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ゲーム『あつまれ どうぶつの森』で学ぶ「社会的ジレンマ」

この記事では,ゲームにある社会科学の概念を学んでいきます.ぜひ,ゲームをプレイしてこのノートを読み,学術的背景に目を凝らしながら楽しんでください.

今回も引き続き『あつまれ どうぶつの森』を扱います.前回のnote「公共財とボランティアのジレンマ」編の続きになっていますので,まだ読まれていない方はぜひご覧ください.


みんな,オラにベルを分けてくれ!

前回のnoteでは,橋を架けるという事例をもとに公共財の特徴を考えました.橋はだれもが利益を享受するものですが,コストを誰が負担するかは問題です.橋を建設するコストがひとりで負担できるほど小さい場合,誰かがコストを背負うことが起こりうることでした.しかし,そこでの問題は誰が負担するかわからず,結局誰も負担しないことが起こりうる「ボランティアのジレンマ」でした.

今回は2つ目以降の橋を架ける際のことを考えてみましょう.『あつまれ どうぶつの森』では,2つ目以降の橋は,ベル(ゲーム内の通貨)が一定額に達すると建設される仕組みになっています.たとえば,1つ目の橋と同じ丸太の橋を架けるには98,000ベルが必要になります

資金は募金形式で集められますが,自分で全額負担することも可能です.しかし,橋が公共財である以上,島民全員からの資金提供がされると社会的に望ましい感じがします.

そんなことを期待してある日,私の島に橋を架ける場所を決めました.私を含む島民は建設予定地の近くにいる「ハニワくん」に募金すれば,橋建設資金がたまっていく仕組みです.

私は島民の善意を期待して,約2日後にいくら建設資金がたまったか見てみました.すると,ハニワくんは残酷にも「371ベルたまりました」と教えてくれました.98,000ベルには程遠い金額です.

現在,私の島には6人の島民がいます.私が場所を決めたので私が多めに払うとしても,一人1万ベルをもらえれば,だいぶラクに建設できます.しかも,道具無しで対岸に渡ることができる,というメリットもあります.それでも,そのような「一人1万ベル出してもらう」という仕組みはうまく回ることは少ないでしょう.というのも,これは典型的な社会的ジレンマと呼ばれる構造になっているからです,

みんなから募金を募ると成功するのか?

今回の橋の建設資金を集める構造を整理しましょう.工事現場の確定は主人公である私が決めたので,不足分は6万ベルまで私が払うことにしましょう.それ以外は島民からの募金を募ることにします.

ここで,かりに一人1万ベル分の募金を島民から募ったとします.島民側から見ると,二つの選択肢があります.払うか,払わないかです.しかし,島民の立場に立てば,どちらの選択肢をとるかは明白です.島民の一人であるたぬきちになって考えてみましょう.

仮にほかの全員が払っているとしましょう.その場合,たぬきちにとっては,1万別を払っても払わなくても,橋は建設され,利益を享受できます.だとすれば,当然島民は1万ベルを払うことはありません

次に,ほかの島民が誰も払っていない場合を考えます.つまり,私が6万ベルを積んでおわり,のような状況です.この場合でも,たぬきちにとっては自分だけ1万ベル払っても何も変わりませんね.1万ベルを払ってもまだ9万8千ベルには届きません.なので,ここでも払っても払わなくても変わらないのであれば払わない,という先ほどと同じ理屈が適用されます.

最後に,あと一人の募金があれば,橋が架けられる状況を考えます.このとき,たぬきちは支払うでしょうか? これは,ケースバイケースです.というのも,橋を架けたことで1万ベル以上の利益が得られれば支払うからです.つまり,利益とコストを天秤にかけるわけです.

しかし,橋を架けたからと言って,劇的に得することは少ないでしょう.とくに,この『どうぶつの森』の世界では,棒高跳びで川を超えることができますから,得られる利益はあまり多くないかもしれません.また,橋がそもそも必要じゃないこともありますよね.以上のことから,たぬきちは1万ベルを募金する可能性は低いだろう,と考えることができます.

以上の理屈はなにもたぬきちだけに当てはまるわけではありません.島民全員に当てはまることです.要するに,募金を募ってもだれも払うインセンティブがありませんので,お金が集まることはないのです.島民全員がフリーライダーになろうとしてしまうので,何も起こらないのです.

これは合理的な選択の重なりによって起こったことです.しかし,結果として橋は架けられず,微妙な不便を引き続き共有することになってしまいました.全員が不幸な状態に陥ってしまったのです.このような状況を社会的ジレンマといいます.全員が協力すると,利益になる状況が実現するはずが,だれも協力することなく,全員が不幸になる,という形です.

共有地の悲劇

社会的ジレンマとしてよく取り上げられるのは共有地の悲劇と呼ばれています.次のようなシナリオを考えてみましょう.

二人の酪農家A, Bが,牧草地を共有しています.二人は牛を放牧して,その牛の肉を売って生計を立てています.今,二人は一頭ずつ飼っており,これは200万円で売れます.

ある日,酪農家Aが牛を一頭追加しました.牧草は一頭追加したところでさほど減ることはなくはありませんが,一頭当たり牛が食べられる牧草が減り,前よりわずかに痩せた牛になりました.その価値は190万円です.しかし,体重の減少はわずかなので,牛を増やした酪農家Aは二頭分弱の利益(2×190=380万円)を上げることに成功します.

もうひとりの酪農家Bは一方的に自分の牛の価値を下げられて(200万→190万)少し怒りますが,自分も同じことをすればよいことに気づきます.酪農家Bも牛を一頭増やします.牧草地はさらに消費され,牛はまた痩せますが(売値180万円),やはりわずかであり,こちらも二頭分弱の利益を得ます(2×180=360万円).

この二人の酪農家はどうなるでしょう? ポイントは利益構造です.相手が牛を増やすと,自分の利益が減りますが,自分も牛を増やすと,さらに痩せはしますがもう一頭分の利益が追加されます.その結果,牛を増やすほうがよい状況が生じます.彼らは利益が追加的に得られるギリギリまで牛を増やしますことになります.

しかし,その結果は牧草を牛が食い尽くし,次の年から全く牛が飼えなくなる状況が生じます.つまり,共倒れしてしまいます.これが共有地の悲劇です.共有地の悲劇は,牧草地という公共財を酷使した結果,当初よりも悪い状況が起きてしまいます.

社会的ジレンマを解決するには?

社会的ジレンマを解決する策はあるのでしょうか? いくつかありますが,そのうちの一つが,当事者間の緊密な関係によってコミュニティによる管理です.エリノア・オストロムはコミュニティによる補完的な管理によって,社会的ジレンマが回避されることを提唱し,ノーベル経済学賞を受賞しています.

ある意味で『どうぶつの森』で描かれているような小規模なコミュニティは,社会的ジレンマを回避する素地があるかもしれません.しかし,橋のベルを見る限り,それは望めそうにないでしょう(もちろんゲームの仕様上,仕方のないことですが).

この記事は次の本と論文を参考にしています.より深く学びたい場合にはぜひ読んでみてください.