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木曽義仲を必要としていたのは、プレ諏訪神党だったのか その①

木曽義仲は、諏訪を中心とする勢力によって支えられた旗頭だった。
そう考えてこのあたりの状況を見てみると、なかなかに面白いと思うのだ。
後年の中先代・北条時行のように、木曽義仲と諏訪の勢力の目的が合致し、強固な結束力をもって世間にその名を轟かせたものだと想像すると、なにやら胸が熱くなる。
この時代、まだ諏訪神党などという名称は確立していないであろうから、そのような集団を、プレ諏訪神党などと名付けて想像を逞しくしてみよう。


義仲の父・義賢は、関東の勢力圏を巡って、頼朝の父・義朝と対立していたが、武州・大蔵合戦によって義朝の嫡男・義平の奇襲によって討ち取られてしまう。
義平に従っていた斎藤実盛と畠山義能は、まだ幼い義仲こと駒王丸を匿い、その預け先として、佐久の望月国親(秀包)や木曽の中原兼遠のもとを訪れた。
駒王丸は、木曽の中原兼遠のもとに預けられ、中原氏と望月氏は連携して、平家方や義朝方の引き渡し要求を撥ねつけ続けた。
当時の信州は、木曽・望月ともに広大な馬牧を有し、軍馬の放牧を行なっていたことから、その潜在的な軍事力は他者の侵攻を思いとどまらせるだけのものがあったのであろう。
木曽の中原氏と望月の滋野三家が共同で、義仲の引き渡しを拒否したとなれば、平家方にしろ義朝方にしろ、迂闊に手を出すわけにはいかなかったと思われる。
中原氏は、もともと京都などに基盤を持っていた一族であったが、牧官として信州に赴任してきて木曽谷を中心に定着した一族のようだ。
義仲の養父となる中原兼遠は、若いころは朝廷に出仕していたらしく、信濃権守や牧官として改めて木曽の地に赴任してきた。
木曽の日義村や松本市に中原兼遠屋敷跡が遺っているので、木曽谷から松本平までをその勢力圏としていたものと思われる。
養父・兼遠は、義仲の挙兵を目前にして世を去るが、この兼遠が存命で朝廷工作に奔走できていたとしたら、義仲の運命はがらりと変わっていたはずである。
兼遠に義仲の行く末を託されたのは、兼遠の兄・中原兼保であった。
中原兼保は、滋野三家・海野氏に養子入りして海野幸親と名乗りを変え、中原氏の地盤である木曽からは離れて、小県から佐久地方にその拠点を構えていた。
滋野三家・望月氏と木曽中原氏の連携を支えたのが、この海野幸親であったのであろう。
海野幸親は武の人だったと見え、一族をもって義仲の軍勢の中核を担ったばかりか、義仲の最期までともに戦陣にあって、粟津の戦いにおいて自身も討死を遂げている。
この中原兼遠と中原兼保の関係者らが、木曽義仲を支える支持母体であるのだが、これが後年の諏訪神党を想起させることも多くて、プレ諏訪神党だったのではないかと思えてしまう。
鎌倉方を主役として鎌倉方から見た木曽方ではなく、木曽方を主役として見たときに、今まで見えなかった重要なものが見えてくるような気がしてならない。

 
義仲四天王は、名前に中原と名乗る者はいないものの、全員が中原一族に関わりが深い。
樋口兼光は、中原兼遠の次男である。義仲軍の別動隊を率い、木曽方の副将格であったようだ。上伊那の辰野町樋口あたりが拠点であったとされる。
今井兼平は、中原兼遠の子のひとりであり、樋口兼光の弟である。松本市今井あるいは岡谷市今井が拠点であったとされる。
義仲の友・側近として、粟津の戦いにおいて、義仲とその最期のときを同じくする。
木曽谷でともに育ち、同じ時間と空間を共有した、木曽義仲と中原氏の兄弟たち。
特に、今井兼平は、忠臣と言うよりは、「生まれたときは違えども、死ぬるときは一緒」の義兄弟に近い関係性ではなかったかと考える。
四天王とはされていないものの、義仲に従った女武者・巴御前もまた、中原兼遠の娘であり、今井兼平から見れば妹である。
戦場を疾駆する女武者の存在は、義仲主従をひと際華やかに彩り、陰謀渦巻く鎌倉方がまるで悪の組織であるかのようにも見えてくる。
根井行親は、望月氏の傍流とされる人物である。根井は「ねのい」と読み、その拠点は佐久市根々井に比定される。
楯親忠は、根井行親の子であり、その拠点は佐久郡佐久穂あたりとされる。父・根井行親とともに佐久党として義仲軍の中核を成した。
根井行親は、その名前の響きが同じことから、海野幸親と同一視される向きもある。
海野・祢津・望月の三家は、滋野三家と呼ばれる結束力の固い集団であり、望月牧の駒が有名であったことから混同された可能性もあるだろうか。
海野幸親は、海野氏に婿入りする以前は中原兼保と名乗っていたのであるから、兼光・兼平・巴からすれば、叔父にあたる存在となる。
楯親忠もまた、海野幸親の子だとすれば、兼光・兼平・巴からすれば、従弟ということになるであろうか。

 
海野幸親と根井行親は、同一人物とされることがあるものの、海野氏も望月氏もともに義仲軍を支えた滋野三家の一族であった。
海野幸広は、海野幸親の長男である。
義仲軍の主だった戦いに参戦し、水島の戦いでのエピソードは特筆される。真田の軍旗・六連銭の由来となった出来事であるからである。
水島の戦いの前に海上に見えた六つの渦を、海野幸広が吉祥としてこれを旗印としたというパターンと、水島の戦いに敗れた海野幸広が入水した際に六つの渦が巻き起こり、これを海野氏の誇りとして旗印としたというパターンのふたつがあるようだ。
いずれにしても、水島の戦いの最中には、金環皆既日食が起こり、それを予測していなかった木曽方だけが騒然として敗北するのであるから、吉祥ではなかったというべきか。
後世、真田幸綱(幸隆)が、海野一族の誇りとともに、六連銭の旗印を受け継いだとするならば、入水した幸広の不屈の魂が巻き起こした六つの渦とする方が、物語としては美しいのかもしれない。
水島の戦いにおけるこのエピソード、朝日のごとくの昇りつめた義仲が、
太陽の覆い隠される皆既日食とともに没落していくというのも、なかなかに劇的であり美しいと思うのである。
海野幸長は、海野幸親の次男である。俗説に、義仲勢の軍師として従軍した、太夫坊覚明とされることもあるが、俗説の域を出ない。
海野幸氏は、幸親の三男とも、幸広の嫡男とも言われる。
頼朝との講和維持のために、人質として鎌倉に預けられた義仲嫡男の清水義高に付き従っていたために、幸氏の戦場での働きはない。
義仲討死のあと、主君・義高の身代わりとなって、鎌倉から義高を逃がすものの、途上、義高は捕らえられて殺されてしまう。
海野幸氏は、主への忠義を認められて御家人となり、海野氏の所領へ戻るわけであるから、運命とは複雑怪奇なものである。

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