師が欲しいあなたへ:あなたは師を得ることが出来ません

ここで言う「あなた」とはもちろん私のことで、これから書くことも100%私の話です。それでも自分と似た考えの人や、似た境遇の人には刺さるところがあるだろうと思いますので、自分への戒めをここに書き残しておきます。

これまで自分は、人生の様々なタイミングで「師匠的な人が欲しい」と思い続けてきました。しかし、どのタイミングにおいてもそんな人は現れませんでした。実のところ、その「師匠が欲しい」というマインドこそが、師匠を得られない理由なのではないか、というのが記事の内容です。

皆さんの中でも何か思うところがありましたら、ぜひご感想をいただけたらと思います。


師が欲しい、というマインド

「師匠的な人が欲しい」というのを思うのは、まさに「あの人には師匠的な人がいるんだ」というのを思うときです。

「師匠的な人がいる」というのはとても羨ましいことのように思えます。師匠的な人は、既に何かしらの経験を積み、知識を体系化しています。その教えを受ける人は、自分の考えを安心してぶつけられる相手を前に、常に自分の相対的な位置を把握でき、真っ直ぐに轍を踏むことなく成長することができる。

思えば、自分はずっと独りで何かを学んできたような気がします。特定の師を持たない、まるで親のいない子供のように、安定しない環境を移ろいながら生きてきた。

そんな中で、生きるために器用さを身につけた。何事もそれなりに上手くやれるような器用さ。しかしそのために、なんでも上手くやれる自分に変に自信を持ってしまい、逆に器用に上手くやれない他の人たちを信じられなくなってしまった。信じられないので、なおのこと誰にも頼らず、自分の力で生きようとしてしまう。

そうした経験はある種の自負にまでなり、さらに自信を強化してしまう一方で、「このままではいけない」という自覚も器用だからこそ持ててしまう。

この過信・慢心を抱えてひとりで生きるのは良くない。誰かにこの性根を叩き直してもらいたい。師匠的な人が自分も欲しい!

そんな風に師匠的な存在への憧れを持ち続けて、自分は今まで生きてきました。

師を得られないのは、師が欲しいから

趣味において、仕事において、さまざまなシチュエーションにおいて師匠的な人が欲しい! と感じるタイミングがありました。が、師匠的な人を得られたことは一度たりともありませんでした。

いったいなぜなのか? 何か違和感を抱きつつも、「いや、自分はそういう運命の元に生まれたのだろう、それが自分の人生なのだ……」なんて風に開き直って、孤独に生きることを誓った日もしました。

しかし、三十歳を目前に自分のこれまでの人生と照らし合わせて、ようやくこの違和感と向き合えるようになってきました。

異なるシチュエーション、異なるタイミングで師匠的な人が欲しいと願いつつ、いつも自分は師を得られなかった。それにはやはり、何かしら明確な原因があるのではないだろうか。

もしかすると、この「師匠が欲しい」というマインドこそが、師匠を得ることが出来ない理由なのでは……?

自分よりも経験や知識があり、優れた能力を持っている人たちは沢山見てきました。しかし、そうした人たちも自分の師にはならなかった。

ですがそれは「師になってくれなかった」ではないわけです。つまり「自分が相手を師とみなしてこなかった」だけなのではないか。

誰も信じないことで、師を見逃し続けている

自分の思っていた「師が欲しい」は、言い換えれば「自分が師として認められる人が欲しい」という思いだったのではないかと気が付きました。

それは「自分の認めた人しか信じない」という態度です。結局は自分のことしか信じていない状況がそこにあります。

この過信や慢心に基づいた「自分しか信じられない」というマインドのせいで、自分は師になり得た人たちを見逃してきたのだと思います。

逆を言えば、このマインドを手放すことさえできれば、たくさんのものから教えを受けることができるかもしれません。

「自分が認める人を師とする」のではなく「いま目の前にいる、あらゆる人が師である」という謙虚な考えです。

ちゃんと教わる、ちゃんと求める

とはいえ「謙虚さは大事だ」というのは重々承知しています。自分にしても、これまでもずっと意識してきました。謙虚であろうと思い、多くの人に「ぜひ色々と教えてください」と伝えてきました。

しかし、考えてみれば「教えてください」と伝えたうち、本当に教わりにいった回数はどれほどのものでしょうか? 自分としては謙虚なつもりでも、結果を見れば口だけで、謙虚を装っているに過ぎなかったような気もします。ポーズでなく本当に謙虚であるために、相手を師とみなして「ちゃんと教わりにいく」必要があります。

では、その「ちゃんと教わる」とは何なのか? 重要なことは、フィードバックを求めることではないでしょうか。

単に知識を得るだけなら、相手と関わるまでもなく、側から一方的に見ているだけでも多くのものが得られます。しかしそれでは、自分が学びたいことだけを学んでしまい、やはり自分のことしか信じていない、孤独な状況と何ら変わりません。

自分の求める師との関係には、双方的なコミュニケーションが必要になります。そのためには、まず何か自分の考えであったり、作ったものを相手に手渡して、それに対してのフィードバックを貰わないといけません。

師を持つためには、まず目の前の人を師だと思う。そしてその人からただ見て学ぶのではなく、直接教えを乞う。それが出来る謙虚さがあるから、人は師を持つことが出来るのだなあと思いました。

まず、良い弟子になる

口では「師が欲しい」と言いつつ、結局は自分しか信じられず、師を持つことを拒否してきた……というのがこれまでの自分でした。ただ、ここまでは弱いながらも自覚を持っていたのですが、それを変えるために取るべき行動を理解していませんでした。

ちゃんと教わるとは、ちゃんと求めること。ちゃんと求めるとは、ちゃんと関わること。自分の選んだ人ではなく、誰に対しても。一方的ではなく双方的に。

漫画やアニメなんかで「弟子にしてください!」と頼み込むシーンがありますが「師匠になってください!」とはあまり言いませんよね。弟子が先にあって、師が生まれるのかもしれません。

だから、良い師を求めるには、まず自分が良い弟子になるべきなのでしょう。自分も教える側で経験がありますが、素直に学んでくれる人に対しては、もっと教えてあげたい! と思うようになります。良い師を持つ人たちのように、自分もまずは良い弟子であろうと思います。


……ちなみに、これは師弟関係に限らず、友人関係とかも同じなんだろうな〜と思っています。

自分が「消しゴム理論」と呼んでいるものがあり、「消しゴムを借りられる関係だから消しゴムを借りられるだけでなく、消しゴムを借りることで消しゴムを借りられる関係になることもある」というものです。友達を作るにはある種、そういう厚かましさが必要かもです。

もちろん一方的に消しゴムを借り続けるヤツは友達か微妙なので、「こないだは消しゴムありがとう。君も困ったら何でも言ってね」とちゃんと伝えるべきですが。

そのように友達も双方的であるべきですが、少なくともその最初のきっかけとして「あえて先に与えてもらう」のは悪くない、むしろ良いことなんじゃないかと思います。

Give and Takeと言いますがGiveがあってからのTakeではなく、Takeが先でその後にGiveが来てもよいのだと。なんならその方がよいぞというお話でした。

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