見出し画像

ぬくもりとエロティシズム

帷が降りた夜に月がぴたりと張り付いている。
見上げた先で煌めく孤独は、とてもとても麗しい。

月を捕らえんとばかりに月暈げつうんが浮かび上がっていて、思わずスマホを取り出してデジタルの中へ押し込もうとした。
画面を六等分するグリッドの中央に、暗闇で光るボタンのように映しだされている月を収める。
光量やアスペクトを調節して、可能な限りボタンを際立たせてやる。
捕らえたッ——


美しいものを美しいと感じた時、その写真を送る存在がいることに安寧を得る。
僕たちのトーク履歴には、コルクボードに画鋲留めをするように、夕方の火照りに立ち止まった瞬間がいくつも残っている。

「赤だね」「オレンジだ」
「緑だよ」「青でしょ」

見ているものは同じでも、感じていることは全く異なる。同じ人間で、たくさんの時間を共に過ごしたとしても、感受性は人それぞれなのだから不思議である。

そもそも、見なければ受け取ることもできない。だから、僕は見ようと思う。美しさも、醜さも。
便利な時代になって俯いてばかりの生活の中で、空や月、星たちを見上げる人で居続けたいと願う。
曇天や雨なんかも愛してしまえたら、なおよい。
太陽を見上げたら目が焼かれてしまうので見ないけれど。


簡単に写真を撮れる時代で良かった。
良くも悪くも、記憶から消えてしまった思い出を記録に残すことができる。

雨の日は、全部ひっくるめて思い出に浸るのもいいかもしれない。


出窓から身を乗り出すと、肌でそよ風が凪いで、雨粒が頬を伝った。
それと一緒にこの不安も鎮まって流れてくれたらいいのに。

メンタルが不安定な人は過去や未来に意識が飛んでいるらしく、今を生きることができれば情緒は安定するらしい。

将来には不安ばかりが募っていく。
ほんとに、ほんとうに。


***


月見バーガー目当てに滞る車たちを横目に芋名月を仰いで、うさぎが傾きすぎているとクスクス笑った。
助手席側の窓際に吊るされた二羽の青いペンギンたちが、緩やかな渚のごとく、ゆらりゆらりと踊っている。

赤信号が灯り、恋人の頬を左手でぐいっと寄せる。
しわくちゃになった口許の柔らかさが好きだ。
その柔らかさ故、思わず強く寄せてしまうから、恋人が喋ると尖った口先からピヨピヨと鳴き声が聞こえてきそうだ。
指で頬を寄せると、目が蕩けるように垂れるのが好きだ。


恋人のぬくもりが指先からじわじわと滲んできて、さあ、今がキスのタイミングよ! と、どこかから声がしたけれど、惜しくも青信号に切り替わってアクセルを押し倒した。
前走車のブレーキランプの照明で紅色くれないいろに覆われた車内では、どっちみち気恥ずかしくてキスなんてできっこないけれど。


ぽつりぽつりと家々の明かりが灯されていく。昼より夜の方が、窓の向こうで暮らす人々の人生が窺える。
実家の灯りの下での暮らしと、恋人宅の灯りの下での暮らしは似ても似つかない。
それぞれの灯りの下は、それぞれの暮らしの形がある。

人間は、僕は、恋人は、独りではないようで独りなのだと思う。
みながみな形の違う孤独を纏わせて、それでも生きていかなくちゃならないと、現実を見なくちゃならないと分かっているから、生きている。

みんな、ちゃんと生きてんだなぁ。


***


本を読んでいると書きたくなる。
文章を漁っていると書きたくなる。
書いていると読みたくなる。
書けないと会いたくなる。
書けたら会いたくなる。
美しいものに足を止めたら写真を送りたくなる。

そういう時は、生きていると実感することができる。

何も無い繰り返しの日々の中に、ひとつのあたたかさを与えてくれる。

夏が待ち遠しかったのに暑いと文句は言うし、早く冬服が着たいと言っていたのに寒いと僕たちは言い続けるけれど、
どんな季節も、どんな天候も、愛してしまおう。

心が雨で濡れてしまっても、心の中が蝶でいっぱいになっても、アコースティックギターの第六弦が低く籠って響くように、静かに、とても静かに、愛してしまおう。


僕の生活は何を軸としてまわっているのだろう。
確かなのは、その軸を支えてくれている人がいるということだ。

平静、安泰、閑寂。
せせらぎはそれらによく似ている。

穏やかなものは、音によく現れる。
小鳥のさえずり、秒針の傾き、隣家の生活音、包丁とまな板が衝突する音、恋人の寝息。
よく耳を澄ましてみれば、案外そこらじゅうに眠っている。

彼らを捕らえると、普段見向きもしない光景に気が付いたり、たまには湯船に浸かってみようかと思ったりする。
朝早く出ていく恋人に「いってらっしゃい」を言おうと、いつもより早起きをしようと試みたりもする。

長く湯の中に隠れていると、次第にのぼせてきて、あぁ、愛する人の腕の中で愛されていたような気さえしてくる。
熱くて、ぬるくて、冷たくて。
そうして繰り返していく暮らしの延長線上を僕たちは生きていく——つもりでいる。

濡れたままの髪、湿り気のある艶やかな肌。

風呂上がりの恋人から漂う香りには、ぬくもりとエロティシズムが混じり合っていて、当惑しつつも穏やかにさせてくれる。


今日は綺麗な月、見れないな。


凝り固まった身体をぐーーっと伸ばす。
ついでに欠伸もした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?