IWBL
誰かが言った。
「愛があるとかないとか、僕にはまだ分かんないけどさ。でも、人と人が抱き合ったら、どう考えたってそれはもう、嘘なんかじゃないでしょ」
私はいまだにふと、その言葉の意味を考えるときがある。
・
もう二度と会わない人と話すとき、私は嘘ばかりついた。
いもしない双子の妹の話をした。
好きでもない小説の一節を楽しげに繰り返した。
本当はもう覚えていないのに、小2にみた井戸の夢の話を鮮明に聞かせた。
もう二度と会わない人にほんとうのことを話したって、無駄だと思ったのだ。
だって私たちはランダムに仕組まれた無機質なシステムのなかで、いとも簡単に出会えてしまう。
人はそれを運命なんて呼ばない。
口が裂けても。
「スワイプして消去。スワイプして消去。スワイプして、消去。」
「そんなことをして何になるのさ」
「儀式だよ。これはただ、尊厳を殺す儀式。」
「傷つくんじゃないの?」
「傷ついたりなんかしないよ。だって皆、私のこと知らないから。」
・
流行病で東京が鬱屈とし始める少し前、私は彼に出会った。
少し遅れて吉祥寺の映画館に着くと、彼はベンチでホットドッグを食べていた。
彼の好奇心に満ちた野生的な「目」が、必要以上にきらきらしていて、私を横暴に捉えた。
そのとき私は、彼にだけは嘘をつけないんだと悟った。
今なら分かる。
私は、その目がたまらなく怖かったのだ。
・
彼が隣にいるだけで、私は迷子の子供のようにおぼつかなくなった。
嘘をつけないというのは、こんなにも心もとないことなのか、とうろたえた。
皮肉なことに、ほんとうを纏った私は、どうにもほんとうらしくなかった。
映画の内容はほとんど覚えていない。
「ピーナッツバターのシーンあったっけ。」
「どうだろう、忘れちゃったよ。」
「面白かった?」
「ううん。」
「つまらなかった?」
「、、、ううん。」
・
神楽坂の路地裏は夜。私たちは一定の距離を保って歩いていた。
実家のベランダの話や、乗りたい列車の話、太ももの裏の話など、私はひとしきりの真実を彼に語った。
しかし、私が焦ってほんとうの話をすればするほど、私の存在は薄れていき、彼は私に興味を失っているようにみえた。
だから私はしばらく、黙ることにした。
すると今度は彼が話した。
彼が一番好きな時間は女の子と話しているときで、両親のことはあまり信用してなくて、夜中に猫を探しに出かけるのが趣味だといった。
しかし、彼の話は、きっとすべて嘘だった。
・
満月だった。
彼はビルに反射する満月とほんとうの満月を見比べ
「満月が2つあるね」
と喜んでいた。
私が2つの満月に気を取られているうちに、彼が隣にきていた。彼はあのある種暴力的な瞳を揺らし、楽しそうに笑った。
夜中じゅう、彼は私に軽薄で意味のない言葉を落とし続けた。
しかし、彼の「目」だけはいやに真剣だった。
爛々と輝くそれは、
まるで大切な宝物を愛でるみたいに、私を捉えた。
あの目。
あれがほんとうじゃないなんて。これがほんとうじゃないなんて。世の中はきっとどうかしてる、と思った。
つまり、ほとんど、絶望していた。
ノイズだらけの暗闇の中で、私は依然として戸惑っていた。
もう二度と会わないのに、どうしてほんとうのことなんて話してしまったのだろう。
・
それからというものの、流行病に覆われた東京はついに鬱屈しきり、数多の希望や可能性や明日を慈しむ純真やらが、あっけなく散っていった。
そして今、僅かな光が差し、愛すべき退屈な日々が再生されようとしている。
そんな世界の混沌とはいっこうに関係なく、ただ個人的な事実として、彼はもう戻らない。
あの目がもう一度私を捉えることは、きっともうない。
だから。
今なら1つ、とっておきの嘘がつけそうだ。
「 」
さすがにこんな嘘、誰だって信じやしないでしょう。
・
数ヶ月前、コンクールに応募することもやめて、映画も見なくなって、とにかくなにもしたくなくなるような圧倒的なできごとがありました。
私はこれまで、物語(虚構)の力を信じてきました。虚構は現実に勝てると本気で思ってたんです。
でも圧倒的な現実のあまりの強さに、それこそ希望や可能性や純真が打ち砕かれ、もしかしたら物語の歴史は、現実への敗北の歴史に他ならないのではないかと感じるようになったんです。
虚構はなにも救わない。現実の強さには打ち勝てない。なぜなら空想だから。すべての美しい言葉はからっぽで、弱くて、無力で、だから目の前の戦火を消すことはできない。戦火を消せるのは、現実の固くて強い、目に見える武器だけなんだから。
そうなると、私のしてることってなんなんでしょう。他人を救わないばかりか、自分自身も救わない。もうやめたほうがいいんじゃないかと。
とにかく私は自分を構成してきたすべての要素から離れたくて、大切な多くの人と縁を切りました。
そして小さな部屋を借りて、一人で静かに住むことにしたんです。
何時間、何日も、静かな部屋で一人、目を閉じていました。何か大切なことを考えていた気もするし、何も考えてなかったようにも思います。
なんにせよ、再び目を開けたとき、またかけるかもしれないと思ったんです。
支離滅裂で、的を得ていなくて、文法もぐちゃぐちゃで、誰にも届かない話になってしまったかもしれません。
でも、軽薄な彼には感謝しています。夜中に暗い部屋でうずくまってるとき、今でもたまに思うよ。また会いたいって。
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