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ブックレビュー 森本あんり著「「反知性主義」アメリカが生んだ「熱病」の正体」

本書の著者森本あんり氏は神学者、牧師で国際基督教大学教授であるとともに、あの小田嶋隆氏の小中高の同級生である。

先にnoteでご紹介した小田嶋氏の「超反知性主義入門」には二人の対談が掲載されている

今回最近小田嶋氏と岡氏の対談ものを連続して読んでいたことと、米大統領選が間近なことから、本書を読んでみることとした。

反知性主義の前提

米国のテレビの数多くのチャンネルを回すと必ずキリスト教の説教番組がいくつかある。広大なスタジアムでたくさんの聴衆を前に、まるでセールスマンのように笑みを浮かべる説教師(「テレバンジェリスト」)が、時には音楽を歌い、聴衆がその説教に魅了されるが映し出されている。

noteで紹介した米ローリング・ストーン誌のドキュメンタリーシリーズ『Rolling Stone : Stories From the Edge』のエピソード4でも、テレビ宣教師ジミー・スワガードから同誌が批判の標的となっていたが、その後ジミー自身が売春婦との性的スキャンダルによって失墜した様子が描かれていた。

四年に一度のアメリカ大統領選。この政治ショーにおける大衆動員と集団的熱狂もこれらテレバンジェリストのショーと酷似している。

これらの現象の背景にあるのが「信仰復興」(リバイバル)である。

アメリカ建国は元々「新しいイングランド」を創設すべく新世界に渡ったピューリタン、すなわちイギリス国教会に批判的なプロテスタントの一派が理想的な社会を建設することを目指したものである。

ハーバード大学は牧師養成の神学校として組織化されたものだが、そこでは神学よりも教養が重視され「教養ある紳士」を作ることを目指した。これはプロテスタントの「万人祭司制」、すなわちすべての信徒が自分で聖書を読み、自分で神のメッセージを受け止めることができることを目指した考えによる。

にもかかわらず米国で当初出来た教会では「高度に知的な」牧師のみが説教をしていた。それが18世紀の半ばに「信仰復興運動」(「大覚醒」、「リバイバル」とも呼ばれる)を契機に「高度に知的な」牧師たちが完全に否定される事件が起きる。「神の行商人」という説教師がリバイバル集会で大衆に熱狂を生む説教を行うことになったのだ。何よりも彼らの話は抜群に面白く、説得力があった

「高度に知的な」牧師たちは「神の行商人」たちに説教の資格は無い、と賢明に批判したが、「万人祭司制」を盾に「神の行商人」たちは自分たちを正当化する。

これらの根底には「人工的に築き上げられた高慢な知性」よりも「素朴で謙虚な無知」の方が尊い、すなわち「霊性より知性が重要だ」という価値づけへの激しい反対と言う背景がある。そしてこれが「反知性主義」を生むことになる。

反知性主義が育む平等の理念

反知性主義はまたラジカルな平等観に根付いている。神の前では、学のあるものも無いものも同じように尊い一つの人格である、とする。

しかし現実社会は、性別や人種、教育や階層、家族や生育環境などあらゆる格差に満ちている。まして国を比較すると平等はただの画に描いた餅でしかない。

このためキリスト教は長い間、人間はみな宗教的には平等だが、社会的な現実では不平等で良い、と考えた。ピューリタンも、こういった社会に嫌気がさして新大陸に来たが、自分たちが主流になると、まるで「学生時代は全共闘で鳴らしていたのに、就職して出世するといつの間にか体制派に変わっているオヤジのようになった。」

アメリカ的な政教分離

宗教改革で過激な左派と位置付けられた「(アナ)バプティスト」、当時過激だったクエーカーなど宗教的セクトに属する人々はとりわけ信仰に熱心だった。彼らと、一方とりたてて信仰熱心ではなかった建国の父祖であるジェファソンやマディソンは「政教分離」と「信教の自由」という点で利害が合致して、連邦憲法の「権利章典」に結実する。

この「政教分離」でのポイントは宗教的なエスタブリッシュメントに対する共通の反感である。ここで日本人が誤解してはいけないのは、彼らの「政教分離」は決して非宗教化を目指したものでは無く、あくまでも各人が信教の自由を謳歌できるように、公権力が特定の宗教と結びついてはいけない、というものである。

大きな政府への警戒心

セクト型の精神には、さらに地上の権力をすべて人間の罪のゆえしかたなく存在する必要悪と考え、常にそれに対する見張りと警戒を怠らない、というものがある。これが今の銃規制や健康保険制度の問題、同性婚容認の問題などの論争に通じている「大きな政府」への警戒感につながっている

さらにセクト型の宗教は、啓蒙主義的な個人主義や合理主義や懐疑主義とも相性がよい。どちらも地上の制度や組織を絶対視せず、自分自身の理性や信仰を唯一の判断の拠り所とするからだ。

これらを見るとアメリカと言う国家そのものが、「権力の終末論的な理解を前提とした特定の政治神学の産物」であると言える。

大衆リバイバリズム

19世紀のアメリカはそれまで東海岸のみだった国土が西部開拓で急激に広がっていく。それとともに勃興したのが第二次信仰復興運動だ。

特にこの時代に伸びたのがメソジストとバプテスト。メソジストは「監督制」と「巡回牧師制」という機動的なシステムで急成長。特に「巡回牧師制」は「自称」巡回説教者を正式に認めて採用することとなる。

