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麻雀のオカルト理論は、もっとまじめに深掘りされてもいいんじゃないかと思う。

麻雀の打ち方は、大きく、オカルト理論派とデジタル理論派に分かれるとか。
デジタル理論とは、人間が陥りがちな希望的観測を排して、確率・効率・期待値に従って、打牌選択をする打ち方のこと。
オカルト理論とは、運(ツキ)の満ち引き、局の流れといった超自然的なものを感知し、およそ理論的とは思えないような打牌選択をする打ち方のことであるという。


オカルト理論的な打ち方では、対子場・順子場など牌の偏り・場の流れを読み取って、それに逆らわずに打ち進める打ち方が有効とも考えられる。
ツイている者の立直に対して理由もなくベタ下りしたりと、牌効率とは無縁の考え方で打たれることも多い。
鳴くことによってそれまでのツモ順を狂わせて、自分が引いてくるツモ牌に運を招き寄せただとか、運が傾きかけていた他家のアガリ牌を、鳴きによって食いとってやったなど、結果論のように見えることも真面目に語られる。
アガリのあとの配牌には好牌が集まりやすいといった、およそ気持ちの問題なのではないかと思えることが囁かれたり、度が過ぎた場合には、気合で引きをよくするなんてことが語られたりもする。
オカルト理論とは、一見すると、およそ理論的とは思えないような打ち方・考え方であるけれども、本当にそれだけであろうか。


超自然的という意味において、純粋なオカルト理論もあるとは思うが、経験知から得られた分析からくる、一見、オカルトのように見える理論というものもあるのではなかろうかと思う。
一見、裏付けのなさそうに見えるオカルト理論も、マクロの領域あるいはミクロの領域では、デジタル理論だったりするのかもしれない。
完全な勘としてのオカルト理論というものもあれば、捨て牌や切り順によって造成された空気感によって、予想されうる確率論というものもあるのではないか。
特異なスキャンニング能力とでも言おうか、捨て牌の構成やその切られた順番などを無意識のふるいにかけて、感覚的に理解しているということはないのだろうかと思う。
特異なスキャンニング能力から得られた予知について、当人すらもその理由に気づけていない、もしくは、言語化できていないというケースもあるのかもしれない。
言葉でうまく表現することが出来ないために、オカルト的な手法と名乗っていることも有り得ることである。
理由をなかなか説明できない場合、もしくは合理的な説明をわざと嫌うような場合などには、その予想されうる確率論は、オカルト理論に分類せざるを得ないのだ。
インドの天才数学者ラマヌジャンの数学が、まるでオカルト的な数学として見えるように、人間の感覚としては信じきれないものでも、数学的には正しいという奇妙な数学理論も存在する。
まるでオカルトのように見える打ち方でも、麻雀確率論的には正しいということがあるのかもしれない。
それをオカルトと表現するのか、デジタルの一環と表現するのかは、その打ち手のセンスや雀士のキャラクターによって決まってくるのだろう。


自分の手牌とテンパイ可能形、自他の捨て牌、そして他家の捨て順から予想される手持ち牌とテンパイ可能形、その情報だけでも消去できる牌はあるから、麻雀の玄人と素人とでは、見えている景色は当然違うのだろう。
見えていない者にとっては、まるでオカルトのような予想でも、実は高度なスキャンニング能力に裏打ちされた予想だということもあるのかもしれない。
オカルト理論のように、大きく飛躍して体系化されてしまった理論とは言っても、もともとの出発点は、実はとても繊細なデジタル分析の結果だったということもあるだろう。
同じ確率予測でも、他家の打ち筋や癖、場の雰囲気をどう捉える人物なのか、そういったものもデータとして取り込んで、予想に反映させると確率予測の精度は上がるのだと思われる。
手持ちの字牌やドラ牌を何巡目に切り出す傾向にある相手なのか、好形・愚形どんな待ちの形を好む傾向の相手なのか、それによって山に残されている牌の予測濃度は増してくるのだろう。
単なるデジタル的な確率予測に、他家の思考パターンについての予想を交えて確率予測を出していくことで、不確定ながら予測の精度・予測値の信頼濃度が増すことがあるかもしれない。
これがぴたりとハマったとき、オカルト理論がハマったように見えることがあるのではないか。


四人全員が皆揃ってデジタル理論的な打ち筋に従って麻雀を打ったとき、その手の内は、ほかの三人の他家にも読まれているとも言えるだろう。
手の内を知られた状態で闘う難しさというものも出てきてしまう。
この四人の中にひとり、オカルト理論的な打ち筋の打ち手を入れたなら、ある程度、場は乱れ、均衡は崩れ、デジタル理論的な正解の値は、近似値となってしまうかもしれない。
デジタル理論的な打ち筋をまったく無視する打ち手が、ふたりも麻雀対局の場に加われば、その麻雀の場は、デジタル理論的な確率計算では予測できない捨て牌やロン牌が頻出してくることだろう。
そのようになったとき、そんな麻雀対局における場は、デジタル理論的な場のままに推移するものなのだろうかと思えてしまう。
その場の全員が、オカルト理論的に打ち進めれば、その勝負の場は、デジタル理論的ではない当たり牌が増え、オカルト理論的な濃度、オカルト理論的な気配が増すのではないか。
牌の切り方・牌の残し方が、デジタル理論的ではないのだから、場全体の確率構成は、デジタル理論の大筋からは、大きく乱れることになるかもしれない。
オカルト理論的な打ち筋に不慣れで理解できないデジタル理論派の打ち手は翻弄されて、オカルト的な支配力でもって、オカルト理論派の雀士が勝利を収めてしまうこともありうるだろう。


