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鹿威しの魅力

 「鹿威しとは、大自然と人間の調和を示す指標である。」(生津)

 もともと「添水」(そうず)と呼ばれたこの装置の歴史を辿ってみると、奈良〜平安時代の高徳の僧、玄賓僧都(げんぴんそうづ)の故事、それを受けた江戸期の石川丈山と詩仙堂。「鹿威し」と呼ばれるようになったのは昭和に入ってから。と言った流れになるようであるが、実際のところ、この装置について事実に基づく明確な資料は現存しないようである。ただ、現在でも「案山子」のことを「そうづ」と呼ぶ地域があったり、「鹿驚」と表記して「かかし」と読んだり。古くは「梅園日記」北慎言/著(1845年・弘化2年)に「鹿驚し」「鳥おどし」の表記が見られたりする。「案山子」「そうづ」「かかし」「鹿驚し」「鳥おどし」こういった言葉の並びを見ると、この装置の背景にあるのは、農耕民族である我らの先祖の暮らしを取り巻く自然環境であることは明らかである。そしてこの装置は、人間が大自然と共存するために捻り出した智恵そのものと言えるだろう。

 さて、鹿威しである。美しい日本庭園を眺めながらお茶を飲み、静寂の中に響く鹿威しの音。日本人なら誰でも簡単にそんな情景を目に浮かべることができるだろう。日本庭園に鹿威し。これはわかる。しかし、大枚叩いて造った念願の日本庭園に「...よし、案山子を立てよう!」と膝を叩く人が果たしてこの日本にどれだけいるだろうか。ましてやカラスの死骸をどこかに吊るそうなどとは誰も思わないのである。多分。もしくは、美しい日本庭園を眺めお茶を啜りながら「そうだ!一定の間隔で銃を発砲したら良いんじゃないか!」とか「庭の上に縄を張って大量にCDを吊るしてみよう!」などとはゆめゆめ考えつかないのである。多分。何が言いたいかというと、今日の鹿威しはかつての役割とは全く違った何かを我々に提供してくれているという事実である。それは一体何なのか。(注:かつての役割を現在でも担っている事例も当然あります)

 ここで私が鹿威し研究家を名乗るきっかけとなった、我が聖地・落柿舎での経験を記しておきたい。季節は冬、天気は快晴。地図にポツンと書かれている落柿舎を、私は1人で、ただなんとなく訪れた。あのなんとも風情のある向井去来の庵には、かの松尾芭蕉も滞在したこともあるという。DNAに直接訴えてくる猛烈な郷愁の念に囚われている私の耳に、ふと鹿威しの音が入って来た。辺りに響く竹の音は、驚くほどに私の心と体を癒してくれた。自然と足は鹿威しの装置に向かい、すぐ傍にしゃがみこんで竹が石を打つ音に耳を傾けた。しかし、その音だけ聞くと何も感じない。不思議に思い、鹿威しを離れ再び枯れた庵に見入っていると、そこに響いてくる鹿威しの音は、再びえも言われぬ感動を私にもたらしてくれる。そして気づいた。鹿威しの音はそれだけではその独特の威力を発揮しない。必要なのは落柿舎を取り巻く環境だ。嵯峨嵐山の山並み、長閑な風土、冬の陽射し。そこにある大自然をそのまま受け入れ、水の力を借り、竹で石を打ち、音を響かせる。まさに、地球と人工物の織りなす総合芸術である。その壮大さに打ちのめされ、私はしばらく動けなかった。

 さあ、私なりの鹿威しの魅力の定義は決まった。それは大自然と人間の調和が生み出す総合芸術である、ということだ。そして、鹿威しの音色がその魅力を遺憾無く発揮する時というのは、周辺環境との繊細で絶妙なバランスが必要なのだ。鹿威し単体では、何も心に響かない。ただそこに大自然があるだけでは、鹿威しの音が響き渡った時の感動は得られない。更に、心地良い鹿威しの音色には私達をある特殊な精神状態に誘う何かがある。その特殊な精神状態というのは、確かに聞く人それぞれ個人差があると思う。しかし、緑濃い、もしくは紅葉深い日本庭園でお茶を飲み、ひんやりとした静けさの中で鹿威しの音が響く。そんな情景を心に浮かべた時、多くの人が想像する心ち良さというのは割と似たようなものなのではないだろうか。そう考えると鹿威しの音色は、例えばビートルズのヘイ ジュードより、日本で言えばサザンのTSUNAMIより(いずれにせよ例えが古くて申し訳ないが)我々に訴える普遍的な何かを持っているに違いないのだ。

 私達人間はとりあえず何か難しいことを無理矢理考え出し、それに情熱を持って取り組むことで何とか「生きてる感」を感じる。人間の欲は「生きてる感」を求め続け、今では「これホントに必要?」と突っ込みたくなる物や思想で世界中が埋め尽くされている。そして私達人間が産み出してきたものは地球という我が家をいよいよ倒壊寸前にまで追い詰めている。私は文明の発達というものを否定するつもりは全くない。しかし、この鹿威しがその威力を発揮する条件が満たされている時、その時こそが私は地球と人間の距離感が保たれている瞬間なのではないかと思うのである。

 鹿威しとは、大自然と人間の調和を示す指標である。まさに、そうなのである。

                    2021.05.19 鹿威し研究家 生津徹


追記:生来私は非常に気まぐれな人間なので、この宣言にも似た一文は、今後私自身の手で修正、加筆が行われる可能性があります。ご了承ください。

 


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