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対話ってなにを「する」こと?|ダイアログの原理

自分とは異なる考え方を持つ人とはたらいたり、あらたな発明を生み出したり、一緒に望んだほうへ変化を起こすことを願って、「話し合い」をすることがありますか?

そんなことをがんばっているあなたであれば、こんなことを目の当たりにすることがあるかもしれません。

・表面的でどっちでもいいおしゃべりで終わってしまう
・同じ属性の人が居心地よくかたまる「内輪感」で、新しさがない
・みんなの意見をまとめようとして、無難な結論に終わってしまう
・あんなのじゃダメだと、会議が終わった後に本音が始まる
・仕切り役がいないと話し合いが止まってしまうか不安
・声が大きい人のみんなの意見が流されてしまう
・その影で、小さな声はなかったことになってしまう

私も数多くそういった経験してきました。そして、そのような話し合いは、ある種のクセのように繰り返されることが多く、それ変えるのは困難だと思うことがあります。「ああ、またこれか…」そんな調子です。

しかし、こんなことができたらいいなと思いませんか?

・大切なことを分かち合う
・二項対立や妥協を超えて、話す前にはなかったような気づきを生み出す。
・大きな声だけではなく、多様な声が聴かれる
・言葉未満のこと、普段は言いづらいことも、本音で語り合える
・話し合いが大変になったときにこそ、一緒に居られるような関係を作る

実は、日本や世界の各地で、そのような話し合いをしようと実践してきた人たちがいます。彼らは一体どんなことを、実際にやっているのでしょうか?

そういった成功事例たくさん観察してみたところ、やはり、国ごと、地域ごと個人ごとに様々なやり方があるようです。

しかし、その一方で、それらにはパターンがあることがわかりました。繰り返し現れている共通項のことです。その話し合いの秘訣は「対話の原理」と名付けられています。


対話の原理

対話の原理は、みんなで一緒に練習し続けることで、より大切な話し合いをしやすい関係性が育っていく実践のコツです。また、限られた時間の中で、実りあるやりとりをしやすくなるためのコツです。つまり、みんなでやってみるトレーニングメニューのようなものとも言えるかもしれません。

それゆえ、私は、大切な話し合いの前には、必ずそれをシェアして、一緒にやってみるようにお誘いしています。

具体的には、模造紙に書いて、会場の皆が見えやすい位置に張り出しておきます。そして、話し合いの本題に入る前に、5分〜10分くらい、それを意識しながら「今日のご機嫌」や「ここに参加している意図」などを参加者同士で話し合う時間を設けています。

また、「対話の原理」というと、少し堅苦しい感じがするかもしれません。そんなときに私はこんな風にお誘いをするようにしています。

「みなさん、これはお酒を飲まなくても、大切なことを本音で話せるためのヒントです。」

「限られた時間で、実りあるやりとりをするためのコツです」

「ルールではなくて、お誘いです。一人でもできますが、みんなで意識して話すと、もっと効果があります。やってみませんか。」

そんなふうにお誘いをすると、楽しみながらトレーニングを始めることができるはずです。

ちなみに、ググってみると、対話の原理にはかなりの数があることがわかります。今回ご紹介したいのは、「現場に立ってやってみる人」向けです。その中でも、Art of hostingという実践コミュニティで分かち合っているバージョンで、3ケ条に絞ったシンプルなものとなっています。

このnoteの意図/構成

まず前半では、行為論(何をするのか)から対話について紹介します。後半は、その補足として状態論(何であるのか/どのような効能があるのか)から、対話について私の考え方を書きました。

私は実務者ですから、前者の「行為として対話」を大切にしています。その理由を、戦後民主主義を手探りした思想家の一人である丸山眞男のことばを借りるとすれば、こうです。

「する」ことをせず、「である」ことに満足していると、それは失われてしまう。

「対話が大切」という言葉は、もう言い尽くされた感があるのではないでしょうか。もしあなたがそう感じるとしたら、対話は状態論で述べられることが多いのではないかと思います。つまり、何かの状況をみて、「あれは、対話である」「いや、そもそも対話とは何であるか」「もっと対話的であるべきである」などです。

