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リアル若旦那はサラブレッドではない

伝統文化って世襲が多いですよね。いたずらに消費されにくいけど、イノベーションも起きにくくなる。良くも悪くも、その時々でどちらの面もある。芝居とよく比較されるけど、落語では、世襲がマイノリティです。

福岡天神落語まつりで、桂米團治師と柳家花緑師を連続で聴けました。お二人は、噺家で人間国宝の「お血脈」である。

演目は、
桂米團治師は、「本能寺」。
柳家花緑師は、「鶴の池」(白鳥の湖より)。

米團治師は、上方らしくホントに一瞬で、落語の國へ連れってくれる。ずっとワクワク盛り上がっている。実に気持ちがイイ。
手拭いで、芝居の幕をつくる仕草なんて、なんて芸が細かいんだ。
豪華絢爛な世界が、ワタシの脳内に広がるイメージで、ハメモノ(三味線太鼓の鳴り物)ってこうやって使うんだ!って肌で感じることができた。
芸の器用さ抜群。盛大!豪儀!

花緑師は、バレーの「白鳥の湖」を題材にした新作「鶴の池」という、なんとも演目名からして、グッっとくる。もうそれだけで、興味をそそる。テーマ設定の気高さ、視点の高さを感じさせる。内容もすばらしく、妖精が小僧さんにみえてくる、なんとも不可思議な世界観。知らないうちに、「湖」に引き込まれていたようだ。
若旦那が、王子様に変身しような噺といったところか。

江戸落語は、決して派手ではない。
ツアー旅行で、見知らぬ世界へ行くのではなく、気づいたら深い森に迷い込んでしまったってぐらい、きっかけなく誘(いざな)われている。
はじめは構えて座っていても、終わったときには前のめりになっている。

僭越ながら、両師の演目を聴いて、偉大な家系であることの苦しさと、それゆえの気高さを妄想してしまう。
この世に努力のしないサラブレッドは、いないのだ。

その証拠に、登場の拍手より、終わったあとの拍手の方が、断然大きかった。

至芸は、そういうものであると確信できた。



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