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それでもこの世界に希望を持つことができるのか

コロナ禍で多くの人が大変な状況に身を置くことになりました。

だからこそ、「それでもこの世界に希望を持つことができるのか」という問いへの答えを見つけられるだろうか、を考えてみることにしました。

まず、この世界の認識の仕方として以前noteで考えたような、「真善美」の枠組みで考えてみます。

「真善美とは?」というのを、僕は以下のように考えていて、「世界」をみるメガネは、「真」「善」「美」の三種類があると考えています。
○真は自然が決めること。
 natureを観察し、何が真で、何が偽かを探求するのがscience。
○善はみんなが決めること。
 何が善いことか、悪いことか、は他者との関わりの中で集団の合意によって決められている。
○美は自分で決めること。
 何を美しいと思うかは自分が決めている。

この枠組で世界を考える、ということは「自然」「みんな(他者)」「自分」という3つの視点で世界を捉える、ということになるかと思います。

そして「希望を持っている状態」は、時間軸と、空間軸の二軸に分けて考えることができるのでは?と考えました。
時間軸での希望は、「明日が今日より前進したものだと自分が信じられる状態」。空間軸は、「同じ時間の中で、より前進した状態があると信じられる状態」。

時間軸にしろ、空間軸にしろ、「前進」の仕方には、「真善美」のそれぞれの形があります。真の追求が進むか、善なるものが増えるか、美をより強く感じることができる状態であれば、きっと希望をもてるのでは、と考えました。

このように分解して一つずつ論理構成して考えてみよう、と思ったのですが、もったいつけたのに恐縮ですが、ただ、どの切り口をもってしても、僕は、そのいずれでも前進を信じることができるなあ、というのが実感としてありました。一方で、それを、例えばこのようなnoteのような場で公言することには、ある種の怖さというか、引け目を感じてしまいました。

僕は、きっと恵まれた人生をここまで送ることができていると思います。でも、自分で自分のことを恵まれている、というのがすごくおこがましいものであるように感じるように、その自分が、「この世界に希望をもつことができる」と発信することも、おこがましいし、発信してはいけないことであるようにも感じられるのでした。
「僕は本当に大変な状況にある人のことをわかっているのだろうか」
「僕が恵まれているだけかもしれないのに、勝手に、「世界」に話を広げちゃっていいのか」
「僕が希望を語ることで、誰かを傷つけてしまうんじゃないか」
というような疑問が浮かびました。

ただ、僕が現状を否定してしまったら、一体誰が肯定的に現状を捉えることができるんだろう、この世界に希望をもつことができるんだろう、という変な責任感にも似た想いも、感じていました。

上述の真善美の枠組みで考えれば、他者の存在や、他者との関わりの中で世界をみる「善悪」の基準からは、「悪」のように思える状況でも、同時に「美」を信じることはできるんだよなあ、と考えると、自分よりつらい状況にある人のことに想像力を膨らませながら、一方で希望を語ることもできるのではないか、と思えてきました。

一通りこのように考えたあとに、では、世の中ではどのように「希望」が語られているのか、ということを勉強してみることにし、そこで、希望を持つためのいくつかの考え方を知りました。

①人類の発展の歴史から

ベストセラーとなったFACTFULNESS。研究開発をしていた自分としては、「そりゃもちろんfactに基づいて世界を正しくみれているに決まっているでしょ」という強がりから、なかなか読めずにいた本だったのですが、オーディオブックでセールをしていたこともあって、ようやくチャレンジできました。そしてたまたま、自分の今の問題意識と一致する本であることを知りました。
この本は、これまで、人類がいかにして、不幸の総量を減らしてきたのか。科学や政策によって、世界的にいかに貧困を克服してきたのかを語ります。

すなわち、時間軸で、世界の善が前進している、ということをファクトを元にして証明することで、現代への希望を語るアプローチでした。

ビル・ゲイツも、factfulnessのことを推薦していたように、人類が真善美を進歩させてきたことを裏付けとしながら、希望をもって、気候変動に対する対策を語っていました。起業家であり、エンジニアであるビル・ゲイツの姿勢や、問題への取り組み方には、強く共感できるものがありました。

②人類の本質に迫るアプローチから

世界の重要な構成要因である人類が、いかに善良であるか、ということを、逆にこれまで、人類が善良でない、と主張してきた幾つのもの言説を否定することで、証明するアプローチです。

監獄実験などのいくつかの心理学上の重要な研究のスキャンダルを暴き、反証することで、人類に対しての希望を語ります。

いっときでもアカデミアにいた身としては、学術的な成果が、ジャーナリズムによって反証される、というのは、受け入れ難い側面があるものの、人類の本質に迫ることで、希望を語るアプローチは、時間軸での前進を証明するfactfulnesとは違ったアプローチで、どちらかというと、空間軸でのアプローチです。ただし、僕が希望には「前進」の要素が必要なんじゃないか、と考えたのとは違って、「本質が善である」という点から希望を語っていました。

③哲学者の言葉から

トマス・アクィナスの「肯定の哲学」から、この世界が善に満ちていることを論証するアプローチ。
2021年1月に出版された本で、あとがきで、著者が、コロナ禍で悲観的なものの見方が蔓延している中で、トマスの根源的な肯定のメッセージを伝える必要を感じた、と書いていらして、その問題意識にとても共感しました。

本の中で「希望」に関して、トマスの定義を明確に整理したフレーズがあり、それが僕の心を強く打ったのでした。

それは、以下の通りでした。

希望とは獲得困難だけれども獲得可能な未来の善

世界は善に満ちているより

僕が時間軸と空間軸に分解して考えたかったことが、端的に表現されているのを感じました。

時間軸という言葉で僕が表現したかったのは、「未来の善」であるという点。

そして、僕が空間軸という言葉で表現したかったのは、今は獲得困難に思われる善であっても、少なくとも将来にわたって考えれば、獲得可能なはずである、というのを、僕自身が体現する存在でありたい、ということだったんだな、ということがはっきりと分かりました。

また、獲得困難である、ということは、一方で、自分よりも大変な状況にいる人の存在も認めつつ、否定することもなく、おごる立場であると恐れる必要もないんだな、ということに、僕は大いに安心したのでした。そうか、誰も傷つけることなく、希望を語れるんだ、という発見がありました。

僕が1番しっくりきたのはこのアプローチで、要は希望をもつのに、何かの裏付けなんかいらなくて、ロジックと意志で語ることができるではないのか、ということでした。

そうしたなかで、ふと、アランの幸福論にでてくる次のフレーズに出会いました。

悲観主義は感情で、楽観主義は意志の力による

アラン幸福論

あ、出会いたかった言葉に出会えたかもしれない、という感触がありました。

このフレーズに込められた背景を探りに、図書館からアランの幸福論の本をいっぱい借りてきたので、年末年始はこのあたりに取り組んでみようと思います。

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