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もっとコンサマトリーに生きろ

こんちは、かわこうです。
尾石晴さんの最近のVoicyのネタをお借りします。

コンサマトリー」聞いたことありますか?
僕は今回始めてこの言葉を知りました。

「コンサマトリー」とはアメリカの社会学者タルコット・パーソンズによる造語。「それ自体を目的とした」「自己充足的」を意味し、社会学の分野で使用されてきた。

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対義語は「インストゥルメンタル」。道具的という意味です。

「コンサマトリー」はその行為自体を目的としたものです。例えば、大学で純粋にこの学問を学びたいから大学に入学するといったこと。
「インストゥルメンタル」は何かその先の目的があってそれを達成するための行為なので、“看護師の資格を取りたいから”○○大学医学部に入学するということ。

みなさんの生活に、コンサマトリーな活動、つまり自己充足的な活動がどの程度の割合になっていますか?

現代は極めて「インストゥルメンタル」優位な空気になっていると感じます。何かの行為に過度に意味が求められるような気がするんです。
何かをやろうとすると、「何のために?」とか「意味ある?」とか、嘲笑される空気ってありませんか?

おそらく学校教育の中で、そういう感覚がみんなに染み付いてしまったのではないかと考えています。
特に僕は私立の中高一貫校に行ったので、中学に入学した途端に大学入試を意識させられます。
それから6年間の学習は全て大学受験のために勉強するというものです。
純粋に自己充足的な学びをした感覚はありません。

部活も勝利至上主義みたいなもので、勝つためにあらゆる手段を尽くすという感じです。
そのスポーツそのものを楽しむという感覚は全く分かりませんでした。

現代では「インストゥルメンタル」な生き方が功を奏する場面が多くあるのは分かります。なので、全てをコンサマトリーにできるわけではないんですが、それではまさに機械的、AI的で、人間として生きている意味があるのかというところまで疑問になってきます。

おそらく「インストゥルメンタル」な行為はAIが得意です。今後進化するAIに「インストゥルメンタル」な行為で人間は勝てないでしょう。
しかし、「コンサマトリー」な生き方というのは、AIにはできません。心がないので、自己充足という概念もないでしょう。AIは人間が作り出した何かの目的を達成するための道具なので、AIが自己充足したってしょうがないんです。
AIを極限まで人間に近づけようと努力したとして、AIに自己充足のプログラムを組み込んだとしても、「AIを人間に近づけよう」という目的があるので、やはりそれ自体「インストゥルメンタル」になってしまいます。

自己を充足することは人生の幸福につながります。趣味や個人的な活動、ライフワークといった類のものにはこのコンサマトリーさの要素が多く含まれていると思います。

僕は筋トレを続けて3年ぐらいになります。
はじめはガリガリな自分の身体を変えたいという目的で始めて、「インストゥルメンタル」的な行為で始めましたが、だんだんと、どういうフォームであれば対象の筋肉に刺激を与えられるか、持ち上げられる重量を伸ばしたいといったコンサマトリーな行為に移り変わっていきました。

ボイトレにも似たようなことを感じて、始めはスナックやカラオケでうまく歌いたいという目的で始めたものの、だんだんと練習の時に自分が思った通りの声の出し方ができるかどうかとか、技術が向上していくことを純粋に楽しめるような感じになっていきました。

おそらく、「インストゥルメンタル」なモチベーションだけでは、趣味や個人的な活動は続かないんだと思います。

ヨガスクールに入会した時は、明らかに「男性のヨガインストラクターになったらどうかな」という気持ちが強く、ヨガ自体を楽しむ姿勢ではありませんでした。2ヶ月ともちませんでした
心理系の通信制の大学に入学した時も、「心理系の資格が取れたら良いかな」という感じで、その学び自体を楽しもうという姿勢ではありませんでした。こちらも3ヶ月ほどで挫折

筋トレやボイトレなど、自己充足的な活動を続けていると、やはり幸福度が上がる感じがしますし、今こうやって振り返って、自分は自己充足できているんだということがまた幸福度を上げます。

20代の頃の自分を考えると、コンサマトリーな活動をするというのは簡単ではないと思います。
が、人生においてとても重要な概念だと思いますので、是非意識してみてください。

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