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最高の逃避行

いつかの最高の逃避行を、フィクションとノンフィクションを織り交ぜてお届け。
自分のために、大事な思い出の備忘録として。


土曜日の夜。
退勤後、息もつかずに急いで泊まりの支度する。
最低限の荷物を準備したあと、ふと思い出して彼がくれたお揃いのふざけたTシャツをリュックに詰め込む。急いで電車に乗らなきゃいけないのに、お気に入りのブラウスやらイヤリングやら、なくてもいいのについついカバンに入れたくなる。

最寄りの単線電車は真っ暗な田んぼの景色の中で幻想的に光りながらホームに滑り込んでくる。車内はガラガラで遊びに行った帰りみたいな中学生だか高校生だかわからない男子の集団と、カップルがまばらにいるだけだ。
イヤホンを耳に押し込むと、疲れて空っぽの体に音楽が鳴り響く。まるで、冬休みにがらんどうの教室でたくさん歌をうたった時みたいだ。

彼が好きなお菓子とおにぎりを買って、登りの新幹線のホーム目掛けて駆け上がる。
わたしはいつも、新幹線のホームに来るとどうしてか気持ちがしゃんとする。

ホームに電車が滑り込んでくる。
終電の電車はなんだかある種の一体感を感じるのだが、一本二本早い電車にはないから不思議だ。

駅に着いて彼の姿を探す。なぜか警官2人のとなりに立っていて困惑する。お茶目な彼は、警官のことをいつもポリスメンと呼ぶ。

手を繋いで歩き出す。街灯の少ない田舎に住んでいるため普段夜に出歩くことはないから、新鮮な気持ちがする。
わたし、夜に街を歩くのが好きだったみたい。

彼のお家に着いた。
彼の匂いの染み込んだ部屋。懐かしい。
わたしの高校のジャージを引っ張り出してきてもらい、着替える。お揃いのふざけたTシャツを持ってきたことを伝えると、嬉しそうにしていた。持ってきてよかった。退勤後15分で家を出たのに忘れなかった私よ、ファインプレー。

ぐつぐつ煮える鍋の音に覗きに行くと、赤いソースの中でツヤツヤ光る緑が見えた。
私が以前羨ましがっていたピーマンの肉詰めを作ってくれた。
嬉しくて、思わずグツグツ言ってるのを動画で撮ってしまう。こういうよくわからん動画がiCloudの容量を逼迫するというのに、性懲りも無く撮りたくなる。
レタスをちぎって盛り付けるといったささやかなお手伝いをする。早く食べたくて、いそいそとお皿を机に持っていく。

なんと食後にはイチゴのチョコムースが。
ザクザクのタルトが美味しすぎて舌鼓を打つ。
どうしよう、きっとわたしはここから帰りたくなくなる。

いちごの断面が綺麗すぎる。

歯を磨いてくっついて眠る。
たくさんお話ししたいのに、まぶたは重くて幸せなまま眠りについた。

日曜日。

あまりにも暑くて思わず布団を飛び出し、ソファーに転がり出てエアコンの温度を下げる。
体温の低いわたしにとって、寝ている彼は非常に暑いのだ。

そうこうしているうちに寒くなり、また彼の隣に戻る。
この人は朝全然起きない。うっすら起きたかと思えばわたしを抱き枕のように抱え直して、すぐに寝息を立てる。
暑くて苦しくて抜け出したいのに、このままでいたい。変な気持ち。恋愛してるときは、ずっとこんな気持ちだ。江國香織さんの『じゃこじゃこのビスケット』に主人公が高校生の時にデートで初めて男の子と手を繋ぐシーンがある。このとき描かれている、手を離したいけど離したくないという感情と、きっと似ている。ようやく目覚めてきた彼と何度も何度もキスをする。

