消防士を辞めた僕が防災を発信する理由

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はじめに

すずけん(@K_purotect_you)です。
44歳、独身です(いろいろありました…)

このnoteを書こうと思ったのは、東日本大震災から8年を迎える今、Twitterで防災を発信する理由について、お話ししておきたいと思ったからです。

約5000文字くらいありますので、お時間のある時にでも。

僕についてと、消防士のことを少し

僕が消防士になったのは1994年のことでした。目指したきっかけは高校の同級生と話した「消防士ってかっこいいよね」という安易な理由です。

半年間の消防学校での教育を終え、現場に配属されたのは同年10月。
毎日の厳しい訓練と、覚えなきゃいけない法律の勉強で少し疲れが出てきた、翌年1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。

テレビに映し出される壮絶な被害、倒壊した建物、火災、、、新人消防士だった僕は被災地に派遣されることもなく、消防車に乗って出発していく先輩たちを見送り、ただテレビ報道を眺めることしかできなかった。

そして帰隊した先輩から、被害の実際、救助の難しさ、助けられなかったことへの悔しさを伝えられ、

「ああ、自分の仕事はこういうことなんだ。必ず発生する次の大災害で自分がたくさんの人を救助するんだ」

と、自分が選んだ仕事の重要さ、やりがい、使命感を強く持ったことを覚えています。

阪神淡路大震災の犠牲者は6000人以上。その多くが1時間以内に亡くなっており、原因は圧死(建物倒壊による)でした。

そこから、全国の消防では、倒壊建物からの救助を主眼として、海外で採用されている救助方法などをどんどん取り入れ、この救出スキルを磨くことになります。

ところで消防士は、警防隊員(いわゆる火消し)の他に、救助隊員、救急隊員と、専任制になっているところも多いです。

また、消防の仕事は人命救助が主な仕事です。

消防法第一条 
この法律は、火災を予防し、警戒し及び鎮圧し、国民の生命、身体及び財産を火災から保護するとともに、火災又は地震等の災害による被害を軽減するほか、災害等による傷病者の搬送を適切に行い、もつて安寧秩序を保持し、社会公共の福祉の増進に資することを目的とする。

言葉の選び方がちょっと難しいですが、あえて言うと生きている人を助けるのが仕事なのです。

例えば、火災現場で焼死体を発見すると、現場を保存し(ご遺体は動かさない)警察に引き継ぐという感じです。

そうして、僕も救助隊員、救急隊員の研修を受け、救助隊員に任命され、訓練を重ね、火災や交通事故などの様々な日常的な災害に出動し、経験を積んでいきました。

救助隊は火災現場ではホースを携えて燃えている家の中に進入し、火を消しながら進み(炎の中に飛び込むと言うのは誤解です)、中に要救助者を見つければ助け出す。
交通事故などでは、油圧の救助器具などを駆使して、つぶれた車に隙間を作り、挟まって動けなくなった人を助け出す。
そんな仕事です。

東日本大震災

そんな生活が17年続き、自分のスキルにも自信がつき、(不謹慎ですが)「いつ大地震が来ても俺たちのチームで全員助けてやるぜ」などど軽口を叩いていた、2011年3月11日2時46分東北地方太平洋沖地震(東日本大震災の地震の名前です)が発生します。

その瞬間は、消防署の敷地内で新人機関員(消防車の運転手のこと)の訓練を指導していました。

突然の大きな揺れ、そして、なかなか収まらない長い揺れ。
約190秒間
の揺れの間に、駐車場の自分たちの車は飛び跳ね、隣地の倉庫では何か大きなものが壁に打ち付けられるゴーンゴーンという音が響き、僕が立っていた地面のアスファルトが何か柔らかいもののように波打ち、足の間には地割れが走りました。

僕らはといえば、立っているのがやっとの揺れの中「これは…まずいな…」「震災来たんじゃね」「マジかー、何日帰れないんだ」と会話をするほど、気持ちには余裕があり、収まった瞬間にある者は車庫から消防車を出すため、ある者は出動態勢を整えるため、それぞれの担当の仕事をするため走り出しました。

全員が、自分のするべきことを認識し、冷静にその行動ができた。

後から考えれば、これが訓練の成果なのだと思います。

直後から119が大量に入り、「エレベーターに閉じ込められた」「家電量販店の3階に従業員が取り残されている」などの指令で続々と消防車が出動していきました。

僕がいた地域では建物倒壊はゼロで、余震でなかなか作業が進まないとはいえ、震災の被害としては少し拍子抜けという感じすら漂う状況でした。

津波警報は地震発生から3分後の14時49分に発令されていますが、正直なところ、災害指令は放送されるものの、警報などはFAXで届く仕組みだったので、地震発生直後に出動した僕たちはそれを知らないまま内陸部で救助活動を行う状態でした。

