違和感

自分は、セクシュアルマイノリティ(ノンバイナリー)だ。

そう思っている。だからといって、それを周囲に理解してもらおうとか、そんなことは考えていない。

そんな自分の見ている世界は、他の人と違うのかもしれないと思った。

皆、演じている?

多くの人は、生まれた性別で全てが決まると考えているように見える。
髪型も、服装も、言動も、何もかも。
性別で役割が違うのだから、そうだろうとは思う。求められる姿も、あり方も。

生まれた性別を受け入れられる?

生まれた性別をそのまま全て受け入れられるから、その性別の人に望ましいとされる方向へ進み、堂々と生きられるのだろう。

自分から見ると、そのような生き方がとても不思議で仕方がない。自分で性別を選んで生まれてきた訳ではないのに、どうして性別を受け入れられるのだろうか。体は変えられないから?体と心の性別が一致しているから?

外に出ると、綺麗な女性、可愛らしい女性、かっこいい男性、可愛らしい男性、あえて性別で書いたが、実に色々な人がいる。そして自分はそこに当てはまらないような、外れた存在

だから、思ってしまう。演じている、と。

皆、「女性」「男性」を演じているのではないか?
他者に求められる姿や自分自身が求めている姿があるから、演じているのか。それとも、演じてなどいないのか。ありのままの姿が、外に出ているだけなのか。

性別を受け入れた上で、より積極的にその性別へ向けて努力し、演じているように見える。言ってしまえば、性的魅力が伝わるように。本能なのだから仕方がないことは理解している。

そのうえで、生まれた性別以上により女性的、男性的にと動く人を見て、抱いてしまう違和感。それは自分とかけ離れたものに対して抱く恐怖心にも似ている。面と向かって「性別は2つしかないよ?男か女か、どっち?」と言われているようで。それ以外の存在に意識が向いていない。
皆が女性的に男性的にと演じるほど、何だか苦しくなってくる。なぜなら、自分は全く演じることができないから。
男や女を演じるのが苦手な人はいても、男も女も演じられない人はあまりいない気がする

演じられない→演じるのが苦手
という状態にまで心を動かして、演じるのが難しい。泣きたくなる。この感情は当事者にしか分からない。他者に理解を得ようとしても無駄だろう。
自分の性別と異なる性別の服を、無理矢理に着せられ、異なる性別を演じさせられるようなもの。そこに自分の心の居場所はない。

せめて「演じるのが苦手」状態にまではしないと、上手く生きられないであろうことも分かってはいる。自分の性別を演じてみても、生まれた性別を演じなさいとでも言うかのように注意される。生まれた性別らしく〜は今の時代にそぐわないだろう。しかし、自分の見ている世界の中では、皆が積極的に生まれた性別もしくは心の性別らしく振る舞う姿であふれている。性別のはっきりしない人も、どこかに収まらなければ生きにくい。

自分だけの違和感なのかもしれない。
生きるのが苦しい。
演じることで変わらなければ。
でも変わりたくない。

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