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[B4作品批評レポート#2] Don't think.Watch!!なやつ

                          門脇研B4 門田




◾️はじめに


タイムリープ、タイムトラベル、タイムスリップ...


人類にとってこのような「時間操作」は「空を飛ぶ」に並ぶ永遠の憧れではないでしょうか。人類はこの永遠の憧れを数多くの作品として表現してきました。
その一つが映画である。

時間操作系映画は昔も今も朽ちることのないテーマとして存在しています。
私的に思いつく代表的なものとして

・バック・トゥ・ザ・フューチャー
・時をかける少女
・メメント
・アバウト・タイム
・バタフライ・エフェクト
・インセプション
・ドラえもん

があるでしょうか。また、昨今でいえばTENET、私的NO.1としてはヨーロッパ企画という劇団の「サマータイムマシン・ブルース」も挙げておきたいと思います。



選定作品

そんな中でも今回取り上げたいのは「ドロステのはてで僕ら」という作品です。
つい最近まで下北沢のミニシアターなど東京内でも3箇所ほどでしか上映されていなかった映画ですが、かなりの衝撃を受けた作品でしたのでこちらを私情をふんだんに交えながら分析や批評をしていきたいと思います。


設定上の定義

本題に入る前に時間操作の定義について話しておきたいと思います。


時間操作には時間跳躍と訳されるタイムリープや、文字通り流れるように時間を扱うタイムトラベルなど定義や設定も様々です。
意識のみを過去や未来に飛ばすこともあれば、新しい自分の像や世界(パラレルワールド)が作り出されることもあります。エンターテイメントとしてのそこの明確な定義は曖昧であることも多く、私もそこの定義を意識する必要はないと思っています。
ただ、過去や未来の自分との対峙を避ける事実を書き換えないようにするという認識はどの設定においても共通のポイントであることは間違いないです。


◾️ドロステのはてで僕ら

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概要 製作年:2019年 監督:山口淳太 出演:土佐和成、朝倉あき、


あらすじ

とある雑居ビルの2階。一人の男カトウがギターを弾こうとしていると、モニターの中から声がする。見ると、画面には自分の顔。しかもこちらに向かって話しかけている。

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「オレは、未来のオレ。2分後のオレ。」
どうやらカトウのいる2階の部屋と1階のカフェが2分の時差でモニター越しに繋がっているらしい。
“タイムモニター”なるものの存在を知り、モニターとモニターを向かい合わせて、もっと先の未来を知ろうとするが…
カフェの常連やビルの住人、さらに謎の男たちも巻き込みながら展開するSFコメディ。


私自身下北沢でのロングラン上映されていた最中に見にきましたが、70分という上映時間最初から最後まで最大限にワクワクさせられ、すごいものを見てしまったという感覚になりました。
前置きが長くなりましたが、ではなぜドロステのはてで僕らがそんなに面白かったのか、語っていきたいと思います。


◾️解説と魅力


時間の操作がない設定

ここまで時間操作系がどうたらと言ってきてどういうこと?となっていると思います。すみません。というのもこの作品ではタイムリープやタイムトラベルは愚か、過去にも未来にも行かないのです。

簡潔にまとめるとこの映画の全ては、1階のカフェにあるモニターと、そのカフェのオーナーであるカトウが住む2階の部屋にあるモニターの2つが2分の時差をもってそれぞれを映し、つながっているという設定です。
つまり、2階のモニターには2分後の未来の1階カフェが、1階カフェのモニターには2分前の2階の部屋が映し出されていることになります。

おそらく一瞬で置いていかれたと思うので図に表してみました。ここでは
現在=緑、未来=赤、過去=青としています。

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併せて紹介すると、序盤のストーリーとして、

2階の部屋にいる主人公カトウがギターのピックを無くして探している

突然モニターが付き、2分後の自分と名乗る自分からピックの場所を教えられる

教えられた場所でピックは見つかる

2分後の自分に、1階のカフェに降りてこのことを2分前の自分に伝えろ
と言われる

2階の部屋を出て1階のカフェに降りる

1階カフェのモニターにピックを探している2分前の自分が映っている

ピックの場所を教える

となります。
つまり2階の部屋のモニターは未来を、1階のカフェのモニターは過去を、そして主人公のいる、カメラが回っている世界が現在、という時制です。2分後の未来に違う自分がいるわけではなく、現実世界に流れている時間自体は操作されていません。シンプルに未来の自分の行動がモニター越しにわかるということです

