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【読書感想文】ハラスメントは連鎖する

こりゃすんごい本でした。

自分の子育てとか対人コミュニケーションは大丈夫か??と、内省をものすごく促されて、読んでいて心にグサグサくるので、読むのに体力使うし、そもそも、出版は2007年で、いまは絶版になっているので、図書館で借りられないと、読むのはかなり困難(ぼくは住んでいる地域の図書館にはなくて、取り寄せてもらって借りられた)なので、みんな読んで!とおすすめするのは難しいのだけど、この本めちゃくちゃ良いし、これをベースに人と話したい、と感じました。

そのため、今回は、感想だけじゃなくてサマリーを書くことを意識してみようと思います。
この本、論理構成が緻密に書かれており、一部を抜き出して正確に伝える、というのは、けっこうなチャレンジではありますが・・・

タイトルに思いっきり「ハラスメント」って入っていて、「いや、ぼくはハラスメントをしたこともされたこともないが?」と思ってしまうのだけど、中身を読めば、これは人間理解についての本だし、どう生きるか、という本だということが伝わってきます。
そして、正直に言うと、ぼくはこの本の意味でのハラスメント、している。思い当たる節がありました…お前が言うか、というご批判は受け止めつつ、書いていきたいと思います。

サマリー

さて、ここからは、僕にとって印象的だったことを中心にサマリーをまとめていきます。

人の認知は、情動、感情、(そして意味付け)に分けることができる

まず、人の認知のあり方についての整理が、ここ数年ぼくが考えてきたことがきれいに言語化されていました。
安宅和人さんが、ダイヤモンドハーバードビジネスレビューに書いていた「知性の核心は知覚にある」と似たような考え方だな、と思いました。

認知神経科学の領域とかでは、オーソライズされた考え方なのかな…

図にすると下記の通りで、ある情況に接したときに、身体が反応して「情動」が生まれ、これを脳で処理することで「感情」が生まれる、と整理されています。さらに、生まれた感情に対して、ラベルを貼ることで、理性で処理できるようになります。

外界と、魂(これは、宗教的な意味ではなく、「人間が生まれたときからもっている本来的な運動状態のことを指す用語として使われているので、びっくりしないでください)の間に、インターフェイスが存在します。

このインターフェイスは、身体、と似たような意味合いで使われていると考えていいと思うのですが、ちょっと違うかもしれません。
いずれにせよ、インターフェイスの役割は、inputを自分にわかるように変換し、outputを相手にわかるように変換するもので、インターフェイスを通じて、外界とコミュニケーションを取っています。

人の認知は、理性だけで行われているのではなく、身体の反応が根本にある、という点を強調したいです。
体→心→頭、という順番で、全部を使っているのです。

ここからは僕なりの解釈ですが、この考え方を用いると、例えば「言語化力」という言葉の捉え方が変わってきます。
僕は、「言語化力」という言葉から、ある事象にいかに理性でラベリングするか、もっというと、語彙を増やすか、という点に比重が置かれている印象を受けていました。しかし、ラベリングは最終段階であって、まずは、ある情況に置かれたときに、心が動いたか=情動が発生したか、ということを知覚できるかが出発点になっている、と捉えることができるのではないでしょうか。だから「言語化力」を鍛えるためには、暗記も大事かもしれないけれど、インターフェイスを発達させ、自分の情動にセンシティブであることが必要となるといえます。

フィードバック-学習-インターフェイスの発達

さて、この、情動、感情という認知の形式を前提にすると、「フィードバック」という機構が重要になってきます。
人間を一種の変換装置にみたてると、インプット(情況)を処理して、感情を得て、これを言葉にしてアウトプットし、その結果がさらにインプットされます。この流れをフィードバックと呼び、文中では、ウィナーの定義を引いて「フィードバックの原理とは、自分の行動の結果を調べて、その結果の善悪で未来の行動を修正すること」とし、さらに、「回路そのものが、自らを書き換える能力を備えている場合、それを「学習」と呼ぶ、と紹介しています。

