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信濃村上氏にまつわるダーティーな魅力がおもしろい。その①

中世の東北信地域に一時代を築いた信濃村上氏は、なかなかにダーティーな魅力を秘めた一族であると思う。
村上氏は、その発祥の説話からして、実にダーティーである。
平安時代、兄・源惟清が、白河院を呪詛したという事件に連座して、弟・源顕清が信濃国に配流になるところから、信濃村上氏の歴史は始まっている。
源惟清という人物が、どのような経緯で、どのような方法で、どのような感情で、白河院を呪詛したものか、勉強不足のため内容は詳細にはわからないものの、当時、賽の目と鴨川の流れと僧兵のほかは、思い通りにならないものはないとまで豪語する白河院を呪詛するという時点で、なかなかにダーティーである。
そんな大叔父・源顕清の養子となり村上姓を名乗った村上為国は、保元の乱において崇徳上皇方に加わり敗者となるものの、お咎めを受けることはなかったという。
乱に参加した崇徳上皇、藤原頼長、源為義、源為朝、平忠正など、天皇家、摂関家、源氏、平氏問わず、厳しい処罰が行なわれたものの、村上為国がお咎めなしとなった理由は、後白河天皇方の実力者・藤原信西の娘を、妻として迎えていたからだという。
平清盛や源義朝でさえ、身内の源氏・平氏を助命することが出来なかった中で、そのような立ち回りは実に巧みではなかったろうか。
逆に言えば、藤原信西とそこまでの関係性でありながら、信西・後白河方に味方することなく、崇徳上皇方についたその度胸もまた豪胆であると感心する。
このあたり、なかなかにしたたかで、一筋縄ではいかない人物であったように思う。


歴代村上一族の立ち回りもまた、なかなか一筋縄ではいかないしたたかさを見せてくれている。
為国の弟・村上定国は、保元・平治の乱のあと、瀬戸内海に拠点を移したという。
瀬戸内では、周辺の海賊衆と親交を結んだものか、村上定国の名は、村上水軍(村上海賊)の初代として伝承されている。
気性の荒かったであろう海賊衆を取り込み、その頭目として担ぎ上げられるところなど、村上一族の持つ無頼漢としての度量とカリスマ性を感じずにはいられないエピソードでもある。
一方で、為国の子・村上信国は、次の時代、源平の決戦期である治承寿永の乱を、巧みな立ち回りで生き抜いた。
村上信国の姿は、はじめは、信州の諸侯をまとめあげて挙兵した、木曽義仲の軍勢の中にあった。
同じ東信地域の滋野三氏が中心となって盛り立てていた木曽方であるから、地勢的に自然の成り行きであったとも言える。
木曽義仲は、信州とその周辺の勢力を従えて上洛の途につき、天才的な武力と采配により平家方を追い詰めてゆく。
京に辿り着き、義仲が後白河院に謁見したとき、信州の諸侯は誇りに満たされていたと思われるが、ひとり、村上信国だけは違っていたようだ。
木曽の山中に育った義仲は、田舎育ちの純朴さ、あるいは粗暴さを露呈し、後白河院や貴族たちの指示を得ることは出来ず、ついには院と対立するまでに及ぶ。
そんな情勢の中で、村上信国は、早くから後白河院の側に鞍替えし、義仲を追い詰める側に回っていた。
やがて鎌倉方が上洛してくるに及んで、今度は鎌倉殿・頼朝のもとに従い、義経の軍に加勢して木曽方や平家方を滅ぼす側として行動したのである。
まさに機を見るに敏の変わり身の早さであるが、ここまでのものであれば、かえって美しい立ち回りであるとさえ感じてしまう。
けれども、状況は村上信国の思惑よりも複雑に推移したようで、早い段階から源頼朝に接近しすぎたことが仇となり、その後の北条氏の天下には乗り遅れてしまうこととなった。
北条氏が信濃守護職を半ば独占したこともあり、長らく信濃村上氏はアウトサイダーの立場に置かれたであろう。
その後しばらく、信濃村上氏の動向は、資料上は見られなくなる。


次に村上一族の活動が活発になるのは、やはり戦乱の時代であった。
南北朝時代においても、村上氏は、複雑な動きを見せている。
最初は、反北条氏の立場からであろうか、村上義日(よしてる)が、後醍醐帝の皇子・護良親王の挙兵に参陣している。
村上義日は、倒幕運動・元弘の乱のひとつ、吉野城の戦いにおいて玉砕を遂げ、南朝方の忠義の臣として名を残すことになった。
軍記物語上では、護良親王の甲冑をその身にまとい、護良親王の身代わりとなって自害するという壮絶な最期を迎えている。
立ち回りの巧さだけではなく、いざというときに矢面に立てる武人としての姿もまた、信濃村上氏にはあったように思う。
けれども、義日の弟・村上信貞は、そんな兄の理想を継いで南朝方に加勢することはなかった。
村上信貞が従ったのは、後醍醐帝を裏切ることになる足利尊氏である。
このあたり、南朝方・北朝方と後世の区分で考えてしまうと、兄弟間でまったく別の理想を追い求めていたようにも思えてしまうが、後醍醐帝の南朝方も、足利尊氏の北朝方も、はじめは同じ反北条・倒幕派と考えれば、兄弟間の整合性も取れて見えてくるような気がしている。
信州の尊氏派としては、信濃守護に補任された小笠原貞宗が筆頭に挙げられるけれども、村上信貞もまた、尊氏にとっては決して敵に回すことの出来ない存在であったのだろう。
中先代・北条時行を擁立して動乱初期に鎌倉まで攻め上った諏訪氏・滋野三氏たちを抑え込むためにも、小笠原貞宗・村上信貞の果たす役割は重要であるに違いなかった。
村上信貞は、信濃国にあって、小笠原貞宗と並び立つほどの武装集団を擁していたのであろう。
足利尊氏も、その処遇に苦慮した様子である。
尊氏は、村上信貞に信濃惣大将という肩書きを与えることで、その面目を保ち、信濃守護職・小笠原貞宗とも対等に近い関係で共闘できるように取り計らったものと推察される。
かくして、信濃惣大将・村上信貞は、信濃守護・小笠原貞宗とともに、信州北朝方の両巨頭として、信州南朝方の諏訪神党勢力と、南北朝の動乱を戦い抜く。
やがて、桔梗ヶ原合戦で北朝方・小笠原氏に敗れ、敗色濃厚となってきた南朝方は、刃こぼれしていくかのように、暫時、その旗色を北朝方に変えていくことになるが、信州南朝方の要石である諏訪氏が、宿敵である小笠原氏に臣従する段をもって、ついに信州南朝方は衰亡を迎えることとなる。
小笠原氏は信濃守護として信濃一国を支配下におさめたと感じたであろうけれども、ことはそう単純ではなく、信州にはすでに次なる火種がくすぶっていた。
村上氏が、信濃守護・小笠原氏の信濃一国支配を認めなかったからだ。

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