そして、怪我人のいない数件の救助を完了させ消防署に戻る途中、無線で津波の内容を聞くことになります。

津波

消防署に着くと、「巨大な津波が沿岸部に到達」「数百人が○○海岸付近に浮いている」「○○地区は全て水没」との消防ヘリからの無線と、テレビに映し出される、逃げ惑う人々、渋滞の車の列、そして津波に飲み込まれる映像…

血の気が引いた、という表現はあまりにも軽すぎる、まさに言葉にならない気持ちでした。
発災時点での心の余裕はどこかに消え去り、未経験の救助活動が始まる、という緊張から身体がガタガタ震えていました。
後輩に「すずけんさん、自分怖いです」と言われましたが、震える声で「大丈夫だよ、このために訓練してきたんじゃん」と強がってみたものの、僕の恐怖も伝わっていただろうと思います。

地震発生後、約30分から1時間の間に津波が到達し、街を飲み込んだ。

その時点で、119は数百件、最終的には数千件と膨れ上がっていく状況。(それまでの一日の平均通報件数の100倍以上の通報数)

「今、電柱に捕まっている」

「屋根の上にいる」

「学校の屋上にいるがもうすぐ水が来る」

そんな通報が、山のように入っているにも関わらず、消防署の壁一面に張られている大きな管内地図には、「浸水により到達不能」という付箋が数え切れないほど張られていく。

非常召集で集まってきた非番の署員も含めて160人以上がいても、装備も機材も足りず、助けに行けない。

あれだけ準備をしてきたのに。
建物から助け出すことに関しては完璧に近いほど訓練をしてきたのに。
17年もこの瞬間のために頑張ってきたのに。
助けにすら行けない。

圧倒的な無力感でした。

そんな思いを抱えながらも、内陸部からの通報に対応して出動を繰り返し、気がついたら朝になっていました。

余談ですが、大規模災害時、無線や119の内容は自分の管内のみに限定されます。
他の地域での被害状況はまったくわからない状態です。
発災時、妻は隣の区の会社に、3歳になる娘はさらに隣の区の保育園にいました。
内陸部であることで津波の影響はありませんが、当時は自分も出動で忙しく、安否がわからないままの現場活動でした。

時々、ふと家族のことが思い浮かび、不安で押し潰されそうになりますが「消防士と結婚するということは、いざという時にそばにいて助けてあげられない」こと、そのために、非常時の備えについて話し合っていたことを信じて、不安を振り払うしかありませんでした。

3月12日

「夜明けとともに、浸水地域へ救助に向かう」との指示で、行けるところまで消防車で、そこからは徒歩で救助に向かいました。

押し流された住宅の山、寸断された道路、積み重なった車の数々。

そこに街があったとは、とても思えない壮絶な風景でした。

最初に救出したのは建物の2階で難を逃れたおじいさんでしたが、助けることができた人のことはなぜかその一件しか覚えていないません。

実際には、自衛隊のヘリは夜中にも救助していたし、消防ヘリも夜明けとともに飛び立ち、何人もの人を助けることができています。
他の隊でも沢山救助した。

でも、助けた人のことを覚えていないんです。

おじいさんを救出した後に付近を検索していると、津波に押し流されてフロントを下にして直立している車を発見、近づいていくとシートベルトにぶら下がっているご遺体を見つけ(それが僕の発見した最初のご遺体)、僕が抱きかかえ、別の隊員にベルトを切ってもらい、遺体袋に入れ、その場に横たわってもらい、すぐに警察に連絡をして、引き継ぐ。

その繰り返しです。

一日中泥の中を進み、重いご遺体を運び、津波警報のたびに活動を中断して約20キロの装備を身につけたまま走って避難する、を繰り返し日没を迎え消防署に戻った時には、発災から一睡もしていなかったので流石に疲労困憊でした。

もう、無理かも。

これまでの日常の災害現場で弱音など吐いたことのなかった僕ですが、情けないことに、途方もない広い範囲での遺体捜索に疲れ切っていました。

そんな時、2つの印象的な出来事がありました。

ひとつは、署長からの訓示。
「我々の仕事は人命救助です。今、やっていることはそうではない。本来の我々の任務とは違う、苦しい仕事だと思う。ただ、私は人の尊厳を守ることも我々の仕事だと思うが、みんなはどうだろうか」