なぜ、この学習が重要か、というと、現実の複雑さを前にすると、すべてのパターンを事前に想定し、計算し切ることは不可能であり、フィードバックによって自分の認知を修正するしか、現実世界に適応して生きていく方法がないからです。

学習の効果は以下のように説明されます。

学習とはインターフェースを発達させ、世界に対する見方や取り扱い方を変えることである。

ハラスメントは連鎖する

「学習」についての説明だけだと、この概念の面白さが伝わらないので、この本の本題である「ハラスメント」の説明に移ります。

ハラスメント=学習をさまたげること

そして、ハラスメントとは、このコミュニケーションによる学習の過程に対して、次の二つのメッセージによって学習を断ち切ることによって起こる、と説明されています。

ハラスメントとは「人格に対する攻撃」「人格に対する攻撃に気がついてはいけないという命令」の二つの合わせ技であり、情動反応の否定とラベル付けの強制によって実行される。

ハラスメントは連鎖する

これ、具体例を出した方がわかりやすいと思うのですが、僕は、子育てにおいて思い当たる節がめちゃくちゃありました。
雷の音を怖がる子供に対して、仮に「雷がこわいなんておかしい!」と言ったとしたら、情動反応の否定とラベル付の強制と言えるでしょう。

以下は以前に書いていた自分のメモです。本書を読む前のメモだったので下記のメモで「感情」と書いていたのは「情動」のことだったんだな、と改めて思いました。

我が家の子供たち、特に6歳と2歳(当時)は、雷が鳴ると怖がって親の元にやってきて抱きついてきます(かわいい)。
この時に、かけてあげる言葉に、ふと、迷います。
「雷さん、おへそ取ったりしないよ。怖くないよ。」なのか「雷さん、怖いね。だけど父ちゃんたちいるから大丈夫だよ。」なのか。
僕自身は、雷は怖くない。ゴロゴロ言ってるくらいなら、心配することはない。家の近くに雷落ちたら音の大きさにビビり倒すけれども。
けれど、子どもたちは遠くの雷を本気で怖がっているようです。
どちらの言葉をかけるにしても、親としては、子どもたちの気持ちを落ち着けてあげたい、という想いから言葉をかけてあげます。
子どもたちが転んで膝を擦りむいて、泣いているときにも同じようなことを思います。
「血も出てないし、痛くないよ。」なのか「痛かったねえ。歩ける?大丈夫?」なのか。
しかし、雷を怖がる子どもたちの感情は僕が否定できるものではないのではないか?とふと思ったのです。
彼らの感情は尊重したい。
だから、「怖いけど大丈夫」を選択して伝えてあげたいな、と思ったのでした。

僕の過去のfacebook投稿から

情動反応の否定とラベル付けの強制が、何故良くないか。それは、学習が正常に行われないようにする行為だからです。

学習が、フィードバックを適切に取り込むこと、さらにフィードバックの機構そのもののアップデートすること、と定義されているので、自分の情動と感情に対するメッセージが適切でないと、学習がうまく起きません。
本書ではこういう表現はされていませんが、ハラスメントは、心を殺す行為、ということなのだと思います。

僕の挙げたエピソードは、人格攻撃を含まないので、”ハラスメント"にまで発展しなさそうだけれど、わかりやすく極端なやり取りに置き換えるとこういうことが起きうる、ということが問題提起されていると思います。

雷が鳴って、怖いと思い、それを父親である僕に伝える。
それを聞いた僕から雷を怖がるなんておかしい!と自分の情動反応を否定される。
あれ?これを怖いを思うのって変なのか。と、子どもたちが情動のスイッチをオフにしてしまう。
適切なフィードバックが得られず、インターフェイスが発達しないので、さらに、次の情動反応も封じられてしまう・・・

