祇園木﨑のファンクラブです。 ここでしか言えないこと、プライベートな話などここで発信。 みなさんもライブやテレビの感想を聞かせてほしいです。
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芸人の仕事、パパの日常などなんでもここに。 日記のようなものです。
祇園木﨑
僕が芸人をはじめて やめるまでの物語です。
有料のものを集約してます。
パパ日記2月号です
木﨑の新米パパ日記です。
憤慨した。 私の何を知っているの?胸ぐらをつかんでそう叫んでやりたかった。 でも今年で34才だし、なんか大人げないなって。ぎりぎり踏み止まった。 何よりここはファッションビルの婦人服売り場。大声を出すことは許されない。店長の私にとってこの店はいわば聖域だ。 その聖域にまだ24才の本社から来たガキンチョ女が、一丁前にアドバイスし、私のプライベートにまで土足で上がり込んできたので、憤りを隠せなかった。 「以後、気をつけます」 そう頭を下げた私が、頭を上げる前にあの山下
2008年 僕のお笑い芸人人生の針がまた動き出した。 1年というブランクは どのくらいのものだろう。
空白の1年 前回そう書いたのは お笑い芸人としては空白であったという意味。 しかしこの1年には 大きな意味があった。
挫折とは 人を成長させるのか ただ臆病にさせるだけなのか。 このときはまだわからなかった。 baseよしもとに所属した2ヶ月は 記憶が薄い。
2007年のbaseよしもとは 稀に見る群雄割拠だった。 ピラミッド形式で 2軍とオーディション組の入れ替え戦が 月1回あり
NSC卒業公演は 実力ごとにネタの尺が違う Aクラスは3分、Bクラスは2分 Cクラスは1分。
NSCに入り 1ヶ月ごろ過ぎたあたりで 我々は「祇園」を結成することになった。 NSCの授業は ネタ見せがほとんどだ。 そのやり方は ホワイトボードにコンビ名をそれぞれが 順番に書き、その順番に 作家さんにネタを見せていく。 なのでコンビ名を つけなければいけない。
NSCの狭い教室に 30人ほどのメンバーが パイプ椅子に着席した。 面接は 目の前に座る審査員 おそらく社員に向かって 1人ずつ自己アピールをしていく。 僕はそこで大きな過ちをおかす。
今年も7月東京を皮切りに 単独ツアー「ぎおんまつり」を 開催する。 今のは みなさんが思っている通り 皮切りというのを使いたかっただけだ。
高校3年の夏 同級生と組んでいた「ザ・テンションズ」で インディーズのライブに出ようと相方と 公民館でネタを合わせていた。 そこで彼は僕にこう告げた。 「指定校推薦で大学が決まった。プロになる気はない。」
NSC在学中、僕たちは 順風満帆な方だと感じていた。 しかしそこにはやはり 自分の笑いやセンスに自信のあるやつらたちが 集まるのだから 度肝を抜かれることもある。 こいつらはすごいと思った コンビが2組いた。
これは僕がNSCに入り、 吉本興業で漫才師として活動し、引退するまでのお話。 第1話 お笑いとの出会い 決して陽キャラとは言えなかった。 中学は野球部キャプテン 高校は学級委員を務める いわゆる優等生の量産型だった。 子どもの頃は 親の教育方針で、友達の中でも話題だった 〝ごっつええ感じ〟などのバラエティーは 見せてもらえなかった。 しかし吉本新喜劇と日曜のコメディだけは 上方の文化だと なぜか見ることを許してもらえていた。 そこである人に目を心を奪われる。 藤
最近更新が出来てなくて 申し訳ございません。 現在、 あるものを書いてまして
6/8に森ノ宮漫才劇場にて スザキザキを開催する。 約2年ぶり。 一度でもスザキザキに 来たことがある人はどれくらいいるだろうか。 もしかしてお客さんも ガラッと変わってしまっているのか。 一抹の不安を抱えながら スザキザキについて説明をしておこう。 スザキザキをやるきっかけとなったのは
マイスイートメモリーズ花谷さんが 主催する大喜利ライブが 月1回、漫才劇場で行われる。 「大喜利エンジョイライブ」 大喜利と聞くと
大阪から 東京進出する芸人があとをたたない。