自由なまま綴る自己紹介②
前回は、上京するまでの自己の歩みを記事にしたが、当時を思い出しながら綴っているうちにこれが過去の自分への拒否反応なのか思うほど気分が沈んだ。
でも、残しておきたい。共感という言葉を使うのは恐れ多いが、読んだ人がほんのちょっとでも「ああ、分かる」「そんな時もあるよね」と思ってくれるような文を綴りたい。
下記から、上京してからの自己の歩みを紹介していこうと思う。
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上京といっても、職場は東京だが住んだ街は埼玉県蕨市であった。
今まで自己と向き合う事を避けてきた自由人である私は、上京してからの転職先は事務職についた。理由は「色々と無難だから」である。
夢も希望もなく上京した私にとっては唯一無二な仕事なのではないか。唯一無二という言葉がこんな使われ方をされるとは思っていなかっただろう。
ただ、事務職といっても保育園の事務だった。
子どもが苦手なはずなのに、当時は「まあいいか」と身勝手な気持ちで履歴書を送った自分が怖い。それだけ自分と向き合ってこなかったという事である。
だが、そんな環境に身を置いた事が、後から人生の分岐点となり、自由とは残酷だったと痛感し、生まれ変わろうと決意せざるおえない人生へと繋がったのであった。
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正直に綴る。この保育園の事務の仕事はとんでもなかった。誤解を恐れず表現するならば、現場には居ない上司に
「給料はあげるから、とりあえず自分で考えて仕事をしてね。僕は何も教えてあげられないから、とりあえず現場の園長先生に聞いてね。彼女も忙しいだろうけどね。」
といった感じであった。
あまり、思い出したくない過去である。
当時の上司である人への嫌悪感。50人はいる子ども達の命を守る事は勿論、それに加え最終的に現場の保育士さんの責任もとらねばならない立場な上に、身勝手に入ってきた新人事務員の育成をしなければならない園長先生の逃げ場がない環境。
当時、一緒に入った年齢が1つ上の同期は、3ヶ月足らずで精神が参り、私以外には告げずに無断退職をした。
その子とは、休憩時間に保育園の誰も立ち寄らない3階の階段に座りながら「ここの環境はやばい」と口にしながら、2人で泣きそうになっていた。
無断退職をした同期からは、当日に急にLINEが来たのだ。
「辞める、もう無理、ごめんね。」
痛々しく心に刺さった。正直、彼女の辛さは同期である私が一番良く理解していたからこそ、彼女を許そうと思った。
その後の事は、もう綴る事さえ苦しいので省こうと思う。
同期が辞め、私はどうなったかというと、無心で事務職を続けながらも当時の園長先生になんと、こんな言葉を口にしていた。
「わたし、保育士になりたいです。」
それは、環境が最悪だった事務職に就いている自分から逃げたかったのではなく、また新たな感情の芽生えであった。
その言葉を園長に告げた時に、自分を残酷だと思った。
今まで、夢や希望もなく自由に生きてきた
今まで、何となくで身勝手に歩んできた
今まで、自分と向き合う事を避けてきた
今まで、人や環境のせいにしていた
今までの自分とは、何だったのか
だからこそ、これといった実績がない
だからこそ、これといった取り柄がない
だからこそ、自分が何者か分からない
だからこそ、自分から動く事が怖い
何かを始めようと思った時に気づいた
自分には、何もなかった。
今まで自由に生きてきた事を残酷に思った。
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ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
要所で急に話がぶっ飛んでしまい申し訳ありませんでした。
次の記事では、なぜ私が保育士になりたいと思ったのか、そして現在に至るまで綴れたら良いなと思っております。
ああ、言葉にするって楽しい。だけど自分の事となるとちょっと怖い。
また次回お会いできますように。
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