もう気づいている方もいるかもしれないですが、端的にいうと「現在」の自分たちが2分後のモニターを見ることで「未来」に縛られて生きていくということです。


ここでのポイントは誰一人としてタイムリープをしていないということにあります。多くの作品で
現在の事実や結果があらかじめ決定していて、どのようにその通りに過去で起こしてしまった事件などを収束させるか、という構成であるのに対して、

2分後の未来が決定していて、その縛られた来る未来に対して今その瞬間からの2分間という縛られたタイムリミットでどうその通りに収束させるか、という構成になっているのです。

比較例として「時をかける少女」をあげたいと思います。


この映画においては主人公が「電車にはねられる」という一つの世界線から始まり、私欲に渡るまで限りなく発散的に時間操作が行われています。
ですから観る人にとってはある事象に対して主人公がどのような違った世界線にするかというように、ストーリーの軸は主人公にあります。


一方で「ドロステのはてで僕ら」は私たちが住んでいる今この世界、現実の時間の進みに軸があります。要は未来との辻褄合わせに奔放する物語なのです。

このような構成がある中で最初は興味から人伝えに常連客などを巻き込みながら私欲に走りつつも…

どうでしょうか。なかなかシビアで緊張感のある設定ではないでしょうか。では次にその緊張感のある設定を製作側の事情も踏まえてみていきたいと思います。


撮影と演者から伝わってきてしまう臨場感と苦労

この映画は映画としては短い70分で収められています。しかし体感としては実質ドラマ1話分(45分程度)に感じてしまうでしょう。それはこの70分が擬似ワンカット構成になっているからなのです。


私は70分間がノーカットで、まるでドミノが颯爽に倒れ続けていく様なスピード感の中に放り込まれた感覚になりました。というのもインディーズ映画という限られた予算と人員の中で使用されたカメラ機材はなんと「Osmo Pocket」。vlogなどで使用される小型カメラで全編撮影されているのです。

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これにより京都の雑居ビルという限られた空間の中での臨場感と身軽いシーン演出につながっています。
2分の時差という設定時間をカットも交えつつもほぼ忠実に現実世界でもその時間に縛られて演じるため、キャストたちの熱意とか思いが伝わってきます。いいえ、伝わってきてしまうのです(笑)。切れ目を感じないシームレスなカメラワークになっているからこそ製作側の苦労を感じずにはいられないながらも、それも映画の中のエンターテインメントとして楽しめる要素になっているのがすごいところだと思います。


総力戦映画

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S F系に限らずおおよその映画においては世界観やのめり込み要素として製作者の存在は感じないし、感じさせないことに徹しています。(ミッション・インポッシブルなどノンスタントであることが前知識にあることも作品を鑑賞する上で一つの要素としているものもある。)
ノンフィクションにこだわるクリストファー・ノーラン監督の作品においても例えば、実際にジャンボジェット機を航空機倉庫に突っ込ませてド派手に爆発、というシーンでも製作者側の苦労よりも、ストーリーの流れの一環としてそのシーンの臨場感を与えることに成功しています。


同じようにバラエティ番組やラジオにおいてもカメラワークやカンペ、お便りを渡すタイミングやC Mへの移行指示に製作者側を感じることはあまりありません。


一方で現にテレビ東京の佐久間プロデューサーやテレビ朝日の加地プロデューサー、私の好きな放送作家である白武ときおさんなどの裏方の功労者の取り上げ、タレントのYouTubeの編集などの製作者側にスポットライトが当たる傾向もありますが、そういったことではないことを言っておきます。