人間の意識・無意識もまた、オカルト理論的な場の醸成に手を貸すことも有り得るだろう。
流れなどないと言葉では言いつつも、流れを信じる強気の打ち手のごり押しに、無意識に引いて降りてしまったら、彼は、流れの醸成に加担していることにもなるだろう。
無意識という悪魔は、オカルト理論の普及を手助けしている厄介な存在なのかもしれない。
特に、素人雀士の集まりや、集中力の薄らいだ長時間の麻雀などでは、それは病魔のように浸透し、集団無意識の姿をとることもあるだろう。
このような集団無意識をうまく活用できれば、オカルト理論的な打ち方で勝ち進めることもありそうに思う。


現代科学では説明できない疑似科学・似非科学が、科学の進歩によって、科学の仲間入りを果たすことがあるのかもしれないのと同じように、オカルト理論もまた、雀士の思考を詳しく研究すれば、実はデジタル理論だったという可能性もあるのかもしれないと思う。
常人には認知できないような些細な情報を読み取って、それを積み重ねることで、場から得られるデータというのもあるのだろう。
捨て牌読みとかスジ理論とか、知らない者からすれば超常能力のような現象であるし、その更に上の法則を感覚として導き出しているオカルト派の雀士というのもあるのかもしれない。
実は雀士の頭の中には、本人すら掴み切れていない、隠された変数が存在しているのかもしれない。
確率論も虚数概念も量子論も、提唱された時期においては、まるでオカルトのように思える理論であっただろうし、非ユークリッド幾何学や熱力学も、始まりはオカルトのような受け取られ方からスタートしていたようにも思う。
今のところはオカルトの振る舞いを見せるデジタル理論があったとしても、なんら不思議なことでもなかろうと思う。
…と、いうより、わたし自身が、そういう雀士がいても面白いだろうと思ってしまっている。
意志の力でツモ牌を呼び込むといった主張になると、そこまで来れば精神論に過ぎるけれども、そんなハッタリで自身のキャラクター性を確立するプロ雀士の方がいてもいいのではないかと、個人的には思っている。


麻雀は、将棋やチェスなどとは違って、実力のみの勝負事ではない。
麻雀は、現実世界と同じように、運(ツキ)の要素の介在するゲーム性を特徴としている。
運(ツキ)をコントロールしているかのように見せるブラフで、相手をテンパイから降ろさせるような戦術というのも考えられる以上、オカルト的な要素が主役となって、場を支配するということも有り得るのではないかと考える。
こいつはツイている、こいつは豪運の持ち主だ、そう思わせることすらも、強運を呼び寄せる要素となり得る。
正直、牌選択の解答がただひとつに収束されていくような完全デジタルの麻雀こそが、唯一の正しい麻雀ということになってしまったとしたら、麻雀というゲームの魅力は半減してしまうのではないかとさえ思う。
ツキや流れを信じることによって生まれる、勢い。
勢いとは、まさに自らの勢いを信じる者のみにしか生み出せない。
勢いを信じない者に、勢いは作り出せない。
ツキや流れや勢いを否定する者には、ツキや流れや勢いは、永遠に訪れないのではあるまいか。


人生というものが、デジタル的な思考のみでは成功できないのと同じように、麻雀もまた、デジタル的な思考だけでは成功しないのではなかろうか。
人生には、結果論として豪運の持ち主という人物もいるだろうし、結果論として徹底的にツイていない奴だっている。
それがデジタル理論的に正しくないからといって、麻雀においても人生においても、失敗をなかったことには出来ないものだ。
デジタルを翻弄するようなオカルト的な不遇が起こり得ることも、人間は覚悟していなければならない。
なんとも胡散臭いように思えるオカルト的な要素もまた、人生の、そしてまた麻雀の、ひとつの側面であろう。
将棋やチェスでは味わえない、麻雀の醍醐味がそこにある。
麻雀が、胡散臭いツキのゲームであるからこそ、初心者が、麻雀歴数十年の大ベテランにも勝つことだって有り得ることだし、たとえ素人がプロ雀士に勝ったとしても、そのプロ雀士の品位が落ちるようなことはない。
そのようなゲームは麻雀ぐらいのものであろうし、そこがまた麻雀の大きな魅力のひとつともなっていよう。
確率を追い求めるデジタル理論は、まぁその通りなんだろうとは思うけれども、そんなデジタルを一蹴するかのような存在感を放つ人物がいてくれた方が、麻雀という競技の痛快さが増すのではないかと思えてしまう。
けれども、そうかと言って、古めかしい精神論やこじつけのような流れ論は、今の時代にそぐわないとは思うので、もっと洗練された、疑似科学を思わせるようなスタイリッシュ・オカルト麻雀論を見てみたいと思うのである。

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