見出し画像

信州に匿われた三人目の遺児・足利成氏、そして大井氏 その②

大井氏が居城としていたのは、安養寺にほど近い、湯川のほとりにあった。
大井城の周辺は、今では宅地開発されてしまっているため、興味もなにもなければ、たださらりと通り過ぎるだけの、児童公園の雰囲気である。
ここは城だと意気込んで訪れてみたとしても、郭の上を歩くだけでは、なんの変哲もない平城に、ほんのちょっぴり毛の生えたもののように思えてしまう。
城の面影を期待して訪れれば、まず目に飛び込むのは児童用の遊具の存在で、少し高いところにあるだけの児童公園の様相に、がっかりすること請け合いだ。
けれども、もう一度、萎えてしまった好奇心を奮い立たせて、城域の背後へと回り込むなら、大井城はその秘められた真実の姿を、いよいよ顕わにしてくれるのだ。
あまり整備されていない川沿いの小径に分け入ると、湯川が削り取っていった田切地形とおぼしき岩の壁が、目の前に立ちはだかる。
これこそが、大井城の本来の姿であろう。
湯川屈曲部が削り出した田切地形の、見上げるような段丘崖のその上に、大井城の郭は聳えていた。
なんの変哲もない児童公園と思えていた領域が、今では見上げるような断崖絶壁の上に君臨してしまっている。
そんな変貌に思わずにやにやしながら、川沿いの小径を歩いていると、スズメバチに威嚇されていたりするので、あまり呆けてばかりもいられない。
大井城、侮るべからずと、惚れ惚れするような城の姿を見上げて歩いていると、大井氏の栄華もまた、侮るべきものではないように思えてくる。
鎌倉公方の遺児・足利成氏は、これほどの強大な城を有する大井氏によって匿われていたのである。

大井城 王城のケヤキ

大井氏は、本来であれば、戦国早期を語る上では外すことの出来ない巨星のひとつであっただろうと思う。
大井氏宗家が、戦国の早い段階(1484年)で、村上氏・武田氏によって滅ぼされてしまったために、東信地方の戦国史には、ぽっかり穴が開いてしまっているかのような錯覚がある。
滅ぼされた古豪は、あまり顧みられることも少なく、かの地には、昔から何もなかったかのように思われているけれども、確かに、大井氏は上州をも含めた大勢力圏を築いていた。
甲斐の武田氏に滅ぼされた村上氏もまた、戦国史において過小評価されて語られているような気がしているけれども、大井氏は、村上氏以上に過小評価、いや、評価されることもなく、まったく埋没してしまっていると言えるだろう。
大井氏の存在を念頭に置けば、のちの真田氏が、上州・西上野にその勢力圏を広げていったことも、当然の帰結であったように思えてくる。
東信地方の戦国史がそうであったように、西上野地方の戦国史もまた、ぽっかりと穴があいてしまっているかのようだ。
上州に進出していた大井氏宗家の滅亡もさることながら、その後(1532年)、浅間山の噴火による熔岩流・土石流の災害で、西上野一帯は、甚大な被害を被っていたという。
言わば、西上野の地は、焦土からの復興の真っただ中にあったと言える。
戦国中期の西上野は、言わば、エアポケットのような状況にあった。
そこに滋野氏庶流の羽尾氏や鎌原氏が、信州から入り込み、真田幸綱(幸隆)もまた、海野平合戦(1541年)に敗れたのちに、西上野を目指したのであった。
結果的に、浅間山の噴火もまた、大井氏の事績とその存在自体を、熔岩流の中に呑み込んで覆い隠してしまったわけであるから、大井氏は悲劇の一族なのかもしれない。

大井城の段丘崖

足利成氏が鎌倉公方として復帰し、結城氏などの勢力にほど近い古河の地に拠点を移して古河公方となったことで、のちの戦国時代は準備されたと言えよう。
それぐらい足利成氏は重要な人物であると思うのだが、巷間取り上げられることも少ないうえに、不勉強のため人物のほどはよくわからない。
足利成氏自身には、木曽義仲・北条時行のような華々しい逸話はなさそうだけれども、あの「南総里見八犬伝」での妖刀・村雨丸の本来の所有者とされている。
まぁ、曲亭馬琴の創作ではあるが。
地図だけ見れば、古河の地は関東平野のど真ん中のようにも見えて、関東平野の入り口のような鎌倉などよりも、ずっと関八州に睨みを効かせられるような場所に思えなくもない。
なかなか合理的で、野心に満ちた人物だったのかもしれないとも思う。
その後の古河公方と関東管領上杉家との対立や、山内・扇谷の両上杉家の内紛などがあり、関東は全国に先駆けて戦国時代に突入。
古河公方と対立する形で伊豆堀越に着任していた堀越公方が、伊勢宗瑞(北条早雲)に滅ぼされて、巷間、よく知られるような戦国時代が幕を開ける。
そんな時代の空気感を導いたのが、足利成氏だったと言えるだろうと思う。
命尽きるに及んで、嫡子・政氏に伝えたその遺言は、鎌倉に還り関八州を取り戻すことがなによりの孝行だ、といった内容のものであったという。
成氏もまた、信州に匿われていた遺児たちの通例に漏れず、その道程は志半ば、しかれども、不屈の闘志を最後まで失わないという人物であったようである。

大井城と湯川 王城のケヤキが見えている


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?