ある男の話5
あれは会社にいるときの、少し気だるい午後のことだった。
まるで不意打ちを食らったかのように、彼女は突然やってきた。
少し近くのコンビニに行こうと、エレベーターの前で待っていた時のこと。
「あの、すみません」
「はい?」
「今日、何月何日でしたっけ?」
「え」思わぬ質問に、僕は少しぎょっとした。
おそらく何かの営業に来たのだろう。グレーのジャケットを着た、背の低い女性だった。少し太って見えるが、顔は小さくほっそりしていて、少しアンバランスで不安定な印象を受ける。
「9月4日です」
「あ、そうですか」
礼くらい言えよ、という気がしたが、そこはグッと気持ちをかみ殺した。
しかしよくみると、太っているのではなく、肩幅がひろく、骨格というか体型そのものががっちりしているのだ、ということがわかる。
「どちらに御用ですか?」
「ライフケア事業部の佐々木さんに」
「ああ。じゃあ、ここじゃなくて一個下の階ですね」
僕らの会社は、ビルの中の2階分を丸ごと借りているため、たまにこういうことが起きる。あそこの部署は保険業を扱っているので、彼女はおそらく保険屋だろう。
「あ、そうですか。どうもすみません」
そういうと、彼女は目じりを下げながら笑った。
エレベーターで下の階を押す。
「どちらの会社さんで?」僕は思い切って聞いてみた。
あ、申し遅れました、と彼女は胸ポケットから名刺を取り出し、
「くまちゃん保険の、紙山と言います」
ありがとうございます、と僕も自己紹介がてら名刺を交換した。
笑ってはいるが、目が笑っていない熊のイラストが名刺に載っている。
ほどなくして、エレベーターが到着したので、彼女は下の階へ去っていった。
「ガタイの良い女の人ですね」
急に後ろから西田くんに話しかけられて、ぎょっとした。
僕は、そうだね、と少し笑って答えた。
その日は仕事が立て込んだので、夕飯も社員食堂で食べていくことにした。
夏が終わったせいか、夜の7時を過ぎると、あたりはすっかり暗くなった。食堂も、昼間とは雰囲気が一変し、薄暗い中でところどころライトアップされ、こじゃれたバーカウンターみたいになった。昼間より社員は少ないが、何だか昼間より深い話をしていそうだった。
カレーライス(体に気を使ってサラダを付けた)を載せたトレーを持って、窓際のカウンター席に座る。窓から見下ろすと、駅前の、サラリーマンや学生っぽい人たちがたくさん行き交っている。
「何ボーっとしてんだよ」横田が横に座ってきた。トレーにはロコモコ丼らしきものを載せている。
「今日、なんか営業の人そっちに行った?」
「毎日めっちゃ人くるからなぁ。どんな人?」
「くまちゃん保険の人」
「あー。俺んとこじゃないな。それがどしたの」ロコモコ丼をほおばりながら横田が答える。
「なんかさ、急に日付聞かれた」
「日付?」
「今日、何月何ですか?って」
「やべぇやつじゃん」横田が笑った。米粒が2,3粒、口から飛び出した。
「でも新卒とか、そんなに若そうな感じじゃなかったよ」
「なおさらやべぇじゃん」
僕らは笑った。
その日、僕は結局、10時を過ぎるまで残業をして、家に帰った。
なんだか気分が高揚していて、珍しく3ヶ月ぶりくらいに酒を飲まなかった。
その日の晩、目の笑っていない熊に追いかけられる夢を見た。
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