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集団共有幻想遊戯の鎹 間(ま)

落語とは、集団共有幻想遊戯の道具である。」と堀井憲一郎氏が、落語論で述べている。
ものすごく簡潔な表現だ。

集団共有幻想をもたらす重要なパーツの1つに、「間(ま)」という技法がある。落語だけでなく、お笑いでも、話芸全般に語られる。広義な意味では、日本の文化にも重要な概念だと思う。

 柳家権太楼師は、自身の十八番が受けなかった経験から、こんなことを言っている。
「しゃべることは活字にしたら一字一 句まったくおなじ。けど、ほんのちょっとした間とかテンポで 、そこから出てくるものがちがうんだ。」
他にも理由はあるかもしれない。
お客の空気、その演目に至るまでの状況、もっというと自分自身(語り手も聴き手も)の今の心象環境。恋人と喧嘩中かもしれないし、寝不足かもしれないし、仕事がうまくいかず悩んでいるかもしれないということだ。

いろいろな変数が複雑に絡み合ってるから、「間」だけではないが、それでも「間」というパーツは、ほかの変数を吹き飛ばすほど、大きな値だとワタシは思う。


瀧川鯉昇師が高座に上がり、話始めるまでの長い長い「間」は、どんな変数があろうと、すべてDelete。もう待てないって、思わず吹き出してしまう。
あれ?って不安になって、徐々に緊張感が高まり、可笑しさが芽生える。話始めてこちらを安堵させる。「空気を変える」とは、まさにこのこと。

文章にすると現れない「間」。緊張や緩和をつくりだすのが「間」。
とても興味深い。

そんな「間」について、研究をまとめている方がいました。
一見無駄な研究に、時間をかけてる愛すべきヘンタイですね(リスペクトです)。こういう研究者が、いらっしゃるから我々の生活は豊かになるんだと思います。実際ワタシは、落語の「間」について理解を深められたのは、このような方のおかげです。

「間」といっても、さまざまに分類をされてます。その中で、ネーミング含めて興味深いのが、「端折(はしょ)りの間合い 」

落語は主として会話体で進行する話芸で、あることから、無言 ・沈黙のみならずいろんな「間合い」で展開してゆく。そのなかに、本来あってもよいはずの「間」が意図的に短縮されたり、もしくは一切省略された「間合い 」があり、これを「端折りの間合い」とよぶ。

意図して、沈黙の間合いをつくらないというのも、「間」であると初めて認識しました。
落語を聴いていて、登場人物の会話のつなぎ目がないなあーっと、ぼやっとは思ってましたが、1つの技法として意識的に活用しているんですね。

ナレーションもなく、場面転換も突然やってくる。(上方落語は見台を利用するのでわかりやすい)少しの声色と素振りで、違う場面の女将さんに変わったかどうかを、読み取らないといけない。
それについては、こう書かれている。

人間の脳はあいまいな事象を勝手につなげる作業が得意であり、この場面はその最大の活用の場ではないだろうかと思う。
このように、瞬時に場面転換して噺を進めることにより、聞き手はより一層の聞く姿勢の強化がおこなわれ、想像の集中度が増すと考えられる。

あえてわかりやすく、親切にしないことで、相互理解を強化している。
集団共有幻想遊戯のトリガーになっているのだ。


集団共有幻想遊戯の鎹(かすがい)は、「間」である。



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