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「ドロステのはてで僕ら」では、意図的ではなく、純粋に製作者側の撮影の苦労がダダ漏れなのである。しかし、Osmo Pocketによる臨場感のある視線の高さでのカメラワーク、刻まれ続ける2分という時間、雑居ビルの階段を登り降りする動きのある展開が相まって、それは目立つことなくこの映画の構成要素の1つでしかなくなってもいます。


とはいっても製作者の苦労を感じずにはいられず、それら全ての情報を整理しようとしているとまた新たな展開に移っています。特にモニターを持って階段を登り降りするシーンは手ブレ補正のあるOsmo Pocketでなくてはもはやあのぎゅうぎゅうな階段室のシーンを滑らかには撮れないだろうというこの映画の真骨頂を感じました。
さらに言えばこの映画の撮影は、4日間という短い期間でさらにロケ地のカフェの営業時間外、つまり閉店後夜通しで行われたという情報を持ってみるとまた違う楽しみが生まれるかもしれません。


場所設定とスケールからのリアルさ

この映画のリアルさって多分この場所設定にあると思います。映画のロケ地やセットは結局のところ予算によるところが大きいです。


その中で「ドロステのはてで僕ら」は京都のJR二条駅の目の前に実際にある雑居ビルがロケ地です。いわゆる町家形式の雑居ビルで、接地階を店舗に貸し、2階以上をマンションとした階段室型の構成になっています。その1階部分のカフェとその1階カフェのマスターであるカトウの自宅アパートがある2階、さらに後に登場するヤクザが住んでいる5階、そしてそれらをつなぐ階段が舞台。

大学を含んだ一つの田舎町が舞台の「サマータイムマシン・ブルース」や全世界を飛び回る「TENET」に比べて、京都の街中の1つの雑居ビルという小さな完結した舞台でもこれら2つに劣らない内容です。
それはおそらく今現在の状況下だからこそ小さく狭い世界でも、些細な「ふしぎ」から、些細な「規模感」から、これほどまでにユーモアが溢れたやりとりや雰囲気が確かにあり、それに魅せられてしまうからだと思います。


「ドロステ」とは

ここでタイトルにもある「ドロステ」について触れておきたいと思います。

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「ドロステ」とは「ドロステ効果」とも呼ばれているのですが、絵画などに用いられる入れ子のような構図のことです。

具体的には絵の中の人物が自分の描かれた自画像を持ち、その絵の中の自画像も自分が描かれた自画像を持ち…といったものであり、似たようなものとして合わせ鏡もその一種と言えます。
そしてこの効果を用いて2つのモニターを合わせ鏡のように向かい合わせれば……。2分先しか見えないモニターどうしを向かい合わせれば……。伏線は幾重にも重なり……。

もう見てみるしかないのではないでしょうか。


2分

この2分という時間は、じっと待つには長いが、カップラーメン1つが出来上がるにも足らない絶妙な時間である。
「ドロステのはてで僕ら」では映画中の2分と現実世界の2分はほぼ同じであるとされていますが、実際この2分はかなり早く感じます。鑑賞中はあれ、これもしかして現実の2分と合わせているのか?でもスピード感早すぎないか?と思うわけです。


しかし映画館でみた私はそれを確かめることもできないし、primeビデオで500円を支払ってわざわざもう一度見返すこともしないし、そこが重要ではないと思っています。その確認こそ先のテレビの裏方や編集者などの製作者側との直接的な接触になってしまう。これはあくまでも純粋に映画全体のスピード感を味わった後日談として知ることに意味があると実感しました。


結果とプロセスと事実の慌ただしい反復 

結果としての未来であり、それに至るプロセスや事実はわからない。この映画にはその見えていない、知り得ないプロセスや事実を考えることに面白みがあります。そしてその踏むべきプロセスが起こるのはまさに「今」であり、「現実」であるということだ。よくありがちな過去にもう一度戻って、未来に伝えにいって、というゲーム性がないのである。


映画の中では、2階の未来を映すモニターから


好意を寄せる女の子をバンドのライブに誘ったら返事がO Kだった、ということが2分後の未来を映すモニターからわかります。そこでその女の子を早速誘うと返事はまさかのN Oだった。
しかし、未来と辻褄を合わせるには…

