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【読書感想文】「叱る依存」について

今年の夏休みは、「叱る依存」についての村中直人さんの二冊の本を読みました。

この本に出会ったきっかけは、とある本に、村中さんの本からの引用が載っていたのを読んだことでした。

権力とは何か、を一言で言うならば「状況を定義する権利」である

<叱る依存>がとまらない

最初、お名前の漢字を一文字読み間違えて、「あの俳優さんって教育論の本も出されているのか。活躍の幅が広い方だな・・・」と勘違いしたのですが、ちゃんと検索して、村中さんの本にたどり着きました。

状況を定義する権利、家庭や会社で、持ってしまっている身としては、そうか、これを権力と呼ぶのか、とハッとしたのでした。

<叱る依存>がとまらない、は、村中さんの「叱る依存論」の理論的背景をまとめた本。「しかれば育つ」は幻想、は、前者をベースにしながら、村中さんと4人の有識者の方の対談がまとめられた本です。

「叱る依存」について

まず、「叱る依存」について簡単に本を要約します。

「叱る」とは何か

村中さんは、「叱る」を以下のように定義して議論を進めています。

言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為。

<叱る依存>がとまらない

「叱る」が叱られる人に与える効果

「叱る」がネガティブな感情体験を与える、という定義であることから出発し、扁桃体を中心とした脳の回路にまつわる「防御システム」が駆動する、と説明されています。
ここから、「叱る」には2つの効果があるといえるようです。
一つは、危機介入。もう一つは、抑止力です。
危機介入とは、眼の前で起きているよくない行動を、止める、変えることができる、ということ。
抑止力とは、叱られる側のネガティブな感情が抑止力となり、危険な行動や望ましくない行動を予防できる、ということ。

危ないことをしている子どもに対して、「こらー!」と大きな声を出して叱ったら、子どもはビクっとして、その行動をきっとやめるでしょう。

しかしながら、「叱る」が駆動させる「防御システム」は、「学びや成長」を支えるメカニズムではない、ということが知られているようです。
そのため、危機介入、抑止力の効果は、叱られている側の学習を促す類のものではなく、「叱られている」という苦痛からの回避行動でしかない。その状況をもたらしている原因には意識が向きにくくなって「なんとかしてこの叱られている、という嫌な時間を早く終わらせたい」という感情に支配される。

先日書いたnoteの「ハラスメントは連鎖する」の言葉を借りれば、「叱る」が「叱られる人」に与えるのは、あくまでも外部規範の強制であって、内部規範を新たに作ることができるわけではない、という指摘といえるでしょう。
何と言っても、「叱る依存論」と、ホメオスタシスの考え方をうまく織り交ぜると、もっといい議論になりそうな予感がする(が、力不足で僕はそこまではできない)。

「叱る」が叱る人に与える効果

また、村中さんの論で最も特徴的なのは、「叱る」は叱る側にも効果をもたらす、と指摘した点で、それは、本書のタイトルにもなっているような「叱る依存」と呼べる状態を作り出してしまうことです。

まず、「叱る」が叱られた人のネガティブな感情を引き出した結果として、叱られた人は、すぐさまその状況を回避しようと行動をします。前述のように、その裏側には学習のメカニズムは駆動していないにもかかわらず、危機介入と抑止は達成されているため、叱った側からすると、「効果があった」と勘違いしてしまう状況が生まれます。
これが、自己効力感、という「報酬」をもたらす。さらに、処罰感情の充足ももたらすことで、一層、報酬系回路が活性化され、「依存」とも呼べる状態が作られてしまう。

「叱る」が叱られる人の「防御モード」を駆動させて、短期的に「見かけ上の成果」が得られてしまうのに対して、本来、相手にもたらしたい学習を促進させようと思うと「冒険モード」を駆動させる必要があるのですが、「冒険モード」での学習は、成功確率が大きいパターンを選びやすくなる、というメカニズムなので、短期的には成果が見えにくい、という違いも、影響しているようです。

決して、「叱る依存」は特異なことではなく、この状態に陥ることをその人の人格の否定につなげたい訳では無い

大事なポイントとして補足しておかなければならないのは、村中さんは、この「叱る依存」という言葉を、そういった依存状態に陥ってしまった人を糾弾するためにつかう意図はない、ということです。むしろ、どんなに善良な人であっても、あるいは、叱っている相手のことを心から愛している人であっても、避けがたく、「叱る依存」に陥ってしまう可能性があるからこそ、そのメカニズムから理解して、対処していこう、という考え方です。

「叱る依存」におちいらないためには

そのような想いで書かれた本書のため、「叱る依存」から抜け出すための章には、こんなことが書かれていました。

「叱ってしまう自分」に悩んだとき、最もよくある落とし穴は「叱る自分を叱る」ことです。(中略)<叱る依存>の予防に必要なのは、禁止の発想ではなく「徐々に手放していく」発想です。

<叱る依存>がとまらない

この本から僕が感じたこと

ネガティブな感情から出発しない

「叱れば人は育つ」は幻想、の第5章で、佐渡島さんが印象的だった部分として挙げていた箇所は、僕にとっても印象的でした。

「叱ることがすなわち厳しくすることだ、という認識自体がそもそも誤りです。『厳しさ』の本来的な意味とは、『妥協をしない』ことや、『要求水準が高い』ことだからです。要求水準を高く保つことは、相手にネガティブな感情を与えなくても可能です。
『苦しみを与える』も同じことで、厳しくする=『叱る』『苦しみを与える』ではないのです」

<叱る依存>がとまらない

これ、ドラマ「アンメット」のクランクアップの際に杉咲花さんが寄せられていたコメントととても近いものがあるな、と感じました。(めちゃくちゃ好きなドラマです)

心がすり減ることとか、はらわた煮えくり返るくらいやり場のない気持ちになることとか、やっぱりあって。だけどそういう経験をしなくても、人は学べるし、成長できると思っていて。

https://natalie.mu/eiga/news/579058

この部分を読んで、僕は15年くらい前の就職活動のことを思い出しました。
とある企業の面接で、最後の最後に「あなたはこれまでの人生で挫折をしたことはありますか?」と聞かれて、なんか、そのときは直感的に嫌な感じがして「挫折?ないですね」と、まともに取り合わずに答えてしまった(そしてその企業とは御縁がなかった・・・)ことがあったのですが、あのときに感じた、何かよくないものを押し付けられている感じ。あの場からは逃げる選択をして間違っていなかったんだな・・・と15年越しに感じることができました。

あえて、「依存」という言葉を使わないとしたら

「依存」という言葉を選択した背景や、選択に一定の悩みにも触れられており、「依存」という言葉の持つ力については、村中さんもしっかりを書かれているのですが、あえて、「依存」という言葉を使わないとしたら、きっと、この「叱る依存」というのは、叱る人の「願い」が反映されてしまっているんだろうな、と感じました。

「こうあってほしい」とか「こうありたい」、あるいは「こうあらねばならない」という「願い」が誰の中にもあって、それを叶えるために、「叱る」つまり「相手のネガティブな感情を想起させて行動を変容させる」ということをしてしまうのだろうな、と。

僕なりの「叱る依存」の手放し方

「フィードバック」をする

僕自身が、どれくらい叱る依存を手放すことができているのか、特に、子どもたちとの関わりの中では、難しいなあ、と感じる日々なのですが、最近、僕が一緒に仕事をしている部署の方から、こんなコメントをもらったことがあって、もしかしたら、僕は職場でうまく「叱る」を手放せているかもしれない、と思いました。
※その方との関係性は、僕が「権力(=状況を定義する権利)」を有している立場です。

それは「あなたは、何かあったら、必ず後から指摘をしてくれるから、のびのびと仕事ができています」というコメント。

最初、このコメントをもらったときに、「後から指摘されるかもしれないと思っているのに、のびのびできるってどういうこと?」と、むしろ僕の側が混乱したのですが、「叱れば人は育つ」は幻想、の第三章で、中原さんが「フィードバック」について書かれていた箇所を読んで、ああ、ぼくはフィードバックができていたのかもな、と感じました。

僕の考えるフィードバックには二つのポイントがあります。
一つ目の働きかけは、「現状通知」です。たとえ相手にとって耳の痛いことであっても、率直に伝える。相手の行動がどう見えているかを、こちらの主観を交えずにありのままに伝える。頭は事実を盛りませんからね。鏡に映すかのように、事実を伝える。
二つ目は、「立て直しの支援」伝えたことを基に、相手がうまくできない部分を立て直していくのをサポートしていく。

「叱れば人は育つ」は幻想

たしかに、この「フィードバック」をできていれば、一緒に仕事をする方からすれば、ネガティブな感情を想起されることなく、学習をすることができるので、「のびのびと仕事ができる」という状態を作れるのかもしれない、と思いました。

具体的にどうやっているのか

これが、「フィードバック」の正解かわからないのですが、僕はこうやっているな、ということを最後に書いておきます。それは3つのポイントがありそうです。
①すぐ言う
気になったことがあったら、「1週間後の定例」とかを待たずに、その場でslackでコメントするか、すぐにオンラインのミーティングをつないでもらって伝えます
②攻撃する意図がないことを明言する
多くの場合、僕が「罰する」という立場になることはなくて、純粋に「なんでだろう?」と感じることがほとんどなので、そのことをお伝えします。
たとえば、「素朴な疑問なんですが、教えて下さい」と添えて質問する。
③意図を聞く
「これって僕からはこうみえているんですけど、どう考えて判断されましたか?」のように、相手の意図を汲み取るようにしています。

他にもありそうな気がしますが、思いつくのはこのあたり。書いてみると、確かに、相手のネガティブな感情を想起させないようなアクションができていたのかもしれません。

これ、僕としても、家庭での子どもたちとの関わりに、活かしたいな・・・という気持ちになりました。

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