バプティストには「巡回牧師」すらおらず、普通の開拓者農民がその成長に貢献した。メソジストを揶揄する表現に「読み書きできるバプティスト」という表現があるぐらいで、説教をする訓練や準備も無く、読み書きする暇も無い。しかもバプティストはメソジストの「監督制」のような中央集権的な権威を嫌う。彼らは自分で聖書を読み、自分でそれを解釈して信仰の確信を得る。神から直接与えられた信仰であるから、教会本部や本職の牧師といった権威を恐れない

ここに米国人の自尊心を高める起源とアメリカの民主主義精神の基盤がある。

反知性主義のヒーロー

さて間もなくその結果が出ることになる米大統領選。トランプとバイデン両大統領候補の戦いは米国の分断を象徴づけている。

しかしこういった米国の分断は決して新しいものでは無く、この本では19世紀の大統領であるジョン・クインシー・アダムズと彼を打倒する大統領アンドリュージャクソンを取り上げている。

アダムズは第二代大統領を父に持つ名家の出で、インテリ。国道や運河・港湾建設だけでなく、自らが世界の知的先進国であるフランスやロシアに追いつこうとアメリカの文芸発展に努力したが、大反対に遭う。「コスモポリタニズムはインテリには評判でも素朴な愛国心には訴えない。」ましてその文芸発展のための予算を連邦政府の税金でまかなおうとしたことから「知性と権力の結びつき」という反知性主義発動の要因を作ってしまった

アダムズは再選を果たせなかったが、リベラルなインテリであったことから、奴隷制の反対を突き通した。しかしこれも一般大衆には受けが悪かった。

対するジャクソンはあからさまに先住民追放政策をとる。さらに当時の大統領選挙の選挙人が一般投票で選ばれていたことから、大衆を魅了するために演説会やパレード、果てはバーベキュー大会まで開き、一般大衆を誘いだした

昨今の大統領選でも良く見られる双方陣営の「ネガティブキャンペーン」を経た結果は、現職アダムスが敗北、ジャクソンの大勝利だった。ジャクソンは南部と西部を制し、アダムスは伝統的なインテリの集まる北部の一角を制したのみだった。

そしてこれが保守的な富裕層の支配する貴族主義からジャクソン的な民主主義への移行の始まりとなった。「ジェントルマンの凋落」であり、時代の要請は「下層階級の人びとの好奇心を刺激し、享楽の欲望を満たし、支持をとりつけるために低俗で野卑なものを提供すること」となった。

キリスト教のヒーローたち

この本では他にもリバイバル運動を何度も復興するキリスト教のヒーローたちが紹介される。チャールズ・フィニー、ドワイト・ムーディー、ビリー・サンデー、ジョエル・オースティン等である。

アメリカ国家の特徴であるプラグマティズム、リバイバルは奇跡ではなく「覚醒」であるという主張(フィーニー)、独立系教会、「同じ客に同じ商品を何度でも売ることができる」成長ビジネスとしてのリバイバル宗教の娯楽化(ムーディー)、ショービジネス化ナショナリズムへの傾倒、宗教と道徳の同一視(サンデー)。こういった今の米国でも見られる「らしい」考え方をこれらのリーダーたちが国民に根付かせてきた様子が語られている。

反知性主義とは何か

著者は「知性」(Intellect)と「知能」(Intelligence)の違いを「知性」は人間だけが持つ能力とし、「知性」とは単に何かを理解したり分析したりする能力ではなく、自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、としている。

例えば最近の大学生が本を読まないとか、低俗なテレビ番組ばかりを見ているから「反知性」なのでは無く、知性の「ふりかえり」が欠如しているから「反知性」だ、とする。すなわち自分の権威を不当に拡大利用していないか、を敏感にチェックしようというのが「反知性」なのだ。

それではなぜアメリカでは反知性主義が先鋭化したのか?著者は次のようにまとめる。

・アメリカは中世なき近代であり、宗教改革なきプロテスタンディズムであり、王や貴族の時代を飛び越えていきなり共和制になった国
伝統的な権威構造が欠落した社会では、知識人の果たす役割も突出していた
他の国で知識人が果たしてきた(相手の振る舞いをチェックするという)役割を、アメリカでは反知性主義が果たしてきた
・アメリカでは、一方では欲望全開で何でもありのフロンティア社会であり、かつ同時に禁欲的で厳格な法律をもったお上品の
・だからアメリカでは、敬虔が道徳主義に道を譲り、神学が倫理学に従う。その結果、妥協を是とする政治が道徳の極端性を帯び、政治が道徳化してしまった
どんな学問のどんな権威も「ぶっとばす」ことができる。その拠り所を提供しているのが、宗教的に基礎づけられたラディカルな平等主義である。

そして今このアメリカ的なリバイバルという宗教現象はアジアやラテンアメリカに飛び火している。まるでマクドナルドやスターバックスのように。

あとがきで著者は日本で反知性主義を担うのはどんな人だろうか、とし、「批判すべき当の秩序とはどこか別のところに自分の足場もってい」る人として小田嶋氏の名前を挙げている

そして知性と権力との固定的な結びつきに楔を打ち込むには、まずは相手に負けないだけの優れた知性が必要で、それと同時に自分に対する根本的な確信の根拠を得ていなければならない、と締めくくっている。




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