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ある男の話2

 ビールの酔いが回ってきたのか、雨が降りしきる中、ぼんやりと昔のことを考えていた。

 僕は、今住んでいるところよりもっと田舎の、海が見える小さな港町で生まれ育った。

 物心ついた時から父はいなくて、母と妹の沙彩と三人暮らしだった。だから僕は父親という存在を知らない。僕の中では、そもそも『家族』というのは母と子だけ、というのが当たり前だった。

 母はスナック(『ホタテ貝』という店。由来は知らん)でママの仕事をしていた。

 夕方ごろに出勤して、お店で散々酒を飲んで、夜中にふらふらで家に帰ってきて、そのままお昼過ぎまで寝ている、というのが僕たちの日常だった。
 酔っぱらって帰ってきて、玄関で力尽きて、そこで朝まで寝ていたこともしばしばあった。

 そんな毎日だから、基本、母は料理はせず(料理している姿を見たことがない)、僕たちの朝食や夕食をいつもスーパーの総菜やカップ麺で済ませようとした。

 でも僕は、沙彩にちゃんとしたご飯を食べさせてあげたいと思って、小学校のときから、自分で考えて料理を作るようになった。いつも夕食を多めに作り、残りを冷蔵庫に入れて、翌日の朝食にして食べた。

 だから、家でのご飯は沙彩と二人で食べることが多かった。
 それでも沙彩は母がいなくて寂しいとか、アレが食べたいとか、絶対にわがままを言うことはなかったし、それだけが僕の救いだった。

 沙彩は母に似て明るく、自由奔放なところがあったけれど、僕の大変さを分かっていたのか、小さいなりに気を使っていたのだろう、と思う。

 母が二日酔いで沙彩の学校の三者面談に出れず、僕が親の代わりに出席したこともあった。先生からは怒られることもなく、「敦くんのおうちは大変だね、えらいね」と、むしろ同情の声をかけられた。

 母は「何とかなるっしょ」が口癖の、とにかく破天荒な人で、ことあるごとに僕たち二人を振り回した。

 突然、お店のお客さんや同僚と旅行に行って三日くらい帰ってこないことがあった。
 夜中に酔っぱらって一人で海を見に行って行方が分からず、僕たちが散々探した結果、砂浜のところで砂まみれになりながら爆睡していたこともあった。

 父も、そんな母が嫌になって家から出ていったんだろう、と思う。
 僕も、この傷がうずくたび、母を憎んだ。

 そんな母親からの反動か、僕はいつしか、自分がしっかりしなきゃ、と考えるようになった。

 しっかりするためには、とにかく経験をつまないといけない。そう考えた僕は、だれかをまとめる『責任のある役』を率先してやることにした。
 中学校に入ると、自分から立候補して、生徒会長をした。高校のサッカー部でも、キャプテンをやった。

 隣町にある高校のサッカー部で、強豪と呼ばれるくらいには強く、他県からやってくる生徒もいて五十人くらい部員がいた。
 みんなのいうことを聞かせるのは大変で、毎日ゲロ吐きそうなくらいのプレッシャー(実際、何回かゲロった)だったけど、なんとか自分の力でまとめ上げられた、と思うし、それがのちの自信や大事な経験にもなった。

 しばらくそんなことを続けていると、リーダーキャラが定着してか、周りから「敦、向いてるから班長やってよ」「キャプテンはあっちゃんしかいない!」「ぼくらのリーダー、あっちゃん!!」(後半はやや妄想)と声がかかるようになった。

 みんな、班長やらリーダーやら、そんなめんどくさくて責任が伴うことはやりたくないから、僕に押し付けているだけなのかもしれなかった。

 でも、僕はめんどくさがらずに引き受けた。一度断ってしまうと、母のように自堕落な人間になってしまいそうな気がしたし、それだけは絶対に避けたいと思うようになった。

 僕は一刻も早く社会人になりたかった。自分でお金を稼いで、自立したかった。

 昨年から大学に通う、沙彩の学費のこともあった。いっぱしの社会人になって、ちゃんとした会社に入って、母とは違う、まともな人間になりたかった。

 早く家庭を持ちたい、と思ったことはないけれど、もし持つのなら、もっとちゃんとした、『理想的な家族』を作り上げたいと思った。

 母は、繰り上げて年金がもらえる歳になったので、今は仕事はせず、悠々自適に暮らしている。
 年に数回、電話やLINEで勝手に近況報告(韓国語を習い始めただの、友達と京都に旅行に行っただの)が届くが、いつも適当に返事をしたり、しなかったりで終わる。

 さぞ、自分勝手で楽しい人生だな、と思う。


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