何もない=(は)何かしたい 2022

自分が珈琲をハンドドリップで淹れてる姿、人からどう見えるか気になっていて、たまに撮影することにしました。


カメラにおさめると、自分のことだからでしょうか、真剣そうな顔だけで、実際はどうも集中できてないのが分かっちゃう気がする。
視線に落ち着きがない。
空気感も、なんだかな。そういうことじゃないんだよって。

というか何より抽出の動き早すぎて最悪。
(抽出結果としての味のバランスや濃度感の話でもないんです)

珈琲抽出についてこれまで学んできた話では、注湯のスピードをコントロールするのは、珈琲の味への影響が大きいから。

人によってシーンによって、調整する順番は違うだろうけど、使える器具を考えて、抽出したい量とのバランスで豆のグラム数やお湯の量、挽き目を決めて、注湯スピードをコントロールする、という感じ。

だけどそうじゃなかったのかもしれないって。


ゆっくりとした動作で淹れることが本当は一番に大切で、そのためのやり方を探っていくこと。
ゆっくりを表現するのに器具豆の量注湯量挽き方、そういうものを選択していくことが、私にとっての道のように思った。


顔に表情があるように、例えば手にも表情があるようで。
無意識に出ちゃうものだったりするけれど、全身の表現に頭を使うこと、磨いていくこと、私がたった一杯の機会に実現したいことのため、必要なこと。

ゆっくりってどのくらいだろう。

けどそういうものがひとつ見つけられたことにとりあえず安心してる。
そんな気持ちで年を越そうと思ってて。



やってみました。12/31。

何だろう何がだろう。

ゆっくり淹れることを意識してみたら、こわかった。
抽出の時間2分を3分にするとか、そういうようなこと。
それが、たまらなかった。恐ろしい気持ちがした。


この1分に、自分自身の内面と対峙するようなことが耐えられなかったのか。
目の前でぽたぽたと落ちる黒い褐色の液体には、全部、分かられてしまっているような。


お客さまをお待たせしているような状況でもなくて、自宅でひとり、自分のために淹れる一杯。
動作自体は慣れたもの。
できない理由、ないはずなのにね。


ゆっくりにしようとするほど、気持ちが焦って急かされて。
余計なことを考えてしまう。
頭の中が何かに埋め尽くされていくようで、落ち着かない。

早く終わらせて、この時間から解放されたいと思った。



抽出のときは右脚は少し脱力させてとか、左手で腰を支えてとか、そんなのが、私のルール。

気持ちが多少乱れても、安定できてた姿勢。
抽出途中でスケールが止まって注いだお湯を量れなくなってしまっても、その姿勢と時間感覚を信じられたら、大丈夫だった。
いつもの味で、出せていた。

なのに今日から、今までの全身の使い方がなんだか急にしっくりこない。
これからどうしよ。


ゆっくり淹れるって難しかった。
私ってまだ全然だった。



するべきことがわかったようで
理想に近づけたと思ったのに、
あまりにも小さな一歩。


西国分寺・Takai TO Coffeeさん焙煎のホンジュラス。
オルランド・アリータ。
間違いなくすばらしい珈琲で、
もっと美味しく淹れられるはず。あーごめんなさい。

今年最後の一杯はそんな感じ。



年始は大坊勝次さんのイベントへ。

こんなんで結構、前向きやねん。
2021ありがと。

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