の自分との物語、これらでもはや十分ではないか。
新海作品の根本的な異性愛中心主義、恋愛史上主義、保守主義はまったく拭えておらず、むしろ神道的なものを列島の地震と結びつけたこの物語は、歴代でもっとも右翼的な作品であるように思える。宮城の海沿いの故郷の町を臨んで、そこに住んでいた家族の「玄関」での記憶が溢れ出すシーンなんかは、うおおお家族イデオロギー万歳!!!って感じでウケた。
また、宮崎にソウタが帰ってきて、あの海の見える坂道ですずめが「おかえり」というラストシーンはとてもグロテスクに思えた。誰かにおかえりと言う側になることが、扉の”むこう側”の存在になることが「成長」であり「大人」になるということなのか? ザ・家父長制アニメ映画!

もちろん、地震に神道的な原因を幻視する設定は陰謀論と限りなく肉薄するのもあり、現代では陰謀論の影を排除してファンタジーをすることはもはや不可能なのかもしれないなあと思ってしまった。Qアノンなどを鑑みると、陰謀論と保守主義(ネット右翼)は相性が良く、その意味でも本作は完成度が(残念ながら)高い。

家父長制要素でいえば、叔母さんがすずめに切れて「ほんらい(結婚などの)大事な時期をあんたのせいで台無しにした!」みたいにキレるところも、いや大変なのはわかるけど根底にある家族の再生産主義と抑圧的な女性観が……と気になってしまった。

すずめの家族絡みでいえば、母親の死ばかり取り沙汰されて、いっさい父親の責任が追及されないのがムカつく。母子家庭でも生殖における父親の責任はあるはずだろう。それが隠蔽されて、母や叔母と娘という女性間で諍いが発生するというのは現実にめちゃくちゃ存在するケースではあろうが、モヤる。

あと、これは『竜とそばかすの姫』を観たときもまったくおんなじことを思ったが、いいかげん日本の(男性)アニメ監督は、「女子高生の制服」への神聖視・信仰を捨てるべきである。それが「正装」であり「聖装」であるというキモい思想。こんなんだから制服という制度自体に反対したくなるんだよ。

白猫のダイジンについて。
# ダイジンといっしょ とかいう激寒ハッシュタグが登場したときには観る気が失せていた(これも序盤が嫌いな理由のひとつだ)が、こいつも次第に良いキャラに思えてきた。東京の地下の後ろ戸ですずめから「嫌い」と言われてショックを受けて痩せ細るところなど、神様というよりは愛・承認欲求に飢えた人間の写し絵のような不気味で嫌に見覚えのあるマスコットでよかった。なんか終盤で「本当は後ろ戸に私たちを案内してくれていたんだね!」と必死に良い奴に仕立て上げようとするのには苦笑いしたが。
サダイジンのデカい黒猫も、結局何だったのかよく分からんけど好き。オープンカーの後部座席に居座ってる画がよい。

というか、やっぱりオープンカーなんだよな。
すずめが芹澤と隣同士で助手席に座るのではなく、後部座席にいるのがとても良い。(神戸のおばさんの二児のときと露骨に対照的になっている)
なので、叔母さんが芹澤のオープンカーに乗り込むところがいちばん「うおおお良くやった!面白くなってきたぜ!」とテンション上がったなー。やっぱ、向こうから扉を開けてもらわなくても自ら足を上げて跨いで乗り込んでいけるオープンカーが正義なんだよ。
閉じていることの象徴としての「戸締まり」という概念(これは家族イデオロギーに直結する)に対置される形での、決して閉じずに雨がモロに当たってしまう出来損ないのオープンカー。完全に屋根が閉まったと思った瞬間に扉が外れ、やっぱり決して閉じ切ることはない。そして、そんな壊れた最高のオープンカーに乗っているのは、すずめ、叔母、芹澤、白猫と黒猫という成り行きで乗り合わせた謎パーティであり、これは明確に「家族」概念の好対照を成す。その場の成り行きやノリ、偶然によってなんとなく一時的に同乗して、また離れ去っていく…という血縁的でも恒久的でもない関係・パーティが素晴らしい。だから本作を、そんな家族のオルタナティブとしての「オープンカー」性を見事に提示してみせた映画だとみなせばかなり好き。しかし、オープンカー性を提示しつつも、最終的にはソウタが宮崎のすずめのもとに帰ってきて(恒久的な関係の始まりを匂わせて)幕を閉じる点など、最後まで「(ヘテロ)恋愛」や「家族」を手放していないので困惑する。えっ、どっち?と。ふたつの対となるような主義を両方とも保持したままに終わるのは、この文脈ではふつうにズルくね?と思う。だから、好きなとこも嫌いなとこもあって悩ましいという『FILM RED』みたいな一言感想になる。

二項対立としてこれらを理解したが、それじゃあ前述の「自分と自分との関係」はどうなん?という問いが生まれ、悩む。三位一体というよりは、両極を併せ持った、あるいは止揚した位置にあるのかなぁ。しかしプロットでいえば、「過去の自分に出逢い直す」くだりも本当のラストではなく、ソウタとの男女関係の前座みたいな感じなんだよな…(本当にソウタとの恋愛?関係が要らなすぎる)

成り行きのオープンカー的なパーティの良さでいえば、エンドロールで宮城から宮崎へと帰る途中で、神戸のママや愛媛の旅館の少女と「叔母さんと一緒に」再会する後日談イラストが本当に好き。辿り直して再会するというのも、今度は叔母さんと一緒にいるのもなんだかとても感動した。

宮崎→愛媛→神戸→東京→宮城と、日本列島を南から北へ移動していく物語なわけだが、ロードムービーといいつつもフェリー・電車・乗用車・新幹線・オープンカー・自転車と、雑多な乗り物を乗り継いでいくところが好き。
また、新海作品のテンプレート概念である「田舎/都会」については、宮崎という田舎から次第に東京という中枢都市へと地道に遷移していく、その地続き感が好ましかった。『天気の子』では穂高の故郷の離島はほぼ描かれず全編が東京だったのでつまらなかったが、本作ではその点で大満足。東京が終着点ではなくさらに北上して田舎で幕を閉じるところも良い。すずめが九州弁でない伏線とかも。

本作の東京表象でいえば、マジでそのまんま皇居(の地下)に後ろ戸があるという設定から天皇制を意識しないわけにはいかないだろう。しかし、やはり扱い方は素朴な皇国主義、極右的なナショナリズムに依存している気はする。最後まで「かしこみ申す」で通ってしまうし。

宮崎(九州)から宮城(東北)まで、日本列島を広く駆け抜ける映画であるが、それだけに、新海作品における「日本」から排除されている沖縄の存在について考えてしまう。正確には北海道や青森や鹿児島なんかも範囲外だけど、そのへんは『空のむこう、約束の場所』や『秒速5センチメートル』で舞台になってるしな…
さいきん目取真俊と辺見庸の対談集『沖縄と国家』を読んだから、というのが大きいけど、少なくとも自分は本作を観て、本作とまったく関係がない──関係ないことにさせられている──沖縄に思いを馳せ続けたい。

廃遊園地の観覧車とか、人々に見捨てられた土地・建物にのこる記憶に焦点を当てるのはまんま『雨を告げる漂流団地』とかぶってて笑った。スタジオコロリドも作画/映像協力してるけど、新海誠はあれを観たとき焦っただろうな〜。



~コピペおわり~


ポッドキャストでは、上記のような自分の感想を相方に投げて応答をもらいながら、相方の感想も掘り下げながら、だらだらとオタクふたりが駄弁っています。序盤20分くらい、まったく関係のない『貞子DX』の話を相方がしているのでご注意ください。




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