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中先代と信濃宮、諏訪神党が支えた敗れざる者たち その②

木曽谷には木曽方というシンボルがあったように、伊那谷には南朝方というシンボルが存在している。
宗良親王は、後醍醐帝を支えた皇子のひとりであるが、伊那谷を象徴する歴史上の人物である。
南北朝の動乱期、実に30年以上に渡って伊那谷の地に割拠し続け、信濃宮や信州大王などという異名すら与えられている人物だ。
注目すべきはその存在意義で、狭隘な山間地に割拠していたことで、各地から敗走してくる南朝方の将兵たちの受け皿、駆け込みの谷となっていた。
宗良親王が拠点とした伊那谷・大河原とは、秋葉神社に通ずることから秋葉街道と呼ばれる街道が通る場所であった。
現代でも、分杭峠を越える道は「酷道」と呼ばれるくらいに険しい道で、あまりに険しいその環境が、逆に、南朝方の将兵たちに、逃走の抜け道を提供する形になっていたのであろう。
秋葉街道は、別名「南朝の道」とも呼ばれる。
そして、この秋葉街道という道は、杖突峠と分杭峠に挟まれた、中央構造線の谷筋の道であった。
その行程の大部分が、地質学上の中央構造線の上にあり、中央構造線をなぞるようにして通っている街道である。
中央構造線の地質が見える露頭と呼ばれる個所が、秋葉街道にはいくつか点在していて、地質マニア・岩石マニアの方にはたまらない街道となっているようだ。
諏訪の地で、糸魚川静岡構造線と十字に交わり、フォッサマグナを構成するもう一方の構造線が、この中央構造線ということになる。
中央構造線の向かう先を思えば、やがて諏訪へと続く龍脈のようで、大変におもむき深い。
伊那市・駒ヶ根市のある天竜川流域は、平地の部分が多く、伊那谷と呼ぶよりも伊那平と呼んだ方がしっくりきていて、伊那谷という単語を使わないようになっていたのだが、
旧・高遠町から大鹿村に抜ける秋葉街道周辺は、まさしく伊那谷と呼ぶにふさわしいようなおもむきで、このあたりこそ、本来の伊那谷という言葉が意味する土地だったのではなかろうかと思われてくる。

中央構造線溝口露頭 正直どれがどれやら…

宗良親王が三十年以上にも渡って守り通したとされる大鹿村のあたりには、山国・信州にとっては稀少すぎるものが湧出する。
海のない信州では決して採れることのないはずのもの、それは塩であった。
そもそも伊那の地は、太平洋から運ばれてくる南塩の道、日本海から運ばれてくる北塩の道、そのどちらもが終点を迎えるという、塩の最果ての土地であった。
その伊那谷の山中・大鹿村に、塩泉・鹿塩温泉が湧き出していたのである。
過去には、鹿塩温泉の泉水から製塩が行なわれていたという。
海からは遠く隔たり、塩の道の途切れる、塩の最果てのこの土地に、まるで示し合わせたかのように塩泉が湧くというのは、出来すぎているようで面白い。
海を持たない信州においては、塩の泉はひとつの生命線である。
これもまた、中央構造線の恩恵であろうか。
小県郡の塩田平でも、生島足島神社の旧地・泥宮あたりの池で塩が取れたというけれども、塩は人々をそこに住まわせるきっかけを与えるのであろう。
この塩の存在こそが、戦いに敗れ、逃走に疲れ果てた者たちに、勇気と癒しを与え、次なる再起に賭けさせた原動力だったのかもしれないと思うのである。

大草城址 断崖感にそそられる

宗良親王の三十年の割拠は、苦難の連続であったことであろう。
決戦を挑んだ武蔵野合戦では、北条時行や海野幸康などの、信州の南朝方を支えてきた者たちが退場していった。
南朝の再興を期した塩尻・桔梗ヶ原の戦いでは、小笠原氏に敗れた後、諏訪頼継が南朝から距離を置くようになっていった。
大草城の戦いでは、かろうじて前線の拠点である大草城を守り通して北朝方の侵攻を退けたようであるが、そもそも大草城の戦いの資料上の記録はないという。
天竜川支流の河岸段丘崖を活用したその城の構造は、実際の戦闘が行われたことを想像させるほどの威容を誇る。
むしろ、大草城での戦いは、南朝方の劣勢の中、複数回、戦われたのではないか。
そして大草城では何度も北朝方を跳ね返し、それが三十年間に渡って続けられていたのではあるまいか。
そんな宗良親王のもとで南朝方を率いていたのが、香坂高宗という人物であったであろう。


 香坂高宗もまた謎の多い人物であるが、滋野三氏の傍流に連なる人物のようである。
北信では香坂心覚という人物が、南朝方として牧城に挙兵しているものの、この人物との関連もまたつまびらかではない。
かたや香坂心覚は祢津氏傍流を名乗り、かたや香坂高宗は望月氏傍流を名乗っている。
いずれにしても香坂氏は、滋野三氏との関りの深い一族ということであろう。
香坂氏の名前は、東信の佐久市香坂の地に由来している。
香坂氏が発祥したとされている佐久市香坂の土地は、香坂山旧石器時代遺跡の出土した土地でもあり、知られざる古都であったのかもしれない。
閼伽流山という信仰の山の存在も、そんな思いを強くさせている。
千曲川の支流・香坂川を上流へと遡れば、閼伽流山という岩峰を頂く山塊が見えてくる。
この閼伽流山に築かれた山城こそ、滋野流香坂氏の拠点とする城であった。
閼伽流山の中腹には、香坂高宗の碑が存在しているが、その周辺の地形は空堀のようにも見え、石積みが各所に残るなど、
香坂氏のかつての居館跡のような、ある種、荘厳な気配が漂っている。
この閼伽流山城から出た香坂高宗は、伊那谷に宗良親王を迎え、大河原城や大草城を拠点として、宗良親王とともに南朝方を支え続けることになる。
彼にもまた、諏訪神党としての誇りがあったであろうか。
香坂高宗は三十数年にも渡って宗良親王を支え続け、宗良親王が信濃の地を去ったあとにも、その氏族が、北朝方に滅ぼされることなく存続していることに驚く。
南北朝から室町時代を生き抜いた香坂氏の名跡は、やがて香坂氏の娘婿となった武田氏家臣の高坂昌信に受け継がれていくことになる。
一方、香坂心覚が挙兵した牧城は、同じく武田氏家臣の馬場信房の改修を受けて、牧之島城と名を改められることになるのであった。

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