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なんていうシーンが物語っていると思います。つまりモニターによる結果とそれまで踏んだプロセスにおける事実に乖離が起こっているのだ。


さらに魅力として、ドロステ効果によって可視化された段階的な未来はそれぞれモニターに映るため、ある一つの未来としての結果が、その先の未来のプロセスになっていることにあります。

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先程のこのシーンでいえば、奥にあるモニターほど未来とすると、
より奥にあるモニターを観たいわけですが、一番手前に常に2分後の一番近い未来が映っているから...というわけです。


本来であれば、より奥に映るモニター、つまりより遠くの未来の結果から逆算しなければならないのですが、なんせ「2分というまず目の前で起こりうる最短の結果」の辻褄合わせに追われるというスピード感は、さながら提出物の締切期限に終われる我々建築学科生の様だなと。そんな自分とも重ねながら、その限られた中でもより遠くの未来から逆算して過ごしていきたいと思うのである...


なんらかの装置や道具が、時間操作をする設定上必要になります。バック・トゥ・ザ・フューチャーではデロリアン、ドラえもんやサマータイムマシン・ブルースではタイムマシン、アバウト・タイムであればクローゼット、TENETであれば回転ドアです。メメントやインセプション

そんな中でこの映画の装置はiMacです。通りで親近感が湧いたのかなとも...


◾️レポート後記

長々となってしまった文章、ここまで読んでくれた方なんているのだろうか。とにかく久しぶりに趣味を爆発できる場だと思い、伸び伸びと書くことができた。最近の悩みとして趣味嗜好と研究との境目が曖昧でなってきていることに不満とはいかないまでも何か引っかかるものを感じている。本当であったらTENETを批評しようとも思ったが、正当性の部分であるとか先駆者が多いとかの前に、2回見た上でマイベストに入るであろうこの映画を研究対象としてしまうことが怖かったからだ。


全てはインプットであると言えばそれまでだが、TENETでもエヴァンゲリオンでも然り、解説や考察全てを理解しようとする行為は必ずしも必要ではないと思っている。エヴァンゲリオンだって、その元ネタは旧約聖書からが大きいが魅力はそこではないし、わけのわからない単語が飛び交うのがかっこいいじゃないか。ミサトが戦闘指示で吠えているだけでかっこいいじゃないか

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その点、ドロステには「観る前の予備知識」、「観ている途中の考察」、「観た後の考察」がないことも魅力であると思う。現在の映画は今や最先端の映画配給会社「A24」からの作品のように何かしらの社会問題を必ずといって良いほど含んでいるが、そんな中でSFコメディという純粋なジャンルを脳みそ空っぽにして正面から楽しめるスケールになっているのだ。


最近ノーラン作品の一つである「ダンケルク」を鑑賞した。時間軸の操作が巧みであるという前馬評を鵜呑みにして細かいところまで注視してしまい、実は時間軸操作は単純で、複雑さは映像のカット操作によるものであり、内容としては本当はダイナミックな映像を楽しむべきものだったことに後悔した。「TENET」のような本当に難解な映画もあれば、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のようにわかりやすい時間操作以外にも、当時見ていた人にはマーティ・マクフライのファッションを一眼見てしまったばかりに80’sファッションにどっぷり、なんていう楽しみ方を与えてくれる映画もある。



もちろん映画が人生を変えてくれるなんて望んだことはない。けれど多分おそらく映画は観たその日と次の日、もしかしたらその次の日の三日間くらいの生き方を変えてくれる。それが良いところだと思っています。ドロステは生き方を変えるなんてたいそれた映画ではないけれど、2分先どうなっているだろうなんて思えてくることもないけれど、多分間違いなく、あ、面白い、と思える映画です。

映画は最高のエンタメであると共に、精神安定剤でもあります。

ドロステのはてで僕ら。夜の京都のとある雑居ビルで起こる「ふしぎ」な70分。Don't think.Just feel!な作品。
出会えてよかったです。

お読みいただきありがとうございました。


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