お腹が空いてご飯の用意をする。
わたしが持ってきた高級な鰹の柵を切る。彼の冷蔵庫の海鮮のキムチも出す。
鰹はムッチリとして濃厚な脂があり、甘い刺身醤油がよく合った。鰹はポン酢だと思っていたが、この鰹はとても濃厚で、醤油のほうが鰹とがっぷり組めている印象があり美味しかった。
コリコリした食感と、甘辛い唐辛子が絶妙な海鮮のキムチも抜群にご飯にあった。
わたしと彼は、最高に食の好みが合う。ここまで合う人はいない。

昨日の晩御飯も彼が作ってくれたので、わたしは洗い物をする。
その間に彼はお風呂をためてくれる。2人で入るのにぴったりなお湯の量で。

ねぇ、アイス食べない?と湯船の中でとつぜん提案してみた。
彼がビスケットサンドを冷凍庫から出してきて、アイスを手に持って自分の口とわたしの口に代わる代わる運んでくれる。
ふと映画『花束みたいな恋をした』を思い出して、なんかこの状況はエモエモ系の映画になるよ花束みたいな、と言った。彼は、オダギリジョーみたいなオダギリジョーにほだされるやつね、と笑った。

着替えて散歩に出ることにした。
外に出ると、夕方の外気の匂いが気持ちよかった。わたしは日曜日の夕方の気だるい感じがとても好きだ。

和菓子屋さんを見つけて、覗く。わらび餅とお煎餅を買う。お店の前にベンチがあり、そこでわらび餅を食べていくことにした。ところがそのベンチは商品を並べるものだったらしく、ここで食べて行かれる方は初めて!と言われてしまう。それをきっかけに、とってもチャーミングな店主さんと和気藹々と話をする。
彼と一緒にいると、お店の人や居合わせた人と仲良く喋る機会が多い。

そのまま隅田川に向かう。
さらに荒川まで足を伸ばす。
荒川沿いは、くつろぐ人々でいっぱいだった。
歩きながら普段の悩みなどもぽろんとこぼしてしまう。グラデーションになった空と、5月の風が気持ちいい。

大好きなグラデーションの空

一緒にスーパーに寄る。
今日は、私が鯵の南蛮漬けと、きゅうりの梅しそわかめ和えと、ホタテフライを作ることにした。
帰りにコンビニに寄ってゼクシィを買う。あまりの分厚さと重さにケラケラ笑いながら、日暮れた住宅街を歩いて帰った。

月曜日。
支度をして、会社に行く彼と一緒に出かける。
地下鉄はすごい人で、都会だなぁと思う。
お昼一緒に食べようよ、という彼の提案で、わたしは彼の会社の近くで午前中を過ごすことにした。

偶然通りかかったお洒落なパン屋さんに入る。
パンオショコラがあまりにも美味しかったので、彼にお土産で買う。とても美味しいものを見つけたときは、大事な人に思わず買って帰りたくなるのだ。

パン・オ・ショコラ

ゆるゆると散歩する。初夏の東京。
皇居の公園はあいにく閉まっていたので、周りを散歩することにした。高木正勝さんのピアノを聴きながら歩く。高木正勝さんのピアノを聴くと、フワッと外界から膜のように護られる感覚がある。不思議。

会社のところまで戻ってきた。
なんとなく坂を下ると、コーヒーショップがあった。冷たくて香ばしいコーヒーを飲みながら彼の昼休みを待つ。

ナスの冷やし刀削麺

めちゃくちゃ美味しい冷やし刀削麺を食べた。
さっと火を通した茄子と酸っぱくて辛いタレが麺に絡む。パクチーの爽やかな香りも絶妙だ。彼と一緒にいると、偶然入ったお店が大当たりすることが多い。なんでも美味しい美味しいって食べた記憶が多い。

彼の昼休みと共に、最高の逃避行は終わりを迎える。いつもなら盛大に名残惜しめるのに。
刀削麺をたっぷり食べたからトイレに行きたくなったけど、あとちょっとしかいられないんだから我慢して!と彼に言われる。ふと、穂村弘さんの短歌で、彼の隣にずっといたくてトイレを我慢しすぎて膀胱炎になる短歌があったなぁと思い出してその話をしてケラケラ笑う。
最後まで笑って過ごせて、幸せなまま帰路に着いた。

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