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「真夜中乙女戦争の“私”」と「わげもんの“壮多”」の人生比較論

※真夜中乙女戦争、わげもんのネタバレありです。まだ見ていない方は引き返すことをおすすめします。

“私”と壮多は似てないようで、実は似ている?


先日、NHK土曜ドラマ「わげもん」が最終回を迎えた。全4回という短い連続ドラマだったがその満足度は非常に高く、さすがNHK肝入りのドラマだったと感心しきり。

わげもん第4話(最終回)はどのような展開になるだろうと、固唾を飲んで視聴していたのだが、途中からこの物語が永瀬廉が主人公を演じる「真夜中乙女戦争」の“私”と“先輩”と“黒服”との関係性と近いことに気が付いた。(いや、気が付いたとういうか、それは私の解釈なのだが笑)

“私”はそのまま永瀬廉演じる「伊嶋壮多」に通ずる。その身にまとう雰囲気はかなり違うが、どこか肝の据わっているところ、そして儚さは二人の共通点でもある。(永瀬廉の持ち味ともいえる)

真夜中乙女戦争の“先輩”(池田エライザ)は、わげもんでは小池徹平演じる「森山栄之助」だ。

そして、わげもんで“黒服”(柄本佑)に当たるのは他でもない、高嶋政宏演じる「神頭有右生」である。

映画を観た人ならご存じのとおり、真夜中乙女戦争では、“私”は先輩に惹かれながら黒服にも強烈に惹かれて魅了されていく様がわかる。何をもにも染まっていく“私”はまさに「卵から孵ったひよこ」状態で最初に目が合ってしまった「+」の先輩と「-」の黒服に同時に惹かれていくようであった。

一方、わげもんの壮多は、父を探して長崎にやってきた。敵対しているようで味方でもある「表社会で活躍する森山」と「裏社会で活躍する神頭」の二人に、結果的に導かれるようにして、父の生き方を知ることになる。

“私”は愛を知らないままで、壮多は愛を知っていく

“私”と壮多の最大の共通点は「親との縁の薄さ」だ。といっても、“私”は両親を失ってはいない。父は出てこないので不明だが、母は彼の生活をささえるために、1時間1000円のパートをしている。しかし、彼が母の労をねぎらっていたのは最初の、母の時給を語りその価値のある授業をしてくれと冷たく言い放つあのシーンのみだった。

それ以来、彼が母を思っている姿はどこにも見当たらない。要は彼の心の中に「母を慕い、母を愛し、母を守る」という気持ちはこれっぽっちも見当たらないのだ。もちろん、父を慕う気持ちもまったく見受けられない。

「愛されたい」という願いはあるものの、どうやら母からの愛を感じている気配はなく、先輩に求めていた愛を受けることができなかったことで、結果として彼は東京を破壊してしまう。

一方、壮多は母を看取った後、江戸を出て父を探して長崎までやってきた。母の死を伝えたいと言っていたが、実のところ「父親はどうして自分のそばにいなかったのか、そして生きているならば会いたい」という想いがそうさせたのだろう。

彼は「母への想い」と「父への想い」と、そして「自分は愛されていたのか」「母は愛されていたのか」というあらゆる愛を確認するために長崎までやってきた

そして壮多はさまざまな裏切りにあいながら、仲間に出会い助けや協力を得て、少しずつ少しずつ父親に近づき、結果として「父に愛されている自分」を獲得した

しかし、壮多と“私”の圧倒的な相違点はそこではない。わげもんの壮多は、父に愛されている自分を獲得する前に、「母親に愛されている自分」を既に獲得していたということだ

真夜中乙女戦争の“私”は、その表情からもあまりに自己肯定感が低く、わげもんの壮多は自己肯定感が高かった。要は、壮多は「母に愛されて育った自覚」があることで、父はいなくとも自分は価値のある人間であるということを自覚していたのではないか。

両親の愛を感じず自己肯定感が低い“私”

母に愛されて育ったことで自己肯定感が高い壮多

ゆえに、二人の前に現れる選択肢が同じでも、選ぶ基準も選ぶものも変わってくるのだ。

“私”は破壊を選択していく一方で、壮多は「建設的に構築し光の射す方」を選んでいき、時に「出直そう」とやり直すことも選択肢に入れる

この「出直す」ということは“私”には一切ない行動だった。“私”は進んだらもう止められない、止まる方法を知らない。なぜならば彼は「愛されている自覚」が圧倒的に足りないことで、ブレーキをかける意味を知らないからだ。