それは例えていうなら、「あれは自転車である」「いや、あれは自転車ではない」という話を永遠にしている人たちばかりが増えて、「自転車に乗れる人がいない」みたいなことに陥ります。

それで、どう「する」のか?。私たちは、「対話的である状態」よりも「具体的に対話をすることとは何か」ををさぐり、試行錯誤し、日々の習慣の中に落とし込むことをそろそろ始めなくてはならないのではないでしょうか。

前書きが長くなりました。それでは、参りましょう。対話ってなにを「する」こと?「対話の原理」です。

対話の原理|3つの実践

対話を行為として捉えた時、次の3つから成り立っています。

1 意図を持ってはなす
2 学ぶために聞く
3 自分の影響に気付く

それぞれ詳しく見ていきましょう。

1 意図を持って話す。

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意図というのは、あなたの願い、狙い、想いのことです。大切だなぁと思っていることのことです。逆に言うと、「いつでもどこでも誰とでも話せるようなこと」ではないということです。わざわざ今日この場だから話してみようかなと思うこと、「今ここ」だから、話してみようかなと思うことを、お話ししてみませんか。

具体的には2つあります。

①あなたの経験に基づいて話す:私たちは普段からSNSやニュース、本で多くの情報に触れています。でも、あなたが昨日何をして、何を見て、どういう感情持ったか。それは世界であなたしか知らない特別なことです。その特別なことを持ち寄ったらこの話し合いはどうなるでしょうか。どこかの誰かが言ったかっこいいことではなくて、あなたの声と言葉を聞かせてください。あなたの実体験や、その中にあるあなたの感情をシェアするように話してください。あなたのストーリーを教えてください。

②目的に役立つように話す:私たちはおしゃべりしたくなっちゃうことが、いっぱいありますよね。でも、この場は、お忙しい中でわざわざ来ていただき、こうして集まっています。だからこそ、今日は、この場の目的、あるいは、あなた自身の目的に向かって狙いをしっかり意識してみましょう。そこに向かって、想いを放ってみませんか。逆に、目的に役立つと思えば、普段はちょっと言いづらいなぁと言うことも言葉にしてみませんか。「実は…」そんな話し方をしてもいいかもしれません。

2 学ぶために聴く

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経験があるからこそ、私たちが陥ってしまいがちなこともあります。話し合いをしていて、こんな風に思うことがありませんか。「この人の言ってること違うなぁ」「なんかこの人の言ってることやだなあ」。そして、聞く耳を閉じてしまう。

相手の声が音声としては耳に入っているのですが、相手に反論をしたり、アドバイスや説得をしたりしたくなってしまう。自分の有能さを示したい。私のほうが正しい。そんな気持ちで自分の頭がいっぱいになっていることがありませんか。それでは、人の話を聞いているとは言えませんよね。自分がすでに知っていることを、自分に再放送しているだけです。

そういったことを「判断をする」と言います。英語でいうと、ジャッジメント。相手に「裁きを下す」「決めつける」といってもいいのかもしれません。つい私もそういうことをしてしまうことがあります。

判断を保留する:そのような反応が自分の中であった時に、まずはゆっくりと深呼吸をして、決めつけを横に置くこと。それを、知的保留と言います。

②好奇心を持って聞く:その代わりに、このときにやってみたいのが、好奇心を持って聞くと言うことです。好奇心をもつと、私たちの耳は自然に開いてきます。「この人は何を伝えたいんだろう。何かこの人から学べることがないかなあ。何か盗めることがないかなあ。」。さて何が聞こえてくるでしょうか。普段は聞こえなかったことが、聞こえてくるかもしれません。そんなことにワクワクしながら聞いてみませんか。

3 自分の影響に気づく

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何のためにそれをやるかと言うと、ここにいる一人ひとりの声が大切に聞かれるようにするためです。そのためのスペース/器をつくるためです。

私たちは意識をしないと、ついそのスペースが埋めてしまうことがあります。大きな声、わかりやすいこと、都合のいいことによってです。

でも、ほんとうは、私たちの社会、組織、あるいは個人の中には、大きなものから小さなもの、わかりやすいことからわかりづらいこと、都合のいいことから都合の悪いことまで、実は様々な声がありますよね。つまり、私たちの声には、パワーの強いことから、弱いことまで存在しているということです。わざわざ言われると、あたり前に聞こえますが、まずは、そのパワーの違いに気づくことからはじめましょう。

