信州-黒耀石と馬牧と浄土信仰-

なぜ、信州にはこれほどまでに古代史の謎が集まるのか?
浅学ながら、私見では、それは、黒耀石と馬牧と浄土信仰とが、信州という土地に芽生えたがゆえであろうかと思う。

 
信州という土地は、フォッサマグナの西の境界線・糸魚川静岡構造線と、列島中央構造線との結節点である。そのふたつの構造線が十字に交差する特異な場所に、諏訪湖という特異な湖が生まれたということが、すべての出来事の始まりのように思えている。ひとびとはこの湖のほとりに集まり、暮らすようになったが、諏訪という土地には、ほかの土地とは一線を画する輸出品となるものが存在した。それは、ふたつの構造線のぶつかりによって地表に現れ出ることになった、透明で美しい黒耀石であった。利器としてはあまりにも美しすぎる諏訪産の黒耀石は、縄文時代を通して、不動のブランド品の地位を占めた。縄文の民は、神々しい耀きを放つその黒耀石を求め、或る者は諏訪湖のほとりに移住し、また或る者は交易路によりこれを手に入れようとした。黒耀石交易は、大規模な商業ルートともなり、諏訪湖周辺では黒耀石採掘鉱山が、縄文時代を通じて運営された。ひょっとすると、古代の海人族もまた、ヒスイ交易とともに黒耀石交易にも絡んでいて、はるか昔から信州各所に拠点となる場所を持っていたのかもしれない。縄文時代から、信州の河川は、交易の円滑化のために海人族によって開削されていたのかもしれないし、急峻な峠を避けて緩やかな高原地帯を抜けていくルートもまた、交易路として開かれていたのかもしれない。諏訪をその代表とする、縄文時代の信州は、一大資源大国であった。

 
大陸から、青銅器や鉄器などがもたらされ、利器や装飾品としての黒耀石交易が下火になっても、信州には次なる魅力的な輸出品が生まれていた。その魅力的な輸出品を生んだのは、馬の放牧地としての高原地帯である。狩猟にも稲作にも適さないこの土地に、積極的に入植したのは、ほかならぬ、青銅器や鉄器とともに騎馬の文化を古代の日本にもたらした、渡来人集団であったであろう。信州各地にあきれるほどに広がる高原地帯は、彼ら渡来人たちの手によって、馬産地として開発・開拓されていった。馬の価値がわかってくると、渡来人たちばかりにいい思いをさせてはならぬと、大和朝廷の大豪族たちも、この僻遠の信州の高原地帯に入植せざるを得なくなったことだろう。かくして信州には、多氏、秦氏、物部氏、尾張氏、大伴氏、蘇我氏など大和朝廷の大豪族たちが、軒を並べるように、ひしめき合うように、進出してくるようになる。大和朝廷の豪族たちにとっては、第二の纏向であったのかもしれない(そうであってみれば、後年の天武帝の科野遷都計画も、あながち見当外れの出来事というわけでもあるまいと思う)。大豪族の領地のひしめき合う信州の地、特に、善光寺平一帯は、大陸の風情漂う文化都市の様相も呈していたであろう。やがて、渡来人たちの主導によって仏教寺院が建立された。これこそが百済寺、のちの善光寺であり、辺境の地で無造作に受け入れられていた仏教を、中央において正式に受け入れるか否かの選択が、国家的な問題へと発展し、ついには、蘇我氏と物部氏の決戦の火種となっていくのである。

 
乗馬の風習が日本各地に広がり、馬牧もまた各地に造られるようになると、馬産地としての信州の地位は揺らぎ始めるようになる。しかし、信州は、次なる輸出品を準備していた。信州の次なる魅力として機能したのは、宗派を問うことなくすべての衆生を受け入れる、善光寺の理想主義的な浄土思想であった。善光寺聖たちによって、各所に広められた善光寺信仰は、今度はひとびとを善光寺へと、そして信州へと引き寄せ始める。「一度は参れ、善光寺」の言葉を待たず、名だたる仏教者がこの寺を訪れた。法然上人が宿泊したという法然堂、親鸞聖人の奉納と伝わるお花松、一遍上人が踊ったと伝わる妻戸台などが、今に残る。名だたる仏教者は言うに及ばず、殺生を生業とする戦国大名たちですら、寛容すぎる善光寺信仰に魅了された。戦国時代、善光寺秘仏が、信玄、信長、家康、秀吉のもとを流転したことは有名な話である。あまりにも寛容で、あまりにも大乗にすぎる善光寺は、乗り来る者をこばまぬ方舟である。川中島にて激しく戦いあった武田信玄と上杉謙信などは、こんにち、善光寺において、かつての健闘を称えあうかのように、その位牌を並べている。

 
黒耀石と馬牧と浄土信仰こそは、信州の歴史を形作ってきた骨格とも言えるだろうか。

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