壮多は言う、「出直しましょう」は、さまざまな人の気持ちや立場をおもんばかり、そして誰も失わないように選択している、まさに「愛」こそがブレーキなのだ。

果たして“私”は本当に愛されていなかったのか

しかし本当に“私”は誰にも愛されていなかったのだろうか。

どう見ても黒服は彼を溺愛していたし、苦言ばかり言う母親だって“私”が大学へ行くことで何かを得られることを望んでいたはずだ。彼が受け取っていないだけで、彼は本当は愛されていたのではないかと、人の親として思う。先輩だって、恋愛対象として彼を愛してはなかったが、信頼していない人とラブホテルに入るような人ではない。“私”のことを友人としては愛していていたと思われる。

いや、それだけじゃない猫のビーツだって彼を受け入れていただろうし、何より彼は命を食べて生きてきた

そうだ。“私”は毎日毎日、「明日を生きたかった命」を「自分の血肉」にして生きていたのだ。まさに地球の恩恵を受け、太陽の恵みを与えられていた。要は…彼は宇宙に「生きよ」と愛されていた。

現代人に多く見受けられる「命を食べて生きている実感がない」ゆえに、「自分の命は自分だけが形成したもの」「自分の命は自分だけのもの」という視野の狭さが、他者の命や夢を軽んじる「自己中心的発想」のもと破壊行動を起こしてしまったのではないか。

一方、壮多は、神頭が用意した飯を実にうまそうに味わって食べ、そしてかくまってもらっていた時は見たこともない食料であるパンを「命綱」という自覚をもって、口にする。

時代が時代ということもあり、彼は食べ物が命であることも重々承知しているので「自分の体が自分の命だけでできていない」という自覚がある。

人類は、何度も飢饉の苦しみを味わい、生きるために食べ物を増産した。そして資本主義に勝った国の人は容易に生き延びるようになった。

しかしそれにより、情けないことに現代ではその食べ物が「自分を生かしてくれる命」ではなく「動くためのただの燃料」もしくは「娯楽」と化してしまったのだ。食べ物に「命」を感じることがなくなったことで「生かされている」と感謝する概念は消えてしまったに等しい。

方法は違えど「生きる」ことを選択した“私”と壮多

真夜中乙女戦争の“私”は「愛されたい、そして生きている実感がほしい」という、現代人の魂の叫びだったように思う。

そしてわげもんの壮多は「いつ天に見放されるかわからないけれど、愛されている自覚、そして生きている実感」を抱えて生きていた。

真夜中乙女戦争の“私”にとって、わげもんの壮多はまさに「求めている輝かしい人生」を送っていたのではないだろうか。

わげもん最終回のラスト、壮多は「恐れるな 己の言葉を持て」という言葉を訳す。父の手書きの辞書には「己の言葉を捨てよ」と書かれていたが、その時代は終わったのだ、これからの時代は通詞であっても「己の言葉を持つべき」なのだと新時代を示唆する希望のあるラストだった。

一方、真夜中乙女戦争の“私”は先輩に「生きてることでよしとしよう」という言葉を掛けられる。「生きているだけでいい」という肯定を、愛されたかった先輩にかけられることで、彼はやっと安堵した表情を見せた。

最低で最悪な行動をとったけれど、ただ「生きる」ことだけは選択した“私”。彼が本当にしたかったのは、自分の積み上げてきた、生きていいのかどうかもわからない感覚をゼロにすることではなかっただろうか。

そして、“私”にとってそのゼロ地点は、壮多の言う「出直しましょう」さながら、人生をやり直す地点だったのかもしれない。リセットボタンのようにやり直せるわけもないのに。

“私”は、真の愛を知るために、そして真に生きている実感を得るために、

壮多は、愛する仲間とともに、光の射す方へ向かうために、

それぞれ生きることを選択したラストように思う。

人生とは、星の瞬きほどの短さなのに、彼らの人生は、儚くも力強くもあり、私は真面目に生きてみたくなったりもしたが、今夜も猫とともに夜ふかしをしている。

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