その上で、「普段は聞かれづらいことも含めて、聞き受ける器」をみなで支えるために、具体的にやってみたいことがあります。

メタ認知:自分のあり方や声が、その話し合いの場にどのような影響をもたらしているのか。どんな波紋がそこに広がっているでしょうか。そんな俯瞰する目線をもつことが助けになるかもしれません。それをメタ認知と言います。つまり、「自分を見る自分」の目線です。鳥や雲になったつもりで、頭の上にカメラをつけてみてください。そうすると、話し合いをしているときに、こんなことに気づくかもしれません。「私は普段からおしゃべりが得意だな」「あ、もしかしたら今私は話しすぎてるかも」。そんな時は、原理その2「好奇心を持って聞く」を意識的にしてみてください。逆に、「私は聞き上手だな」「私聞いてばかりだなぁ」と言うことに気づいたら、原理その1です。意図を持って、"えいっ"と話してみてください。そうすることで、ひとりひとりの声が、より聞こえやすくなるかもしれません。

「わたしか、あなたか」という目線ではなく、「私たち目線」で見つめると、何が見えてくるでしょうか。この視点を身につけていくことは、新たな気づきをもたらすために極めて重要です。「AかBか」「してあげる/してもらう」という二項対立的なやりとりを乗り越えていくことにつながるからです。

実践のための補足1|「ダイアログ=対話」は、誤訳?

対話というと、それが「話し合いをすることだ」という風に誤解しがちです。現象レベルで見た時に、そのように見えるので、その誤解はやむを得ないことです。

しかし、対話というのは、必ずしも言葉のやりとりを通じて行われるものばかりではありません。

そもそも、英語のDialogueの語源は、ギリシャ語の「dia logos」です。diaは「通じる」「logosは「意味」。直訳すると、「意味が通ること」になります。

たとえば、サッカーグラウンドで選手同士がパスを出す時、ライブハウスでミュージシャンが即興演奏をする時、そこには言葉のやりとりはありません。しかし、意味が通じていますよね。そこでは、「言葉のないダイアログ」が成立しています。

また、ダイアログは「meaning making」とも言い換えられます。これは、「意味をつくること」です。一般的な語用として、意味を【見つける】と言われることもありますが、対話のやりとりは、むしろ、意味を【つくりあげる】ということです。

この定義が常に正しいということ主張したいわけではありません。その考え方が、現場で役に立つだけです。対話とは、意味を【つくりあげる】ことだと、その概念を共有していれば、私たちの話し合いは「今私たちが置かれた状況に、意味があるか/ないか」に終始することはありません。「今この状況に、この人生に、今ここから意味を創り上げたいか/作り上げることをやめたいか」という意思決定の課題として扱うことができます。

このような認識に立つと、あなたが誰かから「君たちのやっていることには意味がない」などと言われたときに、私たちは反応的にならずに済みます。むしろ、そのようなことを言う相手に慈悲をかけるスペースすら生まれるかもしれません。その人は、「既にある意味」「与えられた意味」を生きているのかもしれません。

意味はつくるものです。そして、本質的に、意味は自分で作らなければ、意味がありません。「そんなの意味あるの?」と言われた時は、共に意味をつくる探求へとお誘いしましょう。ロマンチックに。

実践のための補足2|規則でなく原理

これをお伝えする相手が、暗黙の規範意識が強い人たち、特に行政関係者などの「お堅い」方たちの時は、次のように伝えています。

これは原理・原則であって、規則ではありません」。

これらはあくまで成功事例を追った結果、共通して見えてきたパターンとしての「コツ」です。原則であれば、当然そこには例外もあります。

これは守らなくてはいけないルールではありません。もし対話をしようとする人同士で、つい「決めつけ」を誰かがしてしまった時に、「あー今のそれ、対話できないんだ。やーい、やーい」と人を指差して非難するためにつくられたものではないのです。そのように、対話そのものを目的化、規範化してしまった時、そのようなことが起きてしまい、かえって人と人の関係は息苦しくなります。