この言葉がなかったら、それから数ヶ月続く遺体捜索の仕事はできなかったかもしれない。

もうひとつは、緊急消防援助隊の車列が僕の消防署に到着したこと。

数十台の消防車が、サイレンを鳴らし応援に駆けつけてくれたこと。

これを見た時には、涙が止まりませんでした。

上に書いた、もう無理かも。という気持ちは消え去っていました。

ちなみに、阪神・淡路大震災後に発足した全国緊急消防援助隊は、各県の消防本部から選抜チームを組織し災害発生地に向けて応援隊を派遣するという仕組みですが、北海道から沖縄までの全隊が出動したのは東日本大震災が初めての事例となりました。

そこからは、市内の消防署(内陸管轄)から応援隊を編成し、浸水地域への対応を開始したので、3交代制になり、体は少し楽になった感じでした。

そして、2週間ほど経ち、4時間だけの一時帰宅が認められ、自宅に戻れることになりました。
妻はエステサロンの店長だったので、まずお店に行きシャワーを浴び(お店の場所はなぜか使えた。よく覚えていない)、久しぶりに3歳の娘とも対面して、号泣してしまいました。
娘はキョトンとしていて、僕の頭をよしよしとしてくれました(笑)

ここから僕は捜索活動を2ヶ月ほど行うのですが、上記に書いたことの繰り返しなので、割愛します。(なお、捜索活動はその後も続きます)

ただ、ある現場に毎日来ていた30代くらいの女性のことは今でも鮮明に覚えています。

「ここに娘がいるはずなんです。見つかりますか?」

これには、なんとか絞り出して「全力を尽くします」と応えるのが精一杯でした。(そこからご遺体は見つからなかった)

異動

本来4月の異動が1カ月延長され、5月に僕は内陸の消防署に異動になりました。

内陸部では大きな被害がなく、町内会での講演で津波区域での活動をスライド付きでお話ししたところ、そういう話はちょっと…と、あまりリアルな話をしないでほしいと言われたりしました。

また、60代の方に「津波は大変だったみたいだけど、この辺はなんともないから。あとは死ぬまで来ないだろうしね!」と笑顔で言われたことは、同じ市内なのにこの温度差はなんなんだと、少し悲しくなりました。

退職

その後は、津波区域の管轄署に戻ることなく4年ほど消防士として働いていましたが、様々な理由があり、退職をしました。
ひとつだけお話すると、適応障害の診断を受けたことが大きかった気がします。
今思えば…ですが、震災で感じた無力感と、組織の変化のなさに、思い悩んでいたのかもしれません。

なぜ防災を発信するのか

長々とおつきあいをいただきましたが、ここからが本題です。すみません。

消防に限らず、行政も国も、企業も、防災意識の高い一般の方も、たくさん防災の発信をしています。

だから、消防士を辞めた僕は誰かに任せておけばいい。

そうは思えなかったのです。

消防以外の友人有志で減災ワークショップをしたり、国連防災世界会議や、仙台国際防災フォーラムなどに出展したり、フェイスブックで防災を発信したり、ゲームで学ぶ防災のワークショップを開いたりしてきました。

消防士はとてもやりがいがあり、良い仕事だと思います。
日常の災害、火事や交通事故などの対処をし、人を救助するのはとても尊い。
退職はしましたが、現場活動をする消防士は憧れられるべき存在だと、今でも思います。

ただ、それはあくまで発生した災害に対応する仕事。

震災や、豪雨などの気象災害の規模が大きくなると、その装備と人員には限界がある。

つまり、上に長々と書きましたが、助けに行くことすらできないという状況が発生します。

繰り返しますが、防災の発信は山ほどあります。
でも、そのうちのどれか、印象に残っているものはありますか?

首都直下地震や南海・東南海地震は必ずやってきます。

30年以内に70%と言われています。

東日本大震災も同じく70%の確率と言われていました。

そして、1978年の宮城県沖地震から33年後に発生しています。

熊本地震は発生確率0.9%の場所で発生しています。

いつどこで、災害に遭うかわからない。

だから、僕はTwitterで影響力を持って、タイムラインに時々僕のツイートが流れる、それがちょっとしたきっかけになって【すずけん が言うなら、行動してみよう】そう思ってほしい。

311当時娘は3歳でした。
30年と言ったら、次の災害に遭う確率は高い。
だから、絶対に守りたい。

Twitterで出会った人たちも同じなんです。
絶対に死んでほしくない。

今日は東日本大震災から8年です。

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