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映画「洗骨」を観て考えたこと

どうもお久しぶりです。
今回は、先日観に行った映画「洗骨」のことについて書きます。

映画「洗骨」について

映画「洗骨」は、照屋年之(ガレッジセール・ゴリ)監督が、過去に手がけた短編映画『born、bone、墓音。』を原案に新たに制作した長編映画です。
「洗骨」とは、遺体を土葬や風葬などの方法で埋葬した後、骨だけになった頃に家族や親戚などの手によって棺桶から骨を取り出しきれいに洗うことで、死者が「この世」や遺族との別れを告げる風習のことです。
現在では、実際に行う家庭はごく一部だと言われています。
この映画は、粟国島という沖縄の離島に暮らすある家族が、亡くなった母親を風葬しその骨を「洗骨」するため、4年ぶりに島に集まるところから始まります。
しかし、4年ぶりに集まる家族(父、息子、娘)は、それぞれ当時とは違う問題を抱えているのでした。
「洗骨」という生と死にまつわる風習をキッカケに、登場人物の心情が変化していく様子を描いた映画となっています。

公式HPはこちら。

沖縄映画あるある

この映画は、沖縄出身の照屋監督の作品ということもあり、沖縄独特の面白さを含んだものとなっていました。
映画の中にザ・沖縄のおばー(おばちゃん)が出てくるのですが、そのおばーは、沖縄独特のイントネーションや沖縄県民ならではのあるあるネタを次々に繰り出してきます。
もう沖縄に住んでしばらく経つので、そのネタももちろん面白いのですが、それ以上に面白いのは、それを聞いたお客さんがしっかり反応するところです。
本当に笑うんですよ、大きな声で。笑
まるで実家のテレビでバラエティーを観ているような感じです。笑
この雰囲気はとても良いと思いました。
生と死がテーマという、一般的には少し重い内容ではありますが、その中で多くの人に受け入れやすいようにした監督の演出を、しっかり受け取るお客さん。
この構図は理想的だなって思いました。

「洗骨」という風習の価値

僕はこの映画を知るまで「洗骨」という風習を知りませんでした。
実際、最初知った時はハードな風習だと感じました。
1度悲しんだ後、変わり果てた死者の姿をまた見るわけです。
その上、その骨を洗うなんて、僕には考えられませんでした。
しかし、映画を見て印象が変わりました。
「洗骨」という行為は、死者を弔う行為としてあるのはもちろん、生きている人たちに対してのメッセージも含まれていると感じました。
映画では、生きている人たちは「洗骨」を行うことで、改めて親族とのつながりを確認し、お互いに強め合うことができているように見えました。

同時に、個人を尊重される時代になりつつある現代においては、このような風習や文化は減りつつあるのではないかと感じました。

人間が孕んでいる醜さ

僕は、この映画を観て「人間の醜さ」を感じました。
最初の方に映画の紹介で書いた家族が持っていた問題は、どれも人間の弱さから生まれるものでした。

人間には、それぞれ弱さがあり、それを認めつつも隠したり、さらけ出して傷ついたり、そしてまた隠したり。。その繰り返しの中で、自分の立ち位置やキャラを確立することで、現代を生きているのではないかと思います。
そして、それぞれ様々な顔を持ち、場所によって使い分け、自分の居心地の良いところを探しています。
そんな時、言いようのない孤独感を感じることもあるでしょう。その瞬間に、人との「つながり」を求め、そこに強い恣意的な感情が生まれるような気がします。
ここでいう「つながり」とは、リアルな世界だけのものではなく、バーチャルの世界のものも含みます。その垣根は徐々に低くなっていると、みんなが感じてるはずです。
そこで、最小であり特別な「つながり」の1つとして家族はあるべきで、その捉え方や価値は変わるにしても、蔑ろにすべきではないものだと思いました。
個人の社会や個人が尊重される社会と言われつつある現代ですが、家族の「つながり」を再考する機会はいつまでも必要だと思います。

映画「洗骨」を通して

僕はこの映画を観て、「洗骨」という風習から様々なことを考える機会を得ることができました。
僕にとっては、控えめに言っても衝撃的な風習ではありましたが、その行為に含まれた意味を考えることができました。

普段生きている中では、あまり馴染みのない生と死というテーマ。
定期的にこのようなテーマに触れ、生き方や人とのつながりにについて考えるようにしたいと思います。

ではでは。

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