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ブックレビュー「会って、話すこと。」

今週から新型コロナウイルスがついに季節性インフルエンザと同じ「5類」に移行し、法律に基づいて外出自粛の要請は無くなり、感染対策は個人に委ねられるようになった。

それと共にこれまで少しずつ回復基調にあった「人との出会い」が元に戻りつつある。昼食会や飲み会で私のカレンダーがポツポツ埋まり始めたし、ビジネス上でもこれまではオンラインのミーティングで済ませていた用件でも、対面でのミーティングを好むクライアントが増えてきた。

個人的には「節操無く元に戻るの?」という気もしないではないが、「人との出会い」も良い点があることは否定できない。対面好き達の勢いにここは流されたフリをする方が身のためだ。

振り返れば2020年の1月に中国で流行したのが始まりとすればもう3年以上が経っている。ただでさえ物忘れ力が加速しつつある今日この頃、もはや対面の作法は「どんなもんだったかなあ」と忘れてしまったような気もする。そもそも自分自身対人関係力があったとは思えない。

ということで2021年の9月に第一版が発行された「会って、話すこと。」という書籍を読んでみた。この前に「読みたいことを、書けばいい。」という本を書いたコンビ(コピーライターの田中泰延X編集者今野良介)による書籍だとのこと。

対話スタイルであることから、一瞥すると「軽い」印象があるかもしれないが、読み進めると、哲学的な本だな、というのが私の印象だ。また流石に言葉を商売とするだけあって、キーワードの選択やフレージングが繊細だ。

例えば、会話術の本には「聞き方が大事」とか「相手の言っている内容を理解する」とか「何言っているかわからなくても頑張る」というようなことが書いてあることが多いが、本書は「結局、人間は他人の話を聞きたくない」と従来の姿勢を完全に突き放す。

「わたしの話を聞いてもらわんければならない」と「あなたの話を聞かなければならない」を捨てると、相当楽になるのだ、という。一時流行った「聞く力」や「傾聴力」を磨こうと思っていた人にとっては相当な肩透かしである。

それではどうすれば良いのかというと、「わたしのことでも、あなたのことでもなく、外部のことを話そう」と言う。ある意味「どうでもいいことを話す」。そうすることで苦痛や喧嘩のタネは無くなるのだ、という。「関係ありそうな、なさそうなこと」を話そう、さらには「話を逸らす力が会話の力」なのだ、という。

私も関西人なので、「ボケ」、「オチ」、「ツッコミ」の世界に幼少の頃から馴染んできたが、著者は「「ボケ」は、いま目の前にある現実世界に対する、別の視点からの「仮説の提示」」なのだから、それに対してツッコむのでは無く、「ボケ」を肯定して「ボケ」を重ねる、すなわち「仮説に仮説を重なる」ことこそ日常会話のおもしろさなのだ、いやむしろ「ツッコミ」行為はマウンティング=「私は賢くて、お前はバカ」ということでしかない、という。

同様に相手を褒める行為も、マウンティングの一種だ、そして会話に結論とか「オチ」は要らない、という。「傾聴力」で薦められる相槌やまとめる行為こそウザいのだ。

また関西人が多用する「知らんけど」については、自己の発言に対する責任逃れでは無く、むしろ「無知の知」に自覚的で責任のある姿、賢者の姿だ、という。

「ボケ」に対する「ツッコミ」は、ある種「ボケ」に対するリスペクトだと思っていた私にとって、「ツッコミ」はマウンティング行為だという指摘は目から鱗ではあった。しかし確かに「ボケ」を「ツッコミ」で終わらせてしまうよりも、「ボケ」を微妙に変化させる新たな「ボケ」での返しは、その会話の発展性を広げる行為だというのはこれまでの経験からも納得できる。しかも「ボケ」での返しは、衝突や対立、相手を傷つけることも起こりえない

つまり、会話で人を傷つける行為や意見の押し付けである政治的な主張、は止めた方が良いということなのだ。そういうのは朝ナマにまかせておけばよい。

なるほど、これまでの人生を振り返ると、思いの外衝突したり、後味悪く終わった会話が多々あったが、それらの多くの場合自分の意見の押し付けや実質的に他人の意見に対する否定/評価行為であることが多かった。

そしてそれらの行為は、自分自身が不満を抱えていたり、不機嫌だったりすることから噴出することが多い。著者は「あなた自身が機嫌よくしていれば、あなたにとっての世界は機嫌がよいのだ」という。

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こういう対話を今までも実践してきた方にとっては、至極当たり前で、今更何?という感じなのかもしれない。

ただ、この本が哲学的だと思った理由が、たまたま昨日目にした「バカに悩まされ説教しようとするあなたもバカ「価値観の違う相手に方言で話すようなもの」」というマクシム・ロヴェールという作家・哲学者の記事だ。

そのポイントは「言葉でわかってもらおうとするのはやめよう。相手はわかりたいと思っていない」だった。まさに本書が冒頭で指摘する「結局、人間は他人の話を聞きたくない」と同じではないか。

それでも本書では「出会い」の効用として、「仕入れ」が他人と響き合い、わかりあえないまでも感じあうことはできる、そして「わたしたちが別々に生まれた」という事実を確認し合うからこそ、「他者」と出会い、共感し、連帯できる、のだという。

どうですか。哲学的でしょう。

所詮会話の話し手も聞き手も相手のことがわかりたく思わっておらず、むしろ相手の会話に対する判断はせずに、「ボケ」に「ボケ」を重ねる行為こそ「無知の知」であり、それでも違いを確認し合うことで、敬意を抱くことができれば、共感し、連帯できる。

そう考えると、私が過去とっていた対話スタイルについて反省すべき点は多々ある。まずは実践ですな。


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