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ラブレター

僕が基本的に他人を信用しないのは、

裏切られた時の傷を少しでも浅くしたいから

じゃない。

ここでいう「裏切られた」というのは、
期待に応えてくれなかった
信頼を侮られた
傷つけられた
なんてものじゃなく、
ただ単に、
僕の知っている彼や彼女ではなかったと知った
それだけ。

そもそも、他人に対して裏切られたと感じない。裏切られた、とは、発見した、と同義なんだよ。

新たに見た、彼や彼女の姿や態度が本来のものであるにせよ、ごく一部の表れに過ぎないとしても、「そういうところもあるのか」という発見でしかない。
そこに感激するか失望するかは、その内容にもよるけれど、個人の勝手だよ。
許すも許さないも同じで。

「裏切られた」と感じた時、それを誰かに話すとする。自分はたいして気にしていなかったが、その誰かは共感し、憤慨する。だからといって、「その感覚が正しく、自分もそう思わなければならない」と感じる必要性は全くない。
全てのものごとに正しさがあるとは限らないからね。


僕が基本的に他人を信用しないのは、疲れてしまうからなんだ。
根本的に、疲れることが嫌いで、心の昂りさえも最小限でいい、もしくは無くていいとさえ思う。
信用している、と言えば聞こえはいいけれど、要するに、

「わたしが期待するあなたでいてね」

という意味に他ならない。

期待することが悪いのではなくて、期待を破られたときに憤ることが身勝手なんだ。
他人は、自分が気持ちよく生きるための都合の良い手段じゃない。

あくまで人間不信なんてら大層なものじゃない。
信用できないのではなくて、信用しない。信用したくない、ともまた違う。
逆に、信用されたいとも思わない。そもそも、僕は僕に対して期待していないので、他人に期待されても……という浅はかな考えだ。

クリスマスに雪が降った
卒業式に桜が咲いていた
誕生日ケーキに蝋燭が刺さってた
「無くてもいいけど、あったら嬉しいね」
程度の人間として認識してほしい。
いなくていいけど、いたら楽しいね。
してくれなくてもいいけど、してくれたら嬉しいね。
あぁ、でもこれも人で考えると難しいか。


信用しないと言っても、好きな人は好き。
話したいと思う人はいるし、会いたいと思う人もいる。恋しい人も、愛しい人も。

僕は「基本的に」人間が好きだ。話している相手には興味が湧くし、もっと知りたいとも思う。
人と話すことは好きだし、人と居ることも好き。知りたいし、知ってほしい。
けれど、重度の依存体質なので、よく知りすぎることが怖かったりもする。ため息。

恋人がいればもちろん依存し、いなければ友人にも依存する。趣味娯楽はあるにしても、依存先として登録はされない。
あくまで人に依存してしまう。

学生の頃まで、自分は一人の時間が好きだと思っていたのだけど、そうではなくて、依存先があってこそなのだと知った。
特に、仕事終わりは孤独感が増す。家に帰って酒と食事を摂り、スマホをいじり、時には映画を観たり読書をしたりして、眠る。

誰かと「お疲れさま」をしたい。いや、「誰か」ではないのだけど。


24年間生きてきて、心から信用してしまったのは、片手で数えても余る。
母、幼馴染、友人、元恋人。
母については、精神疾患を患った際に言われた言葉によって信用を失ったけど。
僕が彼らや彼女らを信用しているのは、期待しているからじゃない。
「どんな姿であっても、僕は受け入れることができる」という確信があるからだ。

こうも言える —— 彼ら彼女らがどんな態度であっても、なにも言われたとしても、それを都合よく解釈できる、と。

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