阪神淡路大震災を振り返って(2)

22年前。
色々忘れる前に、ついに書いておこうと思う。
続き(2) *(1)はこちら 

当時、被災地ではこの2曲ばかりが流れていた。
美し都(うましみやこ) 平松愛理 
がんばりましょう SMAP 

近所に小さい食料品店があった。
我に返るとお腹が空いたのか、
食料を確保したい無事だった人達が
そのお店に殺到した。

菓子パンは取り合いになったが、
支払いのレジには皆並んだ。
後に海外で話題となる光景だった。

このお店は震災後2日で売る物がほぼなくなり
店主も避難する為にお店を閉める事にした。
最後は無料で配ろうとしたが、
皆、多少不足していても代金を支払ったという。

国道に目をやると、道路の真ん中で
車を誘導している人が居た。
壊れた信号の代わりだった。

震災後3日以降は、運転手が譲り合って
国道を走っていた。事故は皆無だった。
バンコクやホーチミンなどでみられる光景に
似ていたかもしれない。

そんな光景を目にし、聞いたりするたび泣いていた。

安否の連絡をする為、
公衆電話前の長蛇の列に並んだ。
家族を代表して私が数日数回に分けて担当した。
数ヶ月この電話番号のメモは持ち歩いた。

水の確保が体力的にキツかった。
かなりの力仕事だったが毎日やった。

運搬用のタンクは大阪の友人が手配してくれた。
兵庫県下では手に入らなかった。

お風呂は大阪の銭湯に通った。
洗濯も大阪のコインランドリーで済ませた。

家族の洗濯物を大きなリュックに入れて
電車で大阪に出た。
この時はまだ、大きなリュックを
日常使いにする文化はあまりなかった。
山ガールが流行るのはずっとあとの事だ。

大阪に居る人達の視線が気になった。

正直、被災地での苦労や辛さより、
大阪と兵庫のギャップにヤられた。

大阪から電車で兵庫に向かうと、
武庫川より西は景色が一変していた。
シンゴジラの第二形態が通った跡のようだ。

今日はここまで。まだまだ(3)へ続きます。

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