見出し画像

ある男の話7

 10月から急に仕事が忙しくなった。

 理由はわかっている。西田くんが急に会社を休み始めたからだ。
 誰かに面と向かって言われたわけではないが、メンターとして面倒を見ていた僕もそれなりの責任を感じて、彼の穴を埋めようとした。

 新卒一年目の仕事なんてたかが知れているだろ、と舐めてかかっていたが、代わりに仕事をしてみて、思いのほか、彼がプロジェクト内の(こまごまとした)たくさんの仕事をしてくれていたことに気づいた。

 会社に来なくなったとたん、「あいつ、仕事できなかったもんな」とか、「最初から休むと思ってたわ」とか、後出しじゃんけんで決めつけをする人間もいたが、決してそうではない、と僕は思う。

 確かにゾンビが大好きで、時に反抗的な目(ごくまれに)をする危うさもあったけれど、根はやさしくて穏やかで、昆虫をこよなく愛する、器用ではないけれど、じゅうぶん仕事ができる男だ。会社として、このまま彼をフェードアウトさせるわけにはいかない。

 十二時近くまで残業して、ようやく帰りのめどが立ったころ、LINEで連絡をしてみた。
「元気?体調は大丈夫かな?いつでもいいので、お返事くれたらうれしいです」
と、送った後、
「大丈夫です(オッケーの絵文字)ご迷惑かけてすみません」
と、すぐ返事が来た。

「よければ、今週あたり飲みに行かない?」
と、続けて送ると、少し間が空いて、
「了解しました!」と返事が来た。

 ふと、彼のデスクに目をやる。ディスプレイにかすかなホコリがかかっており、キーボードの横には、社員からの旅行のお土産が2、3個、なんだか申し訳なさそうにおかれていた。

 西田くんとの約束の日。
 何とか早めに仕事を切り上げ、会社から徒歩30分ほど離れた、いかにも客の少なそうな、古い小さな居酒屋で西田くんと待ち合わせることにした。
 ここなら、ほかの社員と遭遇するリスクも少ないだろう。

「おつかれっす」
「お疲れ様です」
 パーカーにスウェットのズボンといった、寝起きのようなスタイルで西田君がやってきた。頭にはいつものように、カブトムシの小さいほうのツノみたいな寝ぐせがついている。

「元気そうじゃん。今日は何してたの?」
「ゲームしてました。FFを。新しいやつを」と、独特な英語の構文っぽい日本語で返事をしてくれた。いつもと変わらぬ西田くんらしかった。

 お互いまずはビールで乾杯して、唐揚げ、刺身、豚キムチ、漬物の盛り合わせなどなど、二人でつまめるものをいくつか頼んだ。

 メニューはどれも300円くらい(一品一品は小さいが)で、店内は下町の食堂のようなこじんまりとした、なつかしい雰囲気で、七十代くらいの、おそらく夫婦であろう二人が店を切り盛りしていた。
 客は僕たちのほかには、地元の大学生らしき四人組しかいないかった。

 西田くんと二人だけで飲むのは初めてだったが、彼なりにため込んだものもあったのだろう。いろいろな話を聞かせてくれた。

 ここまでの彼の話をまとめてみた。

・大学院まで出たのに、全く関係のない仕事をしていていいのか不安があること。
・今の仕事は嫌ではないが、プログラマとして他にやりたいこと(入社後のギャップ)があること。
・一人息子で、大分県の両親から帰って来い(地元で公務員か教師になれ)と言われていること。
・昆虫の世界では、ハチに寄生され操られて本当にゾンビのようになるケースがあること。
・同期の関口ちゃんが好きなこと。

「とりあえず。仕事のことはおいといてさ」
「はい」
「関口ちゃんに連絡してみたら?」
「・・・そこなんすか?」彼は笑いながら言った。酒にはあまり強くないようで、顔や、首、耳の先まですっかり赤くなっていた。

「仕事なんてどうにもなるさ。西田くんのやりたい分野の仕事はたぶん、社内にも、世の中にもたくさんあるよ。でも、関口ちゃんは世界に一人しかいないよ?」

 半分冗談で半分本当だ。
 酔っているせいか、自分でも饒舌になってくるのがわかる。

 でも、へんに説教臭くなったり、Z世代に老害っぽく思われたりしたくなかったので、最後に気を引き締めて、そろそろ出ようか、と会計をして(当然僕が全部払う)、店の外に出た。

 10月の夜は思ったより寒く、薄手のカーディガンしか着てこなかったことを少し後悔した。

「ひとまず、元気そうでよかった。仕事のことは気にしなくていいから、気が向いたらまたおいで。待ってるから」僕は言った。
「了解っす!」と西田くんは元気な返事をしてくれて、その日はお開きとなった。

 ただ、正直あまり期待は持てそうになかった。

 実際、西田くんと会ったのはそれが最後になった。

 仕事が忙しいこの二週間くらい、麗奈からの連絡は一切こなかった。

 こっちから送った最後のLINEも、既読にすらなっていない。彼女も彼女で忙しいのだろうか。返信くらいしてくれてもいいのに。

 西田くんと話していて、じゃあ俺自身はどうなんだ、と思った。
 他人に説教できるほど、やりたい仕事ができて、充実したプライベートを送れているかというと、自信をもってYES、と言い切ることはできなかった。

 少なからず、自分にウソをついていることは確からしかった。
 と同時に、何かきっかけが欲しいと思った。自分が変わるきっかけが。

 日々の出来事は淡々と過ぎ去っていくけれど、よく目をこらすと、じつは周りには、自分が変わるための、目に見えない細い細い『糸』が伸びているんじゃないか。だけど大半は見逃しているんじゃないか、と思う。

 酔いをさますように、歯磨きをしながら、頭の中で過去をたどり『糸』を探してみる。

 ふと、先日のくまちゃん保険の彼女のことをおもった。

 たしか紙山さん、といったっけか。彼女に会ったその時から、なぜかそのアンバランスな体型、女性にしてはやや野太い声、瞬きの少ない独特な目線が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 それがどういう感情なのかは自分でも説明がつかなかった。でも、そこには確かに何らかの『糸』が伸びているような気がしていた。

 ちょうどいい建前として、今組んでいる保険の見直しもしたかったし、相手も営業なら、取引先の人間から声をかけられて悪い気はしないだろう。

 僕は、紙山さんの名刺にかかれたアドレスにメールしてみることにした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?