対話の原則3 自分の影響に気づく
名古屋の滞在先でふとテレビをつけた。親が子供を虐待死させた、アーティストが自殺した…。そんなニュースを当たり前のように、その速さで聞き流せてしまうことに慣れている自分がいること気づき、これは異常なのではないかと思った。ただそんな私でもアフガニスタンのニュースは聞き流せなかった。
…異常気象により家畜と畑は全滅。ある家族は住む場所を追われ、夫は略奪で殺害された。妻は、家族を食べさせるために娘を売らなければならなくなった。一方で、タリバーンに参加する男性は、略奪するものを糧に「妻と娘を食べさせるためにやらざるをえない。」と。みんなが「なんとか生きぬこう」と努力する因果の中で、水なき村に水を引いてきた中村医師は銃殺された。そんな報道だった。
私によると、この世界に悪人はいないけれども、悪い行為ととそれをせざるをえない社会構造はたしかにある。私は誰かに人身売買や児童虐待をしてほしいとか、中村医師に死んで欲しいと願ったことはない。それを素直に心から願う人間っているのだろうか。でも、私が無邪気に石油やプラスチックを浪費する時、そして、軍需産業に投資している会社や銀行にお金を渡す時、私はそれらの暴力に加担をしている。
多くの社会課題が互いにつながっているし、そのことに関して、部外者は、誰もいない。つまり、望むと望まざるとに関係なく、私たちひとりひとりは全く無力ではない。1グラムのドミノが連鎖して100キロのドミノを倒すように、私たちの一挙手一投足は、常に世界に大きな影響を与えている。そのドミノで潰された人がいた時に「そんなつもりじゃありませんでした。私が倒したのはほんの1グラムのドミノです」と言い訳したくなる気持ちはわかるけれども。
そんな影響力をもつ私たちだからこそ、いま急いで自分の仕事の意味についての問いの深度を変えなくてはならないと思う。「どうやってまちのゴミ拾いを効率的にするか」、それは大変立派なことだと思うけれども、無限に出てくるモグラを叩き続けるように見える。ほんとうは私たちは共にもっと偉大な仕事ができるはず。たとえば、「そもそも私たちがついしたくなっちゃうような、循環型の暮らしや働き方とはどのようなものだろうか。」。
そういう根本を、皆で変えていくための戦略的な探求を【対話】という。そして、根っこから大胆に変えるための勇気ある行動を皆で持ち寄ることが【協働】。私の仕事です。
対話と協働しよう!は、私たちが大好きな謙虚や遠慮とは、逆のことかもしれない。「小さくまとまるのはやめよう。」ってことだから。私たち一人一人はパワフルであるということ、それがつながった時にとてつもない力を発揮するということを私は信じている。
「大河の一滴に過ぎない」と言う言葉があるけれども、大河もまたその一滴がなければありえない。
その一滴、一滴が自分の内にあるトテツモナサに気付いた時になにが起こるだろうか。今日もその好奇心と共にあろうと思う。
「娘を売るしかなかった」、厳しい干ばつで住む場所追われ アフガン
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