くれぐれも、対話そのものは、手段であることを確認してください。あなたは対話をしたいのではありません。対話を使って、何を実現したいのですかどのような変化を起こしたいのですか。

ちなみに、繰り返しになりますが、対話の原理はトレーニングメニューのようなものです。最初からうまくできる人なんていません。くれぐれも、原理を意識しすぎて、「間違ったら恥ずかしい」などとは、思わないでください。自転車に乗る練習をした時に、一度も転ばずに乗れた人は、ほとんどいないはずです。ぜひ、あなたの目的を確認して、それに役立つものを選んで、ご自身のタイミングとペースで実践を始めてみてください。

対話の効能(状態論)1|コンテナができる

この3つの原理の実践を通じて私たちは、このコンテナ/スペース/器をつくることを目指します。対話の場といわれる話し合いのことを、「器」ということがあります。

それはまるで、お餅つきの時の「臼」ようです。餅つきをするときに、もし臼が弱かったら?遠慮してしまって、餅つきができないし、もし強くついてしまうと臼が壊れて、お餅がびちゃと地面に落ちてしまい、食べ物にならないかもしれません。

あるいは、器とは、滋養豊かな土壌のようなものかもしれません。新しい命の恵を実らせるときに、土壌が痩せていると、いい果実は実りませんよね。単発ならともかく、収穫を続けるためには土を耕さなくてはなりません。

話し合いの場での「器」とはなんでしょうか。いくつかありますが、ここでは関係性のことと言っておきましょう。その話し合いの中にある関係性が、器として機能していないと、言いづらいこと、もしかしたら混乱を招くこと、都合の悪い発言をを、その器のに入れることをためらい、遠慮してしまうかもしれません。仮に器がない状態で、あまりに強烈な話題を突っ込んでしまうと、私たちは「キャパオーバー」をして、思考停止や逃避をしたくなります。

それゆえ、これから扱おうとする話題が、複雑であったり、シリアスであったり、対立する余地があるタフなものであるときこそ、みんなで責任を持って、対話の原理を実践して、頑丈な器=つながりをつくることを意識しなから、話し合いを進めることが大切です。

「ここならなんでも言えるし、何も言わなくても、ここに私はいてよいのだ」。そんな風に、参加者が安心して過ごすために、どのような環境や条件があるといいでしょうか。それはその時、その人、そのグループによって違いますので、会議の前に皆で言葉にしてみるのが役に立つでしょう。

「"安全な場"は、危険なことがない場ではない」: 心理的安全性は、Googleの生産性調査のおかげでバズワードになりましたが、誤解されることもあるようです。それは、「なんでもかんでも保護と承認をしあう、ぬるま湯的な馴れ合い」ではありません。「お互いに遠慮なくいられる。目的のために、ちがうと思ったことをちがうと言える。ぶつかり合っていい。それでも、大丈夫。私は不利益を被ることはなく、大切な存在として扱われ続けるだろう」と信じられる状態のことです。

対話の効能(状態論)2|話し合いの質の改善

「のんびり対話なんかしている暇はない」という風に言われることがあります。対話って、のんびり屋さんがすることなのでしょうか。

私はその逆だと思っています。先が見えない中で、緊急に話し合いをする時こそ、対話の原理が役に立つはずです。実際に役に立ってきました。なぜなら、それは話し合いの「質」を高めるからです。

私たちは限られた時間の中で、お話の「量」を増やしてしまうと、どうしても時間が足りなくなりがちです。私たちの話し合いや、人生の時間は、いつも時間が限られています。つい「いい話し合いができないのは、時間が足りなかったからだ」と言い訳をしたくなってしまいます。

そんなときに、ダイアログの原理に集中することができれば、きっと、仮に短い時間であっても、話したいことが話せて、聞けることが聞きやすくなります。大切なのは、量ではなくて質。それも、対話の原理をオススメする理由としてお誘いできればと思っています。

対話の効能(状態論)3|責任と自由を分かち合う

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これは、入門者ではなく、対話の実践がある程度育まれてきた人たちに対して、私はがお誘いすることです。「一緒により意味のあるやりとり出来ることについて、みんなで責任を持ちませんか

責任…?そんな風に言うと重たい感じするかもしれません。それゆえ、人をお誘いすることがしづらいでしょうか。

こう考えてみてください。責任と自由と言うのは表裏一体です。もし私たち一人一人が、「誰かのせい」にしないで、この話し合いという器をよりよいものにするために、共に責任を持つことができれば、私たちは自由な空間を一緒に作ることができるはずです。

それゆえ、「一緒に責任を持ちませんか」ということは、「一緒に自由になりませんか」というお誘いのことなのだと考えることができます。

それならば、重いどころか、むしろ、何か自由に羽ばたくようなエネルギーを感じることができるのではないでしょうか。責任を分かち合おうと誘うことは、参加する私たちひとりひとりの中に、自由をする力や知恵があることを信じる態度です。

もしあなたが相手を未熟で、力のない人だと思っていたら、「責任とろう」なんて、言わないはずですよね。共同責任への招待は、相手をお客様ではなく、同じ船に乗るクルーとして、やっていくことへのお誘いです。

ちなみに、この過程を経ていないと、特にプロジェクトの中盤以降で、議論が難しくなってきた時、ファシリテーターに批判が集まることがよくあります。それは「ファシリテートされ待ち」に人を仕立て上げてしまったファシリテーターの失敗ではないでしょうか。

ファシリテーターが持つ、結果への責任感、自分の有効性を示したいエゴ、ある種のプロ意識は、時にそのような失敗を生み出す罠になります。あくまで責任と自由は参加者が持っているのだという自覚をコミュニティの中で育てることが、より主体的に参加しやすい関係性を育む鍵になります。

(自由と責任は、表裏一体といいましたが、厳密には、「責任とは自由な対価であり、責任なき自由は未熟な破壊行為」だと私は思っています。なお、「自由」についてさらに詳しく考えてみたい方は、こちらの記事が役に立つかもしれません。)

https://www.tasc.or.jp/educate/monthly/article/pdf/article_1601.pdf

おまけ|分断の原理

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ちなみに、こんな風に、対話の原理を説明すると、やりたい気持ちになってもらえることがあります。

対話の原理をひっくり返すと面白いことが見えてくるのです。どういうことか、言ってみますね。

意図を持って話すことの反対は、どっちでもいいことを話す。学ぶために聞くの反対は、決めつけて聞く。自分の影響に気づくの反対は、相手をマウントする。責任を持つことの反対は、全部人のせいにする。

どっちでもいいことを話す。決めつけて聞く。相手をマウントする。全部人のせいにする

そうやったら、私たちは、みんながバラバラに別れていく、最悪な時間にできますよね?もしかしたら、そういった話し合いを経験したことがある方いるかもしれません。それゆえに、「その逆をやってみたらどうなるだろうか」。対話の原理はそんなお誘いです。

おわりに|「道」をいく

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冒頭に言ったように、私たちがずっとクセにしてきた「話し合いの仕方」を変えるのは、とても困難だと思うことがあります。それは、つまるところ、人とのつながり方や、自分の生き方を変えることにもなるからです。

それでも、先が見えない、答えのない中で望む変化を起こしたい。そんな思いを持つ方にに、この対話の原理は力になってくれるはずです。

ご自身の現場で、これを指針にして話し合いをすることが習慣化されたら、どんなことができるようになるでしょうか。ぜひこの対話の原理を思い起こしていただいて、自分のペースで実践してみてください。

私はこれを、Art of dialogue(対話道)といってもいいと思っています。茶道や剣道のように、これは「道」です。つまり、それは、基本的な型はありつつも、決まった答えはなく、また終わりのない修練や表現、つまるところ、ご自分のスタイルを獲得していくことです。

ぜひ、この実践の中に、まずはご自身が身を置き、そして、仲間をこの原理の中へとお誘いをしてみてください。

ということで、今回は、「プラクティス/実践」としての対話のお話でした。お読みくださってありがとうございました。このような長大なnoteを最後までお読みいただいた方は、大変な現場にいらっしゃるか、尊い思いをお持ちの方と想像します。このご縁に感謝します。

いつも、いいねやサポートありがとうございます。引き続き、お役に立てますように。今日もよい一日をお過ごしください。



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