ハラスメントの結果起きることの例:外部規範へ無批判に従う

ハラスメントによって、フィードバックの回路が正常に駆動しなくなる弊害として、本書ではいくつか紹介されていますが、僕が一番、納得感をもったのは、「恥」と「罪悪感」の対比でした。
なにかがうまくいかなかったとき、恥は、自分の内的規範に沿うことができなかったときの感情であり、罪悪感は、自分の外的規範に沿うことができなかったときの感情である、と整理されています。

内的規範とインターフェイスがずれて、恥を感じた場合、インターフェイスの修正、という学習が行われますが、罪悪感を感じた場合は、魂とインターフェイスを切り離して、外的規範に合わせようとしてしまいます。情動を無視した、心が死んだ行動しか生まれなくなってしまいます。

そして、遮断された回路で構築された自分の認知に従い、他者とコミュニケーションをとるので、ハラスメントが、連鎖していくことになるようです。

最後には、ドラッカーのマネジメント論に接続する

ここまで、僕がうまくハラスメントの構造を説明できた自信はあまりないです。「コンテクスト」とか「パッケージ」などの重要な概念の説明ができていないです。しかし、もう僕の要約力は限界です。本の返却期限も明日に迫っているし。それはさておきこの本、最後の最後に、ドラッカーが出てくるんです。これがまた最高なんです。

マネジメント論で有名なドラッカーですが、デビュー作は「経済人の終わり」、次作は「産業人の未来」という本で、ファシズム全体主義にいかにして立ち向かうか考え、その答えがマネジメントである、とたどり着いたのでした。

全体主義とは、まさにハラスメントの極地で、構成員に対して「情動反応の否定とラベル付けの強制」を行っている状態といえます。ドラッカーは、これに対して組織を正常に機能させることが重要だ、と説いていたのです。

組織が正しく運営されるために最も重要なことは、組織が自らの状態をモニタリングし、フィードバックと学習を維持することである。

ハラスメントは連鎖する

この本の射程の広さに、最後までびっくりしました。

何が僕の心に刺さるのか。

これは三つくらいあります。長くなったので、ここからはサラリと書いてみます。

ここまで説明した人間感に強く共感すること。

情動-感情-ラベル付け、という枠組みで人間の認知を捉えることに、強く共感しています。共感も何も、学術的なスタンダードなのかもしれないですが・・・

情動が起点になること、学習によってインターフェイスが発達することをあわせて考えると、論理的に「みんな違ってみんないい」が導かれるはずなので、その点がすごく好きです。

僕が「科学」を好きな理由がこの本の考え方で説明できたこと。

恥と罪悪感のところで少し書きましたが、学習が適切に行われている状態は、外的規範ではなくて、内的規範に従っているはずです。

一般的なイメージでは、もしかしたら「科学」というのは外的規範に分類されるものかもしれませんが、僕にとっては、科学は、しっかり理解すれば、内的規範に取り込めるものじゃないか、と思うのです。

なぜか。それは、科学という営みは、現象について、頭ごなしに「こうなるんだから信じろ!」と情動を否定したり、ラベル付けを強制することはありません。なぜ、その現象が起こるのかを納得できるまで噛み砕いて説明しようとする営みなのです。

実際、この本の示してくれるフレームワークで組織をみると、役に立つことがたくさんある。

サマリーのなかで、「言語化力」をこの本のフレームワークで説明し直しましたが、同じように「自分ごと化」という言葉も、捉えなすことができると思います。
自分ごと、というのは、なにか、主体的に情報を取りに行くとか、アクションを起こせることを指すのではなくて、「その対象に触れたときに情動が動く」状態を指すのではないか、と仮説を立てています。だから、「自分ごとにする」ということは困難で「自分ごとになる」というのが適切な表現かもしれません。だとすれば、例えば、一緒に働いている人に何かを「自分ごと」にしてもらいたいと思えば、指示とか命令とかでは実現できず、いかにその人の情動を動かして、ラベル付けができるか、を考えたほうがいいのかもしれません。

このように、組織を見渡したときに、これまで考えていたのとは少し違う視点で物事を捉えることができることがたくさんありそうです。


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