フィリピン滞在記4〜PRAY FOR ALL WHO DIED HERE
注:記事は2016年8月のものです。
ケソン市を出てから約2時間。ついにボソボソの慰霊碑に辿り着いた。
山間の小さな村というか、集落のような所の更に奥に分け入った所にそれはあった。
未舗装の道路の脇、生い茂った木々に隠されるようにある石段。
下から崩れ始めている。
しな垂れた枝をかき分けて階段を登る。
雨(というか湿気?)と泥と朽ちた葉で足元を取られそうだ。
高齢の方、足の不自由な方、サンダルやハイヒール等ではちょっと無理か・・・?
二、三十段登ったら視界が少し開け、これまた朽ちた鉄柵。
あった。すぐ先に見えた!
あれが慰霊碑だ。事前に調べてた画像と同じだ!
思ったより状態は悪くなさそうだ。
(※先に着いた社長親族の方が一旦花を置いてます)
すぐ後から登って来て。木村社長「ああ、これだね。」
わし「はい、これです!」
木村社長「よし、ちょっと掃除しよう!」と。
流石、段取り抜群です。
現地の人に頼み、ナタで生い茂る枝や木々をまず切ってもらい
その後、一緒に草をむしり、ほうきで掃きます。
30分ほと掃除したでしょうか。
社長が花、お酒(日本酒一升瓶)、お茶(おーいお茶)、ロウソク(クリスチャン式のデカいやつ)、線香(中華式の長いやつ)を持ってきてくれました。
・・・ここでようやく自分の失態に気がつく・・・
「しまった!自分の祖父ことばっかり考えてて何にも用意してなかった!」
わし「社長、すみません!自分何にも用意してなくて。気が利かなくて!」
木村社長「いやー、何をおっしゃる。こういうのは日本人としみんなでお参りせんとな。それにほら、横に書いたるわ。日本人だけでなくフィリピン・アメリカ全ての人の為に、て。そやから、ここに居るみんな関係あることやで。(^∇^)」
どこまでもカッコいい社長。どこまでも不甲斐ないわし!( ノД`)
お酒、お茶をお供えし、ロウソクを立て、線香を燃やす。
そして。。。
今回、自分勝手と言われようが、思い込みと笑われようが、どうしてもやろうと決めてたことを実行する。
「死亡診断書、履歴書、戦況報告、等々」
入手できた全ての書類のコピーをここで燃やす。
そして「無念」のうちに死んだ祖父を祈り、無事帰国して祖母と母(残された者達)に報告して長い長い戦後に終止符を打つ。
それが今回の旅の一番の目的、、、いや唯一の目的か・・・。
一旦書類を広げた後、また封筒にしまい、火をつけ、燃えていくのをしばらく眺めていた。
燃え尽きる前に祈ろうとしたのだが・・・・・。
慰霊碑にはこうある。
「ここBosobsoの地域で戦没された日本人・フィリピン・アメリカ全ての人々が怨親なく平等に安らかな永遠の眠りにつかれることを祈ります」
と。
さて、困ったな。心に何にも浮かんでこないぞ。何をしたらいいんだ?
祈る?、祈るのか??一体全体、誰の何を祈ればいいんだ?
家族を残して死んだ祖父の「無念」にか?若くして亡くなった兵隊さん?
巻き添えになった現地住民?遠い極東の地で亡くなった米兵にか?・・・
ここ最近は近隣の開発に伴い立派な国道を通そうとしてるらしいが、
自分の目に映るの景色はまさにジャングル!!
今日刈った枝や草は来年には、、、いや数ヶ月もしたらまた鬱蒼とするだろう。
南洋のタフな植物にあっという間に飲み込まれて来訪者の目からここを隠してしまう。
住民やこの慰霊碑建立の方に悪いのは重々承知の上だが、、、
こんな山奥にひっそりと慰霊されて、誰が安らかに眠れるんだ!
掃除してるときから堪えていた涙が遂に溢れてきた。
爺さんかわいそうなのか?悔しかっただろうなのか?無念だろうなのか?・・・。
はたまた、自分が社長にここまで連れてきてもらった感謝なのか。
もう何がなんだか皆目見当つかなくなっていた。
とにかく今できること、日本を出る前に決めた自分勝手な儀式をする。
それがいいのか悪いのかは解らない。
ひとしきり終わるのに10分くらいかかっただろうか。
火が消える頃、この妙な手順をジッと待ってくれていた皆さんに声をかけ
わし「ありがとうございました、気が済みました。」みたいなことを言ったと思うがあまり覚えていない。
社長は黙って何も言わずただただじっと待っててくれて
木村社長「うん、ほな行こか・・・。」
ご高齢の方々が多いし、膝が悪い方も居るし、足元が滑るし、なのでゆっくりとみんなで階段を降り慰霊碑を後にした。
奥様「地元の子供らにチョコをあげていい?」(わしが手土産にした日本のチョコです)
わし「はい、もちろんです!どうぞどうぞ!!」
何だかよくわからないけどチョコをもらえた子供達は「Thank you,sir !!」と笑っていた。
爽快とまではいかないが、気分は少しだけ晴れてきた。(気がした)
※写真は草刈りを手伝ってくれた地元キッズ達