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狂った世界で踊り狂う - 『天気の子』 感想

ちゅうい

・他人に読ませるための推敲をしていません。100%自分用のメモです

・1回しか観てないので実際とは異なる、的を外した意見である可能性が高いです

・本来ならfusetterとかで身内にのみこっそり公開する程度の文章ですが、そもそもツイッターをやっておらず仕方なくここで公開した感じなのでそんな目くじら立てないでね

・もちろんネタバレへの配慮は一切ありません

以上を了解した方のみどうぞ




話自体はとてつもなくしょーもない。

エロゲやらラノベやらで散々繰り返されてきたセカイ系の王道ストーリー。あまりに直球すぎて苦笑いも出ない。2時間、ほぼまったく心を動かされなかった。

選択をした後に、より大局的な視点を提示してそもそも少年の選択は選択ですらなかった可能性を示唆しておいて、その上で自分の思いを優先させて責任を引き受けることで遡及的に選択を存在させる点は、強いて言えばこれまでのそれとは一つ進歩した視座を獲得していると評することができるが、(一部のオタクがセカイ系を肯定してみせただの終わらせただの絶賛しているのは多分このあたりだろう)まあそれだけである。

そんなしょーもない話を莫大な予算とスタッフと技術とセンスでハイクオリティな映画に見えるようにコーティングしている、といった印象。そして実際にそれは成功している。

映画はどう観えたかが全てである。

しょーもなさに極めて自覚的に作ってもいる。

序盤に露骨に映し出されていたキャッチャーインザライは、「これから子供のしょーもない自己完結型の物語が始まりますよ。それを引きで観察してみましょうか」と予告しているようなもの。

このような実にしょーもない話に対して本気になってここまで作り込んで、世間のオタク層以外からも注目され、興行的にも成功し、ネットには哲学者まで巻き込んだ大真面目な考察が溢れかえっているこの状況自体が本当にしょうもない。しかし「世界なんて最初から狂ってる」んだから、そんな何よりもしょーもない現実世界において、このようなしょーもないフィクションとそれを取り巻くムーブメントがあることはこの上なく素晴らしいことだと思うし、フィクションって元来そういうものだったな、ということを思い出させてくれる。

みんなもっと新海監督のように自分のやりたいことに素直に胸を張って作るべき。

・真に映画的な作品

『君の名は。』はそれがアニメーションであることをテーマの上でも手法の上でも完璧に昇華させた作品だった。一方本作は、アニメ映画という属性のうち、真に映画的な作品だったと思う。

それは主人公帆高の愚行をどこまでも客観的に写し続けたからである。それが象徴的なのは終盤で廃ビルへ向かうため線路を走るシーン。ここは線路を走る帆高の一人称的視点ではなく、それを東京の街のあちこちから嘲りとともに見上げて観察する構図が強調され描かれている。

「何だあいつ」

「人生終わったな」

スマホのカメラを向けながらそう呟く映画の中の群衆は、画面越しにそれを観る、映画館という暗室に集った我々観客自体の投影に他ならない。

この映画は、我々が帆高を白けた目線で観ることによって始めて完成する作品だと言える。


エンドロールが終わり部屋が明るくなったとき、近くで母親と観ていた小学生低学年くらいの男子が言った。

「うーん、これには共感出来なかったな。だって主人公が犯罪を犯しているから」

少年よ、君はどこまでも正しい。どうかこれからの人生で、法に触れることなく健やかに生きてほしい。

そして少年にこのような一言をいの一番に呟かせる『天気の子』もまた正しい。本作が完全に成功したことが、この少年の一言で証明された。

正しくないのは、間違っているのはこの現実世界だけである。そこに生きる我々は、このような最高にしょーもないフィクションとともに、これからも踊り続けるしかない。

私たちが、大丈夫だと信じられなくなったときは、また映画館に集まってこの映画を観ようではないか。

そこではいつも、何の根拠もなくこちらが呆れるほどの笑顔をたたえて、狂った世界の雨のなか踊り続ける若者が待っているから。







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