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カメラと覚えていること

京都に生活の場を移してもうじき丸一年になるわけだが、仕事もまぁほどほどに馴れてきて、秋口に町家を引き払って移った今の部屋の暮らしも落ち着いた年末あたりから、わりと明確に余裕ができてきた。そこで、これまで仕事にかまけて捨て去れられていた趣味(今では、そういってよいと思う)たちを、すこしずつ再開したいとぼんやり思うようになってきていたところに、あの Paypay 祭がやってきたのだった。機材を入れ替えて、すこしマジメに写真を撮ることを再開してみようという気分になったのである。

そうした気分になったまではよかったが、肝心の買うべき機材が決まらずに一週間ほどうんうん唸っているうちに、結局 Paypay はのがしてしまった。なにしろ、検討すればするほど Leica が欲しくなるばかりなのである。はじめはそれまで使っていたミラーレス(Panasonic Lumix DMC-GF2)と同じくらいの、レンズも合わせて十万円くらいの気分でいたのに、結局定価五十万オーバーのシロモノを買うハメになったうえに、20% の還元も逃しているのだから、Paypay はなかなか大した仕事をしたものだなと思う。そうしてぐだぐだと悩んだ挙げ句、結局、ヤフオクで中古の Leica を買ったのであった。

最終的にライカにしたのは、写真をまた始めてみるのなら、機材の弱さのせいにする部分というのをいったんゼロにしたかったからだ。写真を撮っていて、思うように撮れることというのはまずないわけだが、それをカメラがしょぼいからだ、と思いながら撮るのなら、そもそもやらないほうがいいな、と思ったのである。

そうして買ってみてひとつきあまりが経ったわけだが、たしかに以下の紹介記事にあるような写真が撮れる。実力やセンスというのはほぼ関係がない。はじめに 1, 2 時間ほどまじめにウォームアップをすれば、誰が撮ってもだいたいこのレベルの写真になる。

と言いながら、あらためて記事を見てみて、あれ、この人たち、めちゃうまいやん、と思ってしまっているわけだが(笑)、それはともかく、いちおう私のものも並べておくとしよう。

私の写真のほうがパッキリさが足りなし、構図にもとくに見どころがないわけだが、このあたりがおそらく撮る人間の実力の差といったものであろう。まぁ、レンズも 18mm と 23mm とで、多少違うわけだが、そこまで大きな差ではないだろう。

よいカメラのよいところというのは、切りとったその像から、被写体とは別の意味内容が生じるところだ。いま何をしているかではなく、いま何を見ているかが写るカメラがよい。そして、それはだいたいのところ、ようするにあらためて自分の視界を見るということなのである。

人によっては、写真はメッセージだとか、芸術だとか、自分の思う世界を表現するための道具だとか、高い機材を乗りこなしている充実感が大事とか、そういった様々な用途や取り組み方がある。私もご多分にもれず高いカメラを買うにあたって、それから買ってからはなおさら、自分はなんのために、こんな高い道具を買って、それなりに手間をかけて使っているのだろうかと自問しているわけだが、私にとって写真を撮ることというのは、ようするにこの視界なるものを取っておく、ということにつきる。

そこには私のものの見方が、それなりに直截的に現れてきているので、私は私のためにそれを保存しておくのである。私は基本的には、私の見ているものを、私の見ているようにしか、写真にうつし撮ることができない。私が小説を書くのも、結局はそういうことなわけだが、写真もまた同じだ。私はわたし自身が何を見ていたのかとかそういうことがよくわからないので、いくつか取っておいてあれこれ検討したいのである。

覚えていること、忘れてはいないということ。これが私にとって写真を撮るうえでもっとも大事なことである。覚えている価値のある視界というものが私にもあったのだ、とそう知ること。

さいわいにして、Leica はそうした私の要求にこれまでよく応えてくれているように思う。それどころか、ときどき(というかしばしば)私よりもよく見ることができるようでさえある。写真を撮り終え、部屋に戻ってきてから、写真を取り出して選別する作業がそれほど苦にならないのは、おそらくそのためだ。写真にしてあらためて眺めてみると、そこにはよい視界というものが広がっているのである。これも私の書いた小説を私自身が読んだときに感じる感想と一緒である。

そんなこんなで、昔撮った写真なども掘り起こして順番に眺めてみたりしているのだが、やはり撮っておいてよかったと思うことがそれなりにある。写真自体の出来はともかくとして、それを撮ったときのことをよく覚えている自分というものに気づくからだ。それを通じて、私にも過去があるのだ、という感覚を持つことができるのである。

そして京都は撮りやすい街だ。フォトジェニックな寺社仏閣がそれこそごまんとあるし、写真を撮るには、適度に賑わい、適度にひなびた街があり、そこに異物として入り込んできて見どころのある情景を作ってくれる外国人観光客たちもいる。今では街を歩く和装の9割5分は外国人で、そのうちの6割は中国人であることになんの驚きもなくなった(たぶん、そういうセットツアーが大々的に販売されているのである)。彼らはこちらがカメラを向けてもほとんど気にしないから、私のように適当に撮っているものにとっては、よい被写体である。建物の背が低くて、空が広いのも写真向きである。空を見ながら暮らすのは、ここでは普通のことだ。それから東寺などに納められた国宝たちを眺めると、なんだかんだいっても工芸の技巧という意味では、数百年前からとくに進歩していない私たちというものがごく自然に認識される(というか、国宝作ってる人たちって、まじで超絶技巧だよね)。

そうしたことを考えながら、京都の町をうろつく習慣がじょじょについてきているのは楽しいことである。おそらく、そのうち書くことも再開するのだろうが、こちらのほうがさらに骨が折れるので、しばらくはカメラをいじりまわして過ごそうと思う。というのも、ほんとうに少しずつではあるが、だんだんと気が散じてきて、私のまわりにあるあれやこれやに目が向くようになってきているのである。東京で暮らしていたころは、なかなかこうはいかなかった。前職のころは、自分がどこにいて、何をしているのかよくわかっていなかったと思うし、自らそれをよしとしていたのだった。今、それをふりかえって、俯瞰してみてもとくに思うことというのはないわけだが、次はもうすこし基本的な部分から考えて取り組んでいけたらと思っている。カメラはそのための道具である。

京都はもう数百年来、過去の街だが、こうして過去に生きることを始めた私には適当な場所である。答えは最先端にあるのではなく、むしろ過去にある。重要なのは、覚えているのを